【六角義賢】浅井長政・三好長慶・織田信長らと覇を競った南近江の戦国大名

六角義賢(ろっかくよしかた)は、南近江を治める戦国大名として、浅井長政や織田信長と覇を競った人物です。

父の代に最盛期を迎えた六角家ですが、六角義賢の代になると段々と周囲の勢力に押されていくようになり、家督を息子の六角義治に譲った後は、ジリ貧となって、遂には名門家を滅ぼしてしまいます。

一般にダメな武将として描かれがちな六角義賢ですが、武芸には優れており、特に、弓術は家臣の吉田重政に日置流(吉田流)を学び、印可を受けた腕前であったそうです。

本稿では、波乱万丈の人生を送った六角義賢(剃髪後は「承禎/じょうてい」と号したのですが、本稿では六角義賢で統一します。)について見ていきたいと思います。

六角義賢の出自

出生(1521年)

六角義賢は、大永元年(1521年)、近江守護・六角定頼の嫡男として、母・呉服前との間に生まれます。

六角家は、宇多源氏佐々木氏流から連なる家で、鎌倉時代の佐々木信綱の子の代に4家に分かれ、三男・佐々木泰綱が京都の六角東洞院(ろっかくひがしのとういん)に屋敷を与えられたのをきっかけとして六角を名乗ったのが始まりです(なお、四男・佐々木氏信はその隣の京極に屋敷を与えられたため、京極を名乗っています。)。

六角家は、佐々木源氏の嫡流とされ、代々、愛知川(えちがわ)以南の南近江の守護を歴任しています(京極家は、北近江の守護となっています。)。

元服(1533年4月21日)

六角義賢は、天文2年(1533年)4月21日、観音寺城で元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、義賢と名乗ります。

通称は、四郎といいました。

父・六角定頼との共同統治

六角家は、六角義賢の父・六角定頼の代になると、観音寺城(滋賀県近江八幡市)を本拠に、京を追われた12代将軍足利義晴および13代将軍義輝を保護して管領代(かんれいだい)として行動し、また、南近江のみならず、伊賀国の4郡の内の3郡の間接統治を行うなど権勢をふるいます。

そして、その力をもって、娘婿であった細川晴元を援助して、三好長慶と戦うなどしています。

浅井家を臣従させる

また、六角定頼の代には、北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、北近江に侵攻して事実上の臣従させることに成功します。

楽市政策(1549年)

近江国は、陸上交通、琵琶湖水運の要衝地であり、商品流通経済の先進地でした。

六角家は、この有用な立地に着目して、商品流通重視の国づくりを始め、織田信長が岐阜城下で始める18年も前の天文18年(1549年)に、観音寺城の城下町石寺新市において楽市政策を始めています。

家督相続と隠居

父・六角定頼死去(1552年1月2日)

天文21年(1552年)1月2日、父・六角定頼の死去に伴い、六角義賢が、六角家の家督を相続します(六角家15代当主)。

三好長慶と手を組む

六角義賢は、六角家の家督相続後も、13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦ったのですが、この頃になると畿内をほぼ制圧した三好長慶に抗しきれなくなり、三好方との戦いには敗れ続けます。

ここで、三好長慶との戦いに利がないと判断した六角義賢は、それまでの関係を一変させ、突如、三好長慶と手を組むこととします。

隠居(1557年)

また、六角義賢は、弘治3年(1557年)、嫡男・六角義治に家督を譲って隠居した上、剃髪して「承禎」と号します。

もっとも、隠居後も、六角義賢が六角家の実権を離さず、永禄11年(1568年)のいわゆる永禄崩れまで事実上の六角家当主として活動しています。

浅井長政との戦い

浅井長政の反乱(1559年)

六角義賢は、浅井家が六角家の臣下であることを明確化するため、浅井家の嫡男であった猿夜叉丸(後の浅井長政)の元服に際して自らの一字を与えて浅井賢政と名乗らせ、またその正室として六角家家臣であった平井定武の娘を娶らせます。

もっとも、この浅井久政の六角家に対する屈辱的外交政策に対し、浅井家内で不満が高まります。

そして遂に、永禄2年(1559年)、浅井家で、浅井久政に不満を持つ家臣団が、浅井賢政を担いでクーデターを起こします。

浅井家臣団は団結して浅井久政を強制的に隠居を迫って浅井賢政に家督を譲らせ、後を継いだ浅井賢政が、六角家との決別して、平井夫人を六角家に送り返します(また、後に六角義賢からもらった「賢」の字を捨てて浅井長政と改名します。)

その上で、浅井長政は、クーデターと同時に浅井・六角領の境界線に位置する六角家の国人領主に調略をしかけて愛知郡肥田城主・高野瀬備前守秀隆を浅井家に寝返らせます

六角義賢は、浅井長政の決別宣言と高野備前守の浅井方への寝返りに激怒し、すぐに肥田城に攻め寄せ、永禄2年(1559年)同城への力攻めを開始しましたが、肥田城が愛知川と宇曽川に挟まれた堅城であったため、これを攻略できませんでした。

力攻めでの肥田城攻略が困難と判断した六角義賢は、城の下手一帯に長さ58町(6.3km)・幅1間半(2.6m)と言われる規模の土塁を築いて宇曽川や愛知川の水を堰き入れ、水攻めでの肥田城攻略に戦略を変更しましたが、洪水によって堤が決壊したことにより肥田城の水攻めは失敗に終わり、肥田城攻略を諦め一旦居城・観音寺城に撤退します。

野良田の戦い(1560年8月中旬)

一旦は兵を引いた六角義賢でしたが、永禄3年(1560年) 8月、再び軍を整えて肥田城攻略に向かい兵を北上させます。

肥田城城主・高野瀬秀隆は、この六角軍の侵攻に際してすぐさま浅井長政に対して援軍の要請を行ったため、浅井長政は肥田城の救援のために小谷城から出陣して兵を南下させます。

こうして、肥田城の後詰である浅井軍と、肥田城を攻める六角軍とが、肥田城の西に所在する野良田集落の東南一帯・野良田表(現在の滋賀県彦根市野良田町及び肥田町付近)で宇曾川を挟んで対峙することとなりました。

この時の六角軍は、六角義賢を総大将とする2万5000人で、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔という布陣でした。

対する浅井軍は、浅井長政を総大将とする1万1000人にすぎず、圧倒的に六角軍が有利な状態でした。

同年8月中旬、この状況下で、浅井方の百々内蔵助と六角方の蒲生右兵衛太夫との間をそれぞれの先駆けとして野良田の戦いが始まります。

緒戦では、兵力に勝る六角軍が浅井軍を押し込んでいき、浅井軍の先駆隊指揮官の百々内蔵助が討ち死にします。

総崩れの危機に陥った浅井方では、総大将の浅井長政が先頭に立って鼓舞して指揮を高めるなどして戦線を維持し、野良田一帯で六角軍と浅井軍との大混戦となります。

ここでも兵力に劣る浅井軍が押されていくのですが、混乱に乗じて浅井長政は起死回生の一手を打ちます。

精兵のみで組織した軍をまとめ、六角義賢本隊の一点突破を敢行することとしたのです。

この浅井長政の一手は見事に成功します。

戦いを有利に進めていた六角軍は、混戦の中から突然現れた浅井軍突撃隊の攻撃に大混乱に陥り、この混乱を治められなかった六角軍は、そのまま総崩れとなって敗走し、野良田の戦いは浅井長政の勝利に終わります。

美濃国・斎藤家の対応で家中分裂

野良田の戦いに敗れた六角家では、六角義治主導の下で、それまで敵視していたとされる斎藤義龍と同盟関係を結んで浅井長政との戦いを進めようと画策します。

ところが、前当主・六角義賢は、自身の姉妹が美濃国守護・土岐頼芸に嫁いでいることもあって、土岐氏から美濃国を簒奪した斎藤家との同盟に反対します。

この結果、美濃国との関係を巡って、六角家中で、六角義治派と六角義賢派とに分かれて諍いが起こるようになります。

三好長慶との戦い

将軍地蔵山の戦い(1561年11月24日)

永禄4年(1561年)3月18日、三好長慶の弟である十河一存が死亡すると、六角義賢は、手薄となった和泉国を狙い、紀伊国の畠山高政と協力して対三好長慶の兵を挙げます。

そして、まず、畠山高政が、同年7月13日、紀伊国から和泉国に攻め込み、岸和田城を囲みます。

また、永禄4(1561年)年7月28日、これに呼応した六角義賢が、家臣である永原重澄を将軍山城(将軍地蔵山/勝軍山城)に入れ、自身は総勢2万人ともいわれる軍を率いて神楽岡付近に陣を敷いて上洛を伺います。

これに対し、三好長慶軍は、嫡男・三好義興(芥川山城主)率いる7000人を梅津城・郡城へ、重臣・松永久秀(信貴山城主)率いる7000人を京西院小泉城へそれぞれ入城させ、将軍山城の六角軍と対陣させます。

そして、しばらく睨み合いを続けた後、同年11月24日、三好義興軍が白川口に、松永久秀軍が将軍山城に向かって、それぞれ攻撃を開始します。

いずれの戦場でも激戦が繰り広げられたのですが、結果として三好方が敗走します。なお、六角義賢は、敗走する三好軍を追撃しようと考えたのですが、蒲生賢秀がその困難性を説いたために追撃戦をあきらめています。

六角義賢入京(1562年3月7日)

その後、永禄5年(1562年)3月5日、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現大阪府岸和田市)において、畠山高政軍と三好実休軍とが激突する大戦が起こり、畠山高政た勝利して三好実休が討ち取られます(久米田の戦い)。

この久米田の戦いの敗報が届くと、三好・松永軍は、六角義賢軍との対陣を解き勝竜寺城まで陣を下げます(13代将軍・足利義輝については、岩成友通を警護につけて石清水八幡宮に移しています。)。

三好軍の撤退により道が開けたため、六角義賢は、同年3月7日、軍を京に進めて上洛を果たし、同年3月8日には徳政令を敷いて山城国を掌握します。

三好長慶と和睦(1562年6月2日)

ところが、六角義賢は、山城国を占拠したところで三好長慶に対する攻撃を中止します。

もっとも、この六角義賢の突然の行動停止で畠山高政が苦境に立たされます。

畠山高政は、四国に大勢力を有する三好長慶との戦いの最前線に置かれているため、六角義賢が侵攻を停止すると、四国と畿内の三好勢力に挟撃されるためです。

そこで、畠山高政は、永禄5年(1562年)4月25日、六角義賢に対して三好長慶を攻撃するよう督促しますが、六角義賢はこれを黙殺します。

こうなると、畠山高政にはなす術がありません。

三好方は、同年5月10日、阿波に退いていた三好康長・加地盛時・三好盛政・篠原長秀・矢野虎村らが尼崎に着陣し、これに三好義興・三好長逸・三好長虎・三好政生・松永久秀・松山重治・池田長正ら畿内勢が合流して畠山高政討伐に向かっていきます。

そして、同年5月20日、三好軍は河内国教興寺(八尾市)に陣取る畠山方の紀伊国人・湯川直光と根来衆を打ち破り、畠山軍を壊滅させます(教国寺の戦い)。

また、この直後、松永久秀が軍を率いて大和国に侵攻し、同年5月23日までに、反三好方の鷹山城・十市城・筒井城・吐田城・宝来城などを次々と陥落させます。

六角義賢軍単独で三好長慶軍と戦う力はありませんので、同年6月2日、六角義賢は、三好長慶と和睦して山城国を三好長慶に返却し、本拠地・観音寺城に撤退します。

六角家の求心力低下

観音寺城から追放される(1563年10月)

六角家当主・六角義治は、永禄6年(1563年)10月、六角家重臣であり、家中での人望も高かった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こします。

六角義治が、このような凶行に出た理由は不明ですが、美濃国・斎藤家との関係を巡って意見が対立する六角義賢の影響力を排除する目的で、六角義賢の信任厚い後藤賢豊を殺害したとも言われます。

いずれにせよ、この六角義治による凶行は、六角家中で争いをもたらす六角義賢・六角義治父子に対する不信感を高め、遂には現当主・先代当主が居城・観音寺城を追われる事態に発展します(観音寺騒動)。

観音寺城に戻る

その後、六角家重臣の蒲生定秀・蒲生賢秀父子の仲介により、六角義賢・六角義治父子は観音寺城に戻ることができたのですが、当主が追放されるという事態に、六角義賢らの求心力は大きく低下します。

覚慶(後の足利義昭)来訪

永禄8年(1565年)5月、京で第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される事件(永禄の変)が起こり、命の危険を感じたその弟・覚慶(後の足利義昭)が近江国の和田惟政の下に逃れてきます。

このとき、六角義賢は、覚慶を援けてその上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れ、さらには後方の安全を図るために、織田信長・浅井長政の同盟(お市の方と長政の婚姻)の斡旋をするなどの準備を進めます。

ところが、六角義賢は、ここで三好三人衆に説得されて覚慶を攻撃する姿勢を示したため、身の危険を感じた覚慶は、若狭国の武田義統・越前国の朝倉義景を頼って南近江を脱出します(もっとも、覚慶は、朝倉義景が上洛のために動きだすことはないと判断し、次に織田信長を頼っています。)。

六角氏式目制定(1567年4月)

観音寺騒動を始めとする一連の失策により、求心力の低下した六角家では、永禄10年(1567年)4月、大名権力を制限する分国法である67ヶ条からなる六角氏式目(義治式目)が制定されます。

六角義治(義弼)が定めたとの体裁を取っているものの、実際は、蒲生定秀ら有力家臣が式目を起草し、20名の家臣と六角義賢・六角義治が式目の遵守を誓う起請文を相互に取り交わす形式で成立しています。

六角氏式目は、債務や民事訴訟に係る民事規定が中心であり、原則として在地の慣習法を尊重する一方で、領主の結束を図る手段も規定されるなど、他の分国法と異なり、大名の権力を制限するものとなっていることが特徴です。

織田信長の上洛交渉(1568年8月5日)

浅井長政との同盟により本拠地である岐阜から北近江までのルートを確保した織田信長は、上洛の神輿として足利義昭を奉じて、まずは外交ルートを用いて上洛のための行動に出ます。

具体的には、永禄11年(1568年)8月5日、馬廻り衆250騎を引き連れて本拠地・岐阜を出発し、京に向かって進んでいきます。

同年8月7日、佐和山城に着陣した織田信長は、南近江国の通行の許可を得るべく、観音寺城にいる南近江国を治める六角義賢・六角義治親子に、足利義昭の近臣である和田惟政に家臣3名をつけて、六角義賢が人質を出したうえで上洛軍に加わってくれれば摂津国を与えた上で幕府の侍所の所司代に任命するとの好条件を提示します。

ところが、六角義賢・六角義治親子はこの申し出を拒絶します。

織田信長が着陣する少し前に、足利義昭と対立する三好三人衆と篠原長房が観音寺城を訪れ、織田軍の侵攻に対する対応の評議を行っていたからです。

これにより、織田信長は、外交ルートでの南近江国通過は困難と考え、軍事ルート(力づく)での通過を決定し、軍事作戦の準備のため、佐和山城をあとにして一旦岐阜に帰国します。

織田信長上洛に対する抵抗戦

織田信長上洛軍迫る

織田信長は、本拠地岐阜に戻って兵を整え、永禄11年(1568年)9月7日、六角家討伐及び南近江国平定のため、 1万5000人の兵を引き連れて岐阜城を出立します。

この織田信長の上洛軍は、いわば将軍(候補)の上洛軍であったため、同盟者である北近江の浅井軍、三河国の徳川軍のほか、尾張国、美濃国、北伊勢からも続々と義勇兵が参陣し、その総数は5〜6万人にまで膨れ上がります。

こうして数を増やしながら進軍を続ける織田信長軍は、同年9月8日、高宮(現在の滋賀県彦根市)に、また同年9月11日、愛知川北岸に進出します。

六角軍の布陣

織田軍が愛知川に迫っているとの報を聞いた六角方では、織田信長がまずは愛知川の対岸(南側)にある和田山城を攻撃すると考えます。

そこで、六角方では、観音寺城と和田山城・箕作城を三角形で結んで相互に補う形で守る防衛形態をとり、和田山城で織田軍を足止めしたところを観音寺城と箕作城から出撃した兵で挟撃するという策をとります。

六角軍は、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6000人を置き、観音寺城に当主・六角義治、その父・六角義賢、弟・六角義定と馬廻り衆1000騎を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3000人をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に分け置くという布陣で臨みました。

織田信長の南近江侵攻

ところが、5万人とも6万人ともいわれる大軍となった織田軍は、六角方の想定を無視し、数に物を言わせた強硬手段で攻めてきます。

織田軍は、永禄11年(1568年)9月12日早朝、愛知川を渡河した後で軍を3隊に分け、六角方の拠点3城の同時侵攻作戦を仕掛けてきたのです。

具体的には、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、織田信長、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの第3隊が箕作城にそれぞれ向かったのです。

箕作城の戦い(1568年9月12日)

そして、戦端は、織田軍の主力が向かった箕作城でひらかれました。

箕作城では、木下隊2300人が北の口から、丹羽隊3000人が東の口から攻撃を開始します。

もっとも、箕作城は、急坂や大木が覆う堅城であり守備隊の士気も高かったため、木下隊・丹羽隊は夕方までに追い返されてしまいます。

そこで、木下隊は、再度夜襲を決行し、7時間以上もの攻防戦の結果、箕作城は夜明け前に落城します。

和田山城開城(1568年9月13日)

箕作城落城の知らせは、直ちに和田山城にも届き、士気が低下したを和田山城城兵の逃亡が相次ぎ、和田山城は戦うことなく明け渡されます。

観音寺城開城(1568年9月13日)

六角方は、長期戦を予想していたのですが、僅か1日で防御拠点の2つである箕作城・和田山城が相次いで失われたことに驚愕します。

また、元々主力を和田山城に置いていたために観音寺城には兵力が少なく守りきれないと判断した六角義賢・六角義治は観音寺城を捨てて甲賀に逃走し、観音寺城の戦いは終わります。なお、六角氏の居城が観音寺城であったため、この戦いは観音寺城の戦いと言われるのが一般的ですが、前記のとおり主戦城は箕作城であったため、別名として箕作城の戦いともいわれます。

当主・六角義治を失った観音寺城の18の支城は、1城を除き織田軍に降ります。

ちなみに、抵抗する唯一の支城は、六角家老臣・蒲生賢秀が守る日野城です。

蒲生賢秀は、六角方敗北の知らせを聞いてもなお1000人の兵を率いて日野城での籠城し、抵抗する様子を見せたのですが、蒲生賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が日野城に赴いて説得した結果、蒲生賢秀は降伏し、織田信長に人質(後の蒲生氏郷)を差し出して織田信長の配下に下っています。

織田信長とのゲリラ戦

本拠地を甲賀郡・石部城に移す

観音寺の戦いに勝利した織田信長は、立政寺にいた足利義昭に使者を送って出立を促し京へ向かいます。

他方、観音寺城を失った六角方は、甲賀郡の石部城に拠点を移すこととなったのですが、本領を失ったことによる戦力低下を覆せずジリ貧となっていきます。

織田信長狙撃(1570年5月19日)

京に入った織田信長は、瞬く間に畿内を制圧して一大勢力となり、元亀元年(1570年)4月には朝倉義景を征伐するために大軍を率いて京から越前国へ出陣します。

ところが、織田信長が、越前国に向かって侵攻している途中に義弟である北近江を治める浅井長政が反旗を翻します。

この結果、越前国で退路を断たれる形となった織田軍は、混乱し朝倉義景軍に大敗し、織田信長は、明智光秀・豊臣秀吉を殿に残して、命からがら京都に撤退するという結果に追い込まれます(金ヶ崎の退き口)。

このとき、六角義賢は、織田信長が、京を離れて本拠地である岐阜城に帰還すると判断し、その際には必ず千草峠を越えると踏み、そこで暗殺を試みることとします。

そこで、六角義賢は、急ぎ杉谷善住坊という鉄砲の名手を雇い、千草峠で織田信長を狙撃して暗殺するという計画を立てました。

そして、元亀元年(1570年)5月19日、実際に織田信長が千草峠を通過した際、杉谷善住坊が、12-13間(20数m)の距離で2発続けて発射したのですが、2発とも織田信長に致命傷を与えることはできず、かすり傷を負っただけの織田信長は、同年5月21日に無事岐阜に帰還しています。

岐阜に戻って勢力を整えた織田信長は、浅井長政・朝倉義景を討伐するために、軍勢を率いて北進していきます。

野洲河原の戦い(1570年6月4日)

織田信長暗殺に失敗した六角義賢でしたが、織田軍が北進していくことを聞きつけ、これを浅井長政・朝倉義景連合軍とで二面作戦にて攻撃(六角方からすると旧領回復目的です。)するために兵を挙げ、甲賀武士達と糾合し北進して織田方への攻撃を試みます。

もっとも、この六角義賢の動きに対し、元亀元年(1570年)6月4日、織田方の柴田勝家・佐久間信盛らが対応して両軍が野洲河原で交戦し、六角軍は三雲定持父子・高野瀬・水原・伊賀・甲賀衆など780人が討ち取られるなどして大敗しています。

織田信長と和睦

その後、六角義賢は、元亀元年(1570年)8月には、朝倉義景・浅井長政・三好三人衆らの蜂起(野田城・福島城の戦い)に同調して南近江の地で織田軍を圧迫し、また同年10月初旬には援軍に来た徳川軍とも戦っています。

包囲戦に苦戦した織田信長は、同年11月に足利義昭を通じて周囲の勢力と和睦し、このとき六角義賢らとも和睦をしています。

もっとも、六角義賢は、元亀3年(1572年)1月、甲賀郡から出陣して、湖南の三宅城や金森御坊(金森の一向一揆)と共に織田信長にゲリラ抗戦しています。

鯖江城陥落(1573年9月4日)

天正元年(1573年)8月、六角義賢と連携していた朝倉義景・浅井長政が織田信長に討ちとられ、越前朝倉家北近江浅井家が滅亡します。

そして、朝倉家・浅井家を滅ぼした織田信長は、同年9月4日、佐和山城に入り、柴田勝家に命じて六角義治の籠る鯰江城を陥落させています。

六角義賢の最期

石部城陥落(1574年4月13日)

そして、織田信長軍は、天正元年(1573年)9月、六角義賢の治める石部城や、甲賀郡北部の菩提寺城を包囲します。

六角義賢は、必死の抵抗を続けますが、天正2年(1574年)4月13日、遂にこれらの城が陥落し、城を捨てて落ちていきます。

この後の六角義賢については、甲賀と伊賀の国人を糾合して織田信長に抗戦した、石山本願寺の扶助を受けていた、隠棲したなどと様々な説がありますが、正確なところはわかりません。

また、伊賀国も、天正9年(1581年)4月、織田方に攻められてその独立を失っています(天正伊賀の乱)。

なお、同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けています。

六角義賢死去(1598年3月14日)

こうして一旦歴史の表舞台から姿を消した六角義賢でしたが、後に天下人となった豊臣秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598年)3月14日に死去しています。享年は78歳でした。

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