【大久保忠世】もう1人の徳川四天王とも言われる徳川十六神将

大久保忠世(おおくぼただよ)は、安祥城を本拠としていた時代から松平家に支えたいわゆる安祥譜代7家の1家に生まれた徳川家康を幼い頃から支えた古参家臣の1人です。

徳川家康の主要な戦いのほとんどに従軍し、激しい戦いを繰り広げた武田家との最前線となる二俣城を任され、徳川家康が関東に移封された後には、関東への東海道からの出入口となる小田原を任されるほどの強い信頼を得ており、後世には徳川十六神将の1人に数えられる徳川家康臣下の猛将です。

大久保忠世の出自

出生(1532年)

大久保忠世は、天文元年(1532年)、徳川氏(当時は松平家)家臣であった大久保忠員の長男として三河国額田郡上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれます。通称は、新十郎または七郎右衛門といいました。

なお、大久保家は、岡崎城を本拠とする前の安祥城を本拠としていた時代から松平家に支えていたいわゆる安祥譜代7家の1家とされる古参の譜代家臣の家であったのですが(柳営秘鑑)、大久保本家は伯父・大久保忠俊の家であり、大久保忠世の生まれた家はその分家でした。

もっとも、分家であるはずの大久保能員は子沢山であった上、その長男である大久保忠世、次男である大久保忠佐などが大活躍したため(八男である大久保忠教は後に旗本となって三河物語を記しています。)、江戸時代に入るとその立場は逆転しています。

蟹江七本槍(1555年)

弘治元年(1555年)に、今川家に下っていた松平広忠が、織田方の尾張国蟹江城を攻めるという戦いがあったのですが、このとき功名をあげたとして讃えられた松平方の武将7人に、大久保忠世の名が挙げられています。なお、そのほか6人は、大久保忠員・大久保忠佐・大久保忠俊(または大久保忠勝)・阿部忠政・杉浦吉貞・杉浦勝吉です。

徳川家康の下で活躍

三河一向一揆(1563年)

永禄3年(1560年)5月23日、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れて徳川家康が岡崎城入城を果たすと、大久保忠世もこれに従います。

そして、岡崎城に入った徳川家康は、今川氏真を見かぎって三河国で独り立ちする決意を固めてその準備に取り掛かり、三河国の平定を進めていきます。

西三河・奥三河に勢力を拡大させていった徳川家康は、経済力の強化を果たすために父・松平広忠が認めた浄土真宗本願寺派寺院に対する守護不入特権を否認し、これらに対して貢祖、軍役の賦課等を課すこととしました。

これに対し、それまでの特権を否認された浄土真宗本願寺派寺院は徳川家康に対する抵抗し、この動きに徳川家康に抗う勢力が便乗します。

その結果、西三河では、領主(徳川家康)と仏(浄土真宗本願寺派寺院)とが争う形となったため、領民はもちろんのこと徳川家康家臣団もまた領主側(主君への忠誠)と仏側(信仰)のどちらを選ぶかという選択に迫られ、松平家臣団がそれぞれの思想・思惑に従って、徳川家康に付き従う者、浄土真宗寺院側に付く者に分かれてしまいます(家ごとにというわけではなく、それぞれの家でも人によって分かれてしまうような状況となったのです。)。

もっとも、大久保忠世を含めた大久保一族は、そのほぼ全てが徳川家康方に与し、手分けして蜂起した勢力を次々と打ち破ったこともあって、三河一向一揆は最終的には徳川家康方の勝利に終わります。

旗本先手役を拝命(1566年)

徳川家康は、永禄9年(1566年)に東三河平定戦を勝利で終えて三河国を統一した後、軍制改革を行い、軍を徳川家康旗本衆、西三河衆(旗頭石川家成、後に石川数正)、東三河衆(旗頭酒井忠次)に分けて再編成します(三備の制)。

このとき、大久保忠世は、徳川家康直轄の旗本衆のうちの旗本先手役の1人に抜擢され、数十人の与力が付けられます(数十人の武士がそれぞれ数人の兵を従えていますので、実際には200〜300人を率いる大将です。)。

これにより、大久保忠世は、他の三河国衆や安祥松平家以外の松平一族を超える力を手にします。

三方ヶ原の戦い(1572年12月)

元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いでは徳川家康に付き従って戦うも敗れ、大久保忠世もまた他の徳川軍の将兵と共に浜松城を目指して逃れていきます。

もっとも、大久保忠世は、そのまま浜松城に入ることなく、榊原康政らと共に兵を率いて浜松城の東南側にあった西島に500人の兵で陣を敷いて夜を待ちます。

これは、敗走して来た徳川軍を武田軍が追撃してきた場合、この武田軍を攻撃するための布陣でした。

そして、同年12月23日夜、大久保忠世は、榊原康政・天野康景らと共に兵を率いて武田軍を奇襲します(犀が崖の夜襲)。

勝ち戦に安心していた武田軍は、突然の奇襲を受けて混乱します。

この大久保忠世らの奇襲に対し、敵将の武田信玄が「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛したと言われています(もっとも、この逸話は大久保忠世の弟である大久保忠教が記した三河物語が出典ですので信憑性に疑問があります。)。

いずれにせよ、この後、大久保忠世・榊原康政らの陣に掛川城から石川家成が2000人の兵を率いて合流したため2500人の布陣が出来上がったことから、挟撃を恐れた武田軍は浜松城攻撃が出来なくなり浜松城を前にして戦線が膠着し、しびれを切らした武田軍が浜松城を攻撃することなく刑部城→野田城へと西に向かって進んでいったため、浜松城は陥落することなく持ちこたえることができました。

第一次犬居城の戦い(1574年)

三方ヶ原の戦いに大敗した徳川軍でしたが、その後の武田信玄の死を奇貨として、武田軍に対して失地奪還作戦を展開します。

徳川家康は、天正元年(1573年)9月には長篠城を奪還し、その後、かつては徳川家康に与していた天野藤秀が治める遠江国北部の犬居城攻めを始めます。

この犬居城攻城戦に際し、大久保忠世は、敵兵の抵抗によって崖下に落とされてしまったもののそこから這い上がり、待ち伏せしていた敵兵3人を一度に斬り伏せるという活躍をしたと言われています。

もっとも、徳川軍は、天正2年(1574年)4月、気田川の洪水と兵糧の欠乏によって犬居城の囲みを解いて撤退を開始したのですが、その際に追撃を受けて徳川家康が天方城まで敗走するという大惨敗を喫します(三河物語)。なお、大久保忠世は、このときの撤退戦に際し、榊原康政と共に殿を務めています。

設楽原の戦い(1575年5月21日)

天正3年(1575年)5月21日の長篠設楽原の戦いに際しては、援軍である織田軍に三河武士の誇りを見せつけるため、弟である大久保忠佐らと共にあえて馬防柵の外側に布陣して武田軍最精鋭部隊である山県昌景隊に攻撃を仕掛けて設楽原決戦の火ぶたを切り、合戦中を通じて激戦を繰り広げています(勝楽寺前の激戦)。

このときの大久保忠世・大久保忠佐兄弟、与力の成瀬正一・日下部定好らの活躍には目を見張るものがあり、後に織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、また徳川家康から功を賞してほら貝が与えられています。

二俣城主となる(1575年12月)

長篠設楽原の戦いで武田軍を追い払った徳川軍は直ちに反攻を開始、天正3年(1575年)6月には鳥羽山ほか5箇所に陣城を築いて二俣城を包囲します。

その上で、同年8月14日には遠江国東端にある諏訪原城を落城させ、また同年12月24日には城兵の撤退を条件として二俣城を開城させます(二俣城主であった城代依田信蕃は駿河田中城に撤退しています。)。

二俣城は、天竜川と二俣川との合流点にある水運の要衝地である上、北にある信濃側と南部の遠州平野との出入口に位置する重要拠点であることから、武田・徳川の最前線と言える場所にあります。

そのため、重要拠点である二俣城を維持するため、天正3年(1575年)12月、徳川家康は、大久保忠世に二俣城を与えこれを守らせます。

二俣城に入った大久保忠世は、その後の武田家の攻撃に備えて二俣城の大改修を行って防備を固め(二俣城跡に残る天守台や、支城である鳥羽山城の庭園などは大久保忠世によって築かれたものであると考えられています。)、その後の複数回に亘る武田軍の攻撃を全て跳ね返すという活躍を見せています。

なお、二俣城に入った大久保忠世は、その後も武田軍との戦いに忙殺され、徳川軍によるリベンジ戦となる犬居城攻城戦にも参加し(第二次犬居城の戦い)、天正4年(1576年)7月にその支城の樽山城・勝坂城などを次々と攻略し、天野藤秀を追い払って犬居城を獲得する戦いでも功を挙げています。

また、大久保忠世は、天正10年(1582年)までの間に三河一向一揆の際に徳川家康に造反して出奔した本多正信の帰参の口利きをしています。

松平信康切腹事件(1579年9月15日)

徳川家康とその嫡男であった松平信康との関係が悪化すると、徳川家康の命によって松平信康が岡崎城から、大浜城・堀江城を経て大久保忠世が入る二俣城に移されます。

そして、松平信康は、二俣城において、父・徳川家康からの切腹命令があったことを聞かされます。

このとき松平信康は、二俣城主であった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したのですが、徳川家康の命に逆らうことができない大久保忠世はこれを聞き入れず、天正7年(1579年)9月15日、二俣城において松平信康が切腹して果てます。享年は21歳でした。
なお、松平信康は、服部正成の介錯で自刃することとなったのですが、服部正成が刀を振り下ろさなかったため検死役の天方道綱(山城守)がやむなく急遽介錯したのですが、これにより居場所を失った天方道綱は出家するに至ったと言われています(柏崎物語)。

天正壬午の乱(1582年)

天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に起こった天正壬午の乱により徳川家康が甲斐国・信濃国を獲得すると、大久保忠世は、信州惣奉行として信濃国に派遣されて小諸城にて在番し、実働する依田信蕃の監視を務めています。

なお、依田信蕃の功績を高く評価した徳川家康は、天正11年3月、同嫡男に「康」の偏諱と松平姓を与えて元服させ、松平源十郎康国と名乗らせて小諸城と6万石を与えているのですが、大久保忠世が若き依田康国の後見人を任されています。

その後、大久保忠世は、天正13年(1585年)に沼田領の帰趨を巡って徳川家康と真田昌幸とが争って起こった第一次上田合戦において、鳥居元忠平岩親吉らと共に真田昌幸の籠る上田城を攻めるも、地の利を活かした真田昌幸の戦法により1300人もの戦死者を出して大敗しています。

相模小田原4万5千石を得る(1590年)

天正18年(1590年)、小田原征伐後に徳川家康が関東に移封されると、大久保忠世もまた徳川家康の関東入封に従って関東入りします。

このとき徳川家康は、江戸に繋がる街道の出入口に主要家臣を配置することとし、大久保忠世は、相模国小田原(足柄上郡・下郡147か村)4万5000石を与えられ東海道街道の出入口の防衛を任されます。

石高が井伊直政(上野国箕輪12万石)、結城秀康(下総国結城及び常陸国土浦10万1000石)、本多忠勝(上総国大多喜10万石)、榊原康政(上野国館林10万石)に次ぐ第5位である上、主要街道であった東海道防衛を任されていることから大久保忠世の評価の高さが際立っています。

また、大久保忠世とは別に、嫡男である大久保忠隣は武蔵国羽生に2万石、弟である大久保忠佐は上総国茂原に5000石を与えられており、一族を通じての評価は別格です。

このような高評価から大久保忠世を徳川四天王に数える見解もあります(石高だけで見れば徳川四天王筆頭である酒井忠次よりも上です。)。

大久保忠世の最期

大久保忠世死去(1594年9月15日)

小田原に入って小田原藩を立藩した大久保忠世は、酒匂川の治水事業に取り組み、富国強兵に務めます。なお、大領を得た大久保忠世でしたが、驕ることはなく、倹約の習慣として1ヶ月の内に7日間、食事を摂らない日を設けるという節制を自らに課していたと言われています。

その後、大久保忠世は、文禄3年(1594年)9月15日死去します。享年は63歳でした。

大久保忠世後の大久保家

大久保忠世の死去後、嫡男であった大久保忠隣が大久保家の家督を相続し、治水事業と新田開発を引き継いでいます。

また、大久保忠隣は、武蔵国羽生2万石を加増され(慶長6年/1601年に上野国高崎13万石への加増を打診されていますが固辞しています。)、さらには老中として幕閣に入って権勢を揮ったものの、慶長19年(1614年)に改易処分とされています。

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