【真田幸隆】攻め弾正と呼ばれた真田三代の祖

真田三代の祖である真田幸隆 。

息子・真田昌幸や孫・真田信繁と比べると知名度はやや落ちますが、活躍は全く劣りません。

外様(信濃衆)でありながら甲斐国譜代家臣同等の待遇を与えられた名将で、息子三人と共に武田二十四将にも数えられています。

真田幸隆の出自

真田幸隆は、永正10年(1513年)、信濃国小県郡の豪族・海野棟綱の子、または海野棟綱の娘婿であった真田頼昌の子として生まれたとされています。幼名は次郎三郎といいました。

もっとも、異説もあり、正確な出自は必ずしも明らかではありません。

また、その名についても、諸系図では「幸隆」と記されているため、本稿では、真田幸隆の表記で統一しますが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に「隆」を通字とする者がいないことなどからその名には疑問も呈されています。

武田信虎に敗れて領地を失う

甲斐国を統一した武田信虎が、享禄5年(1532年)、信濃国への侵攻を開始します。

そして、武田信虎は、天文10年(1541年)5月、諏訪頼重・村上義清と同盟を結び、武田軍が佐久郡へ、諏訪・村上軍が小県郡へ侵攻します。

これに対し、信濃国・小県郡を治める海野棟綱ら海野一族は総出で抵抗しますが尾野山城(上田城)が落城した後、同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北します。

これにより、当時29歳の真田幸隆は、小県郡に有した所領を失って側室の実家であった羽尾城城主の羽尾幸全を頼って上野国へ落ちていきます。

その後、羽尾幸全によって箕輪城主・長野業正の客将となった真田幸隆は、真田家再興のために関東管領・上杉憲政との目通りにこぎつけます。

ところが、実際に上杉憲政との面会が終わると、その将器の欠如を読み取って、関東管領上杉家への任官は諦めます。

武田信玄に降る

上州での任官を諦めた真田幸隆は、自身の領地を奪った甲斐国・武田家に新天地を求めます。

甲斐国では、父武田信虎を追放して家督を継いだ武田信玄が、本格的な信濃国侵攻作戦を展開しているところでした。

真田幸隆は、武田信玄に仕官すれば、いずれ信濃国・小県郡の旧領に復帰できるのではないかと考えます。

そこで、真田幸隆は、真田幸隆は、武田信玄に臣従することとなりました。もっとも、任官の時期は諸説ありるため明らかではありません。

① 天文12年(1543年)説

諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際、同じ滋野一族の禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測する説です。

②天文13年(1544年)説

この年に武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承に基づく説で、真武内伝の記載とも整合する説です。

③天文14年(1545年)説

沼田記にある記載による説です。

④天文15年(1546年)説

天文15年(1546年)4月に後北条氏が関東へ侵攻し、河越夜戦で上杉憲政を上野国から駆逐していることから、このときに真田幸隆も上野国を離れたとする説です。

⑤ 天文17年(1548年)説

上田原の戦いに破れて板垣信方・甘利虎泰らを失った武田信玄が、人材を求めて真田幸隆がそれに応じた、または真田幸隆が自分から売り込んだとする説です。

武田信玄の下で活躍

忍者を駆使して情報戦を行う

武田信玄に仕え始めた後、真田幸隆は、真田家の旗印に有名な「六文銭」を使い始めます。

六文銭は、三途の川を渡るための船賃の意味で、死を恐れず戦う真田の覚悟を意味しており、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟で、この旗印を用いたとされています。

そして、上記のとおり、その時期こそ不明ですが、真田幸隆は、武田信玄に臣従した後は、信濃先方衆として信濃侵攻作戦の軍役を務めます。

実際には、武田信玄の重臣である小山田備中守と共に行動をしていたそうです。

また、すっぱ(素破、透破)と呼ばれる独自の忍者衆を使用して、情報収集や佐久郡・小県郡・北信濃の在地土豪の説得に尽力します。

もっとも、砥石城攻めの際には、村上義清方の武将の切り崩し工作なども行っていますが、砥石崩れと呼ばれる大敗で一時は失敗します。

砥石城攻略(1551年5月26日)

武力によって砥石城を攻略できなかった武田信玄ですが、天文20年(1551年)5月26日、真田幸隆(真田幸綱)が、一兵も失うことなく僅か半日で砥石城を攻略します。

詳しい方法は明らかではありませんが、一説によると、真田幸隆の弟である矢沢頼綱が村上義清に属していたため、この矢沢頼綱を調略することによって真田幸隆が内部から切り崩して砥石城を乗っ取ったと言われています。

真田幸隆が砥石城を攻略した機を逃さず、武田信玄は、真田幸隆を支援するために信濃国東部の小県郡・佐久郡へと侵攻して抵抗勢力を一掃し、小県郡・佐久郡を完全に支配下に置きます。

そして、真田幸隆は、砥石城攻略の功績により、武田家重臣の小山田虎満や飯富虎昌とともに信濃国北部侵攻の先鋒を任されます。

そして、天文22年(1553年)4月、武田軍の先行隊が村上義清の居城・葛尾城に取りついたところで、防戦困難と悟った村上義清が居城・葛尾城を捨てて越後国の上杉謙信を頼って落ち延びていきました(その後、幾つかの合戦を経て、武田信玄が小県郡を確定的に獲得します。)。

戦功を挙げて旧領を回復する

小県郡・真田本城を得る(1553年8月)

長年のライバルであった村上義清を追い払った武田信玄は、その論功行賞として、天文22年(1553年)8月、真田幸隆を直臣に取り立てると共に、7歳であった3男源五郎(後の真田昌幸)を人質に出すことを条件として、獲得した信濃国・小県郡真田郷(現在の長野県上田市真田町)を与えます。なお、武田信玄は、この真田昌幸の才能を愛して奥近習衆に加え、以後真田昌幸は武田信玄・武田勝頼の下で大活躍をすることとなります。

これにより、真田幸隆は悲願であった本領の回復を達成します。

このころには、真田幸隆は、武田信玄の参謀の役を担うようになり、外様(信濃衆)でありながら甲斐国譜代家臣同等の待遇を与えられて甲府に屋敷を構えることも許されています。

北信濃攻略の最前線となる

武田信玄が信濃国・小県郡を獲得したことにより、武田領が・長尾(上杉)領と接することとなったため、ここから信濃北部の川中島四郡をめぐる10年続く川中島の戦いへと発展していくこととなります。

当然、小県郡を預けられた真田幸隆が最前線となります。

この点、村上義清の葛尾城は主に南側の武田軍に対する備えを重視していたのですが、これを得た真田幸隆は上杉のいる北側に対する備えにシフトする必要があり、防衛ラインの再構築が必要となります。

そこで、真田幸隆は、小県統治のための拠点を真田本城と定め、その整備とあわせて支城群の整備を行います。なお、真田本城は、真田昌幸が居城を上田城に移すまで、真田家の居城となります。

その後も、真田幸隆は、嫡男・真田信綱、その弟・真田昌輝と共に武田信玄の戦に出陣し、武功を挙げていきます。

出家(1559年)

永禄2年(1559年)、武田信玄が、信濃国をほぼ平定して信濃守護に補任されたことを契機とし、甲斐・信濃で永禄の飢饉と大水害によって多数の死者がでたのを鎮める意図もあって、出家して武田晴信から武田信玄と号します。

そして、これに倣って、真田幸隆も、同年出家して一徳斎と号しました(甲陽軍鑑)。

吾妻郡・岩櫃城を得る(1563年)

真田幸隆は、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたとされています。

また、真田幸隆は、武田信玄の西上野侵攻戦においても大活躍し、永禄6年(1563年)に斎藤憲広が守る岩櫃城を陥落させ吾妻郡を攻略します(なお、この功により真田幸隆はそれまでの小県郡に加えて吾妻郡代にも任じられています。)。

その後、武田信玄が箕輪城を陥落させた後の永禄10年(1567年)には、西上野に残る支城である白井城を攻略し、西上野平定に尽力しています。

真田幸隆の晩年

真田幸隆隠居(1567年)

その後、永禄10年(1567年)、真田幸隆は、病気のために家督を嫡男・真田信綱に譲って隠居します。

その後は、真田幸隆は、武田信玄の駿河侵攻戦西上作戦(遠江国・駿河国侵攻戦)には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして小県郡に留まります。

真田幸隆死去(1574年5月19日)

そして、真田幸隆は、天正2年(1574年)5月19日、岩櫃城で病死します。享年62歳でした。

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