【奥平信昌】武田勝頼から長篠城を守り切った徳川家康の娘婿

奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は、織田徳川連合軍と武田勝頼軍とが戦った長篠設楽原の戦いのきっかけとなった長篠の戦いの渦中にいた戦国武将です。

長篠城主として周辺巨大勢力の中を巧みに生き抜いていた奥平家に生まれた奥平信昌は、徳川家康の長女・亀姫を室に貰い受けて重用されました。

もっとも、縁故で出世した人物ではなく、武田軍から長篠城を守り切ったり、武田遺領切り取りに尽力したり、京都所司代として安国寺恵瓊を捕縛したりするなど、数々の功を挙げた極めて有能な武将です。

その能力を評価され、初代上野小幡藩主、その後初代美濃加納藩主となり、10万石もの大領を得るという立身出世を果たした人物でもあります。

奥平信昌の出自

奥平信昌出生(1555年)

奥平信昌は、弘治元年(1555年)、奥三河・作手の有力国人であった奥平定能(貞能)の長男として生まれます。

母は牧野成種の娘であり、幼名は九八郎といいました。

なお、奥平信昌は、生涯で九八郎→貞昌→信昌と名を改めていますが、便宜上本項では奥平信昌の表記で統一します。

奥平家が徳川家康に下る

奥平家は、奥三河という今川・武田・徳川などの大勢力に接した難しい場所を領していたため、これらの勢力の緩衝地帯となっていました。

そのため、奥平家としては、その都度周辺勢力のうちで有意な状況にある勢力に与することでその命脈を保っている状態だったのです。

そこで、奥平家は、弘治2年(1556年)に織田家、その半年後に今川家、永禄9年(1566年)頃に徳川家康に下るなど、次々と与する勢力を変えていました。

元服

正確な年月日は不明ですが、永禄年間に奥平信昌は元服して、名を「奥平貞昌」と改め、奥平貞友の娘である「おふう(於フウ)」を室に貰い受けます。

武田信玄に下る(1570年)

元亀元年(1570年)12月、甲斐・信濃を治める武田信玄麾下の秋山虎繁率いる2500人が、徳川領の三河に向かうため、途中の東美濃・恵那郡上村(現在の岐阜県恵那市上矢作町)へ侵攻してきたのですが、このとき奥平信昌は、父・奥平定能と共に徳川援軍として山家三方衆・三河衆ら2500人と共に迎撃に出ています(上村合戦)。

もっとも、このとき既に武田方に内通していた奥平家は、殆ど戦うことはなく、戦いは武田軍の勝利に終ります(もっとも、その後織田信長から明知光廉が援軍として派遣され、この軍勢と小田子村で戦った秋山虎繁は、進行を諦めて信濃国伊那郡へ撤退しています。)。

前記のとおり、上村合戦が起きた頃には、奥平家は徳川家から武田家への鞍替えを決めていました。

そこで、元亀元年(1570年)中に、奥平家は奥平信昌の正室「おふう」・奥平信昌の弟「仙千代」・奥平勝次の息子「虎之介」の3人を人質として武田家に送り、正式に武田家に臣従することとなりました。

その結果、奥平信昌は、元亀3年(1572年)10月から始まった武田信玄の西上作戦にも武田軍の将の1人としてこれに従軍しています。

徳川家康に下る

亀姫を室にもらい徳川家康に下る

破竹の勢いで徳川領を蹂躙していった武田軍でしたが、元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が死去したことによって西上作戦は作戦終了となり、武田軍が本領の甲斐国などに引き返していきます。

この後、領内を荒らされた徳川家康は、急いで領内の安定化と軍備の再整備を進めた上で、奪われた旧領の奪還のために動き始めます。

そのために、武田領との最前線となる自領の城の防衛網を強化すると共に、同年5月には駿河国に、同年7月には奥三河への侵攻を行い、さらには武田領の各勢力に調略を仕掛けていきます。

同年7月に奥三河に入った徳川軍は、武田方の室賀信俊が治める長篠城への攻撃を行い(三河物語)、対する武田軍も長篠城に後詰を送って徳川軍と対峙します。

もっとも、ここで武田勝頼が失態を犯します。

長篠城攻防戦の最中の同年6月、奥三河の有力国衆であった「山家三方衆」のうちの作手の奥平家と田峰の菅沼家との間で東三河の牛久保領をめぐる諍いが起こったために奥平定能が甲府に使者を遣わして武田勝頼にこの問題を訴えたのですが、武田勝頼が山家三方衆で相談して配分すると述べた上、奥平定能に譲歩まで求めたのです。

徳川家康はこのチャンスを逃しませんでした。

徳川家康は、奥平定能に対して、①亀姫(徳川家康の長女)と奥平信昌(奥平定能の嫡男)との婚約、②領地加増、③奥平定能の娘を本多重純に入嫁させるという条件を提示して、同年9月、奥平家の調略を成功させると共に、その協力も得て長篠城を武田方から奪い返します。

なお、徳川家康は、奪還した長篠城に、一旦、松平伊昌を入れています。

おふう処刑(1573年9月21日)

こうして武田家を裏切って徳川家に下る決断をした奥平定能は、徳川家康から亀姫をもらい受けるため、奥平信昌と武田家に送っていたその妻おふうを離縁させます。

もっとも、奥平定能の離反を知った武田勝頼は激怒し、天正元年(1573年)9月21日に、奥平家から人質に取っていた3人を処刑します。

なお、この3人は、同日、別々の場所で奥平貞昌の妻「おふう(16歳)」は磔、奥平貞昌の弟「仙千代(13歳)」は鋸引、奥平勝次の息子「虎之介」は磔の方法により処刑されたと言われています。

奥平家の家督相続(1573年)

以上の経過により、徳川家康の長女・亀姫を室に貰い受けた奥平信昌でしたが、主家となった徳川家康に最も近い立場となった奥平信昌が当主となるのがふさわしいと考えられるようになります。

そこで、奥平信昌は、同年、父・奥平定能から奥平家の家督を譲りうけ、奥平家の当主となり、天正3年(1575年)2月、対武田の最前線となる長篠城を与えられて同城に入ります。

長篠の戦い

武田勝頼の西上作戦(1575年4月)

甲斐国に戻った武田軍でしたが、武田信玄の死により一時中断していた西上作戦の再開を目指し、武田勝頼を仮当主(陣代)として家督相続に伴う諸雑務を処理した後、積極的な勢力拡大策を進めていきます。

手始めに、武田勝頼は、天正2年(1574年)2月には、武田信玄の西上作戦の際に攻略した岩村城の南西部にある明知城(同じく東美濃にある明智城と混同しやすいのですが違う城です。)を攻略し、さらに同年6月、父・武田信玄でも攻略が叶わなかった高天神城の攻略を果たします(第一次高天神城の戦い)。

高天神城攻略により自信をつけた武田勝頼は、武田信玄が果たせなかった西上作戦を引き継ぐ決意をし、畿内で織田信長が石山本願寺や三好康長への対応に忙殺されている隙をついて、天正3年(1575年)4月、1万5000人の兵を率いて再び徳川領への侵攻を開始します。

このときの武田勝頼の狙いは、徳川家康の首でした。

二俣城を通過して西に向かった武田軍は、二連木城を攻撃して徳川家康を浜松城から釣り出しこれを夜戦で討ち取ろうと考えたのですが、浜松城を出た徳川家康がそのまま吉田城に入ったことから野戦での決着とはなりませんでした。

そこで、武田軍は、徳川家康が入った吉田城攻めを試行したのですが、東三河の要衝であった吉田城は堅固であったため、攻撃目標を裏切者の奥平信昌が籠る長篠城に切り替えます。

長篠城包囲戦(1575年5月1日)

長篠城は、一国衆に過ぎない奥平家によって守られた小さな城であったため籠った兵は僅かに500人程度だったのですが、東西南を川で囲まれた天然の要害に立ち、さらに200丁の鉄砲や大鉄砲を備えていましたので、その規模からは想像できないほどの防御力を持つ堅城でした。

この点については、かつて奥平家を臣下にしていた武田家は長篠城の防衛力を熟知しています。

そこで、その先の徳川軍との決戦を見据えて兵の損失を避けたい武田勝頼は、長篠城に対する力攻めを諦め、同城に対する兵糧攻めを選択します。

そして、武田勝頼は、天正3年(1575年)5月1日、長篠城の東側に本砦たる鳶ヶ巣山砦と4つの支砦(中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ケ臥床砦)の計5つの砦を築かせ、また東側を歴戦の諸将によって取り囲むことにより長篠城を包囲した上で長篠城の兵糧蔵に火を放って食糧を焼き、奥平信昌からの降伏の使者が来るのを待つこととします。

当然ですが、大軍に包囲された上、兵糧までもが失われた長篠城に武田軍の囲みを突破する力はありません。

また、直前に武田から徳川に寝返った奥平信昌に、再度武田に下るという選択肢もありません(ここで、長篠城を明け渡しても奥平信昌が処刑されることは明らかだったからです。)。

困った奥平信昌は、徳川家康からの援軍を急がせるため、天正3年(1575年)5月14日夜、長篠城から鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を送り出し、約65km離れた徳川家康の居城・岡崎城に向かわせます。

不浄門を通って長篠城を出た鳥居強右衛門は、夜陰に紛れて寒狭川に潜り、武田軍の厳重な警戒線を突破して、翌同年5月15日午後には岡崎城にたどり着いて徳川家康に長篠城の現状報告と援軍要請を伝えます。

織田徳川軍が到着(1575年5月18日)

長篠城危うしの報を聞いた徳川家康は、急ぎ徳川軍8000人を引き連れ、徳川援軍として集結していた織田信長軍3万と共に急ぎ長篠城に向かって進軍していきます。

こうして岡崎城を出発した織田・徳川連合軍3万8000人は、天正3年(1575年)5月18日に長篠城の西側約25kmに迫ります。

長篠城解放(1575年5月21日)

もっとも、織田信長は、ここで単に長篠城を解放するだけではなく、武田軍を一気に殲滅するための策を練ります。

織田信長は、率いてきた織田・徳川連合軍を設楽原に布陣させて野戦築城でこれを守り、そこに長篠城を囲む武田軍をおびき寄せてその隙に手薄となった長篠城を別働隊で解放して武田軍の退路を断った上、設楽原で武田軍を殲滅するという作戦を立案します(このうちの別働隊案は、徳川家康臣下の酒井忠次の献策であったと言われます。)。

そこで、織田信長は、まずは設楽原に防御陣を作り上げた後、4000人(徳川軍2000人と織田軍2000人)の兵を選抜してこれを酒井忠次に預け、西進してくる武田軍を南側から迂回して豊川を渡河した上で、尾根伝いに進んで長篠城東側を封じている砦群を奇襲させることとします。

天正3年(1575年)5月21日早朝、南側から回り込んで鳶ヶ巣山砦を強襲した酒井忠次隊が、同砦を攻略した後、さらにその他の4つの支砦(中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦)の攻略に成功し、これによって長篠城は解放されます。

また、さらにこの酒井忠次隊に長篠城の城兵を加えた軍が、長篠城の西側に布陣していた武田支軍をも一掃したため、設楽原に進んだ武田本隊は退路を断たれることとなり、武田軍が織田・徳川連合軍に設楽原において大敗します(設楽原の戦い)。

奥平信昌に改名

以上のとおり、織田・徳川連合軍は、長篠城包囲戦・設楽原決戦(長篠設楽原の戦い)に勝利したのですが、長篠城を武田軍から死守することで大勝利のきっかけを作った奥平信昌は、徳川家康のみならず織田信長からも極めて高く評価されます。

徳川家康は、奥平信昌に対し、長篠城籠城戦の功を讃えて名刀大般若長光を授け、またこの籠城戦を支えた奥平家重臣12名に対してそれぞれに労いの言葉をかけた上で彼らの知行地など子々孫々に至るまでその待遇を保障するという御墨付きまで与えるなどしています。

また、織田信長は、奥平信昌に対して、自身の名から「信」の字を与え、このときまで名乗っていた「奥平貞昌」から「奥平信昌」に改めさせたと言われています(なお、この点については、徳川家康の臣下であった奥平信昌が、織田信長から偏諱を賜るなど考え難く、元々武田晴信(武田信玄)から偏諱を賜っていたのであるが、後世に奥平家の誰かが家格に箔をつけるために織田信長から偏諱を賜ったとの話を創作したとする説も有力です。)。

徳川家で重用される

天正壬午の乱で尽力(1582年)

その後、本能寺の変が起こると、徳川家康が権力の空白地帯となった武田遺領への侵攻を開始したのですが(天正壬午の乱)、ここで奥平信昌がかつての武田家臣として作り上げた人脈を使って武田遺臣の取り込みと、武田遺領の反乱防止に尽力しています。

徳川家の軍政改革に尽力(1585年)

天正12年(1584年)3月17日の小牧長久手の戦いの初戦である小牧山城争奪戦となった羽黒の戦いの際には、奥平信昌は、徳川先行隊であった酒井忠次率いる隊の先鋒として、羽黒砦に布陣した森長可隊を破り勝利に貢献しています(羽黒の戦い)。

その後、天正13年(1585年)、徳川家の筆頭家老の1人であった石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔し、徳川家の軍事機密の流出防止が緊急の大問題となります。

このとき、徳川家康は、そのままでは豊臣秀吉に軍事情報を全て知られて攻め滅ぼされると考え、急ぎ三河国統一時に整備した軍制を全て一新することとし、武田流の軍制に改めることとします。

この軍政改革に際し、かつて武田家に臣従していた奥平信昌もまたこの軍制改革の主力として動員されこれに貢献しています。

上野国宮崎3万石を得る(1590年8月)

天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉によって徳川家康が関東に移封されると、奥平信昌もこれに伴って関東に移り、同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石を与えられます。

京都所司代任命(1600年9月)

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いの際には本戦に参加したと言われていますが、家史・中津藩史では徳川秀忠軍に属していたとの記載がありますので、正確な従軍状況は不明です。

なお、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、京の統治・朝廷公家の監察・西日本諸大名の監視・五畿内及び近江丹波播磨の8カ国の民政を総括する機関として、京都所司代を設置し、同年9月、奥平信昌を初代京都所司代に任命します。

京都所司代となった奥平信昌は、関ヶ原の戦いの際に西軍に与した諸将の捜索を行い、臣下の鳥居信商(鳥居強右衛門の子)が六条近辺に潜んでいた安国寺恵瓊を捕縛し大津にいた徳川家康の陣所に送るという成果を挙げています(同年10月1日処刑)。他方、太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられています。

奥平信昌は、その後翌慶長6年(1601年)まで京都所司代を務め、板倉勝重に引き継いで退職しています。

美濃国加納10万石転封(1601年3月)

そして、慶長6年(1601年)3月、奥平信昌は、それまでの一連の功への褒賞として美濃国加納10万石へ加増転封されます。

そして、加納に入った奥平信昌は、徳川家康の命(天下普請)によって大坂方の巻き返しに備え、慶長5年(1600年)に廃城となった岐阜城から石垣や櫓などを流用するなどして加納城を築城しています。なお、加納に入ったことから、奥平信昌の室である亀姫は加納御前とも呼ばれ、城下にある光国寺に墓所が設けられています。

なお、それまでの奥平信昌の所領であった上野国宮崎は、奥平信昌の長男である奥平家昌に残されたのですが、同年12月28日(1602年2月19日)、その奥平家昌もまた北関東の要衝地である下野国宇都宮10万石に加増転封されています。

奥平信昌の最期

隠居(1602年)

美濃国加納に移った奥平信昌は、翌慶長7年(1602年)、家督と藩主の座を三男・奥平忠政に譲り隠居します。

その後、奥平信昌の長男・奥平家昌が慶長19年(1614年)10月10日に、次男・三男・奥平忠政は慶長19年(1614年)10月2日に父に先立って死去します(次男・松平家治はその前の天正20年/1592年3月4日に早世しています。)

奥平信昌死去(1615年3月14日)

そして、奥平信昌は、慶長20年(1615年)3月14日に死去し、美濃国加納・盛徳寺(臨済宗妙心寺派)に葬られます。

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