【織田信孝】羽柴秀吉に屈して切腹した織田信長の三男

織田信孝(おだのぶたか)は、織田信長の三男として生まれ、庶子でありながら織田信長に愛され重用された武将です。

武将として有能であり人柄もよかったために織田家中の評判も良かったようですが、母の家柄の悪さから織田信長・織田信忠死亡後に織田家を継ぐに至らず、台頭してきた羽柴秀吉に屈して非業の死を遂げた人物でもあります。

無念から自らの贓物をぶちまけて死んだなどという壮絶なエピソードも残っています。

本稿では、そんな無念の武将・織田信孝について見ていきたいと思います。

織田信孝の出自

出生(1558年4月4日)

織田信孝は、永禄元年(1558年)4月4日、織田信長の3男として側室であった坂氏との間に生まれます。

もっとも、実際には織田信孝は、第2子とされる織田信雄よりも20日先に生まれていたが、織田信雄の母が嫡男・織田信忠の生母であり織田信長が愛した女性でもあった生駒殿(吉乃)であったため、織田信雄が次男扱い、織田信孝が3男扱いにされたとも言われています(この結果、織田信孝は織田信雄に対して敵意を抱き続けていたとも言われていましたが、この恨みを裏付ける資料は存在していません。)。

生まれた場所は、熱田にあった小田家臣・岡本良勝(太郎右衛門)の邸と言われており、幼名は勘八とも伝わっているものの正確には不詳です。

織田信孝は、通称を三七ないし三七郎といいました(なお、次男とされた織田信雄の通称は三介とされています。)。

神戸家の養子となる(1568年2月)

織田信長は、永禄11年(1568年)2月、織田信長が伊勢国北部を平定したのですが、このとき獲得した地を治めるため、まだ数え11歳であった織田信孝を神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(友盛)の養嗣子とします。

織田信孝の神戸家入りに際し、織田家臣団も大量に送り込まれていますので、事実上の神戸家の乗っ取りです。

他家に出されたとは言え、織田信孝が庶出の3男にすぎないこと、織田信長が4男以下の子供をほとんど顧みなかったことを考えると、この扱いは異例の抜擢であると考えられます。

このときに神戸家に入ったことにより、以後、織田信孝は、神戸三七郎を名乗ります。

神戸家乗っ取り(1571年)

こうして神戸家に入り、また神戸具盛の娘である鈴与姫を正室に貰い受けた織田信孝でしたが、神戸家乗っ取りのために派遣されてきた織田信孝が良く扱われるはずもなく、織田信孝は養父である神戸具盛から冷遇されて過ごします。

これに怒った織田信長は、元亀2年(1571年)1月、神戸具盛を蒲生賢秀に預けて近江国日野城に幽閉します。

これにより、織田信孝が神戸氏の家督を継承します。

このとき、神戸具盛の幽閉と織田信孝の神戸家の家督相続に抗議した高岡城主であった神戸家家老・山路弾正は一族もろとも殺害し、120人もの旧臣が追放されたといわれています。なお、天正元年(1573年)春には、反抗的な態度が目についた神戸家の与力であった関盛信が、蒲生賢秀に預けられて近江国・日野城に幽閉され、居城であった亀山城が没収され織田信孝に与えられています。

神戸家を相続した後、織田信孝は、織田信長の命令に従って、元亀2年(1571年)ころから検地(神戸検地)を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注いだため、神戸城下は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えました。

織田信孝元服(1573年?)

 

元亀3年(1572年)1月、織田信孝は、織田信忠・織田信雄と共に岐阜城で元服したとの記録ありますが(勢州軍記・柏崎物語)、織田信忠の元服は天正元年頃と言われており、弟である織田信孝が兄である織田信忠よりも先に元服したとは考え難いため、おそらく誤りであると考えられています。

織田信忠の元服時期から推測すると、織田信孝の元服時期は、天正元年(1573年)7月以降と考えるのが合理的と考えます。

織田家の遊撃軍として各地を転戦

初陣(1574年7月)

この頃の織田信孝の知行地は、伊勢国の河曲郡・鈴鹿郡であり、5万石ほどの知行でした。

元服を果たした織田信孝は、以降、伊勢衆を率いて織田家の遊撃軍団として重要な戦いに転戦して行きます。

初陣は、天正2年(1574年)7月、第三次長島一向一揆鎮圧戦でした。

伊勢国分割統治

織田軍が伊勢国・長島を平定後、滝川一益が北伊勢4郡に封じられたため、伊勢国は滝川一益・神戸信孝・長野信包(信長弟、伊勢長野氏養子)、織田信雄(翌年頃に北畠氏の家督を継いでいます。)の4人で分割統治されることになりました。

その後、天正3年(1575年)8月、織田信包・織田信雄と共に越前一向一揆討伐戦に参加し、残党狩りに従事しています。

また、天正4年(1576年)には織田信雄の家臣との内紛である三瀬の変の後始末に出陣しています。

畿内・播磨国攻め

天正4年(1576年)11月28日に19歳の若さで織田信忠が織田家の家督と岐阜城と美濃東部と尾張国の一部を譲られると、以降、織田信孝は織田信忠の指揮下で戦います。

天正5年(1577年)2月に雑賀攻めにも参加し、天正6年(1578年)5月には織田信忠に従って、羽柴秀吉救援のために播磨国に出陣し、三木城包囲戦に加わります。

そして、同年6月27日の三木城の支城である神吉城攻略戦では、足軽と先を争って勇敢な戦いを見せたそうです。

同年11月に荒木村重が謀反を起こした際には、織田信忠に従って出陣し、有岡城の支城である高槻城攻囲に加わっています。

神戸城大改築(1580年)

天正8年(1580年)、伊勢国・神戸城の拡張工事に着手し、金箔瓦を張った五層の天守や、石垣、多数の櫓を持つ近世城郭を完成させています。

馬揃え(1581年)

また、織田信孝は、天正9年(1581年)2月27日に織田信長によって開催された京都御馬揃えにも参加し、連枝衆(一門衆)の参加者の中でで、織田信長の嫡子織田信忠80騎、織田信雄30騎、織田信長の弟織田信包10騎に次ぐ4番目10騎に名前が挙がっています。

その後、同年7月25日、織田信忠・織田信雄・織田信孝の3名が安土城に呼ばれて、織田信長から直々に名刀を拝領しています。

同年10月には、織田家に従わない高野山を屈服させるため、高野山攻めを開始していますが、このときの総大将を織田信孝がつとめたという説もあり、さらに、天正10年(1582年)春頃には、紀州に出陣しています。

四国方面軍総大将に(1582年5月7日)

中央で統一事業を進めていた織田信長と四国平定を目指す長宗我部元親とは良好な関係にあり、織田信長は長宗我部元親に四国の切り取り次第でその領有を認めていました。ところが、天正8年(1580年)、織田信長が、長宗我部元親に対し、土佐国と阿波南半国のみの領有として臣従するよう迫りました。

当然、長宗我部元親はこれを拒絶し、長宗我部家と織田家が敵対関係となります。

織田信長は、長宗我部元親の征伐を決意し、同年2月9日、三好康長(咲岩)を先鋒隊として四国に向かわせます。

その上で、織田信長は、天正10年(1582年)5月7日、織田信孝を四国攻めの総大将に抜擢し、副将に丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を付けて長宗我部元親の討伐と四国平定を命じます。

この四国方面軍総大将に任命に際し、織田信長は、織田信孝に対して、四国平定後には讃岐一国を信孝に与えるとの朱印状を与えています(阿波国は三好康長に与え、伊予・土佐二国の帰属は信長が淡路島に出陣した時点で申し渡すとしました。また、四国平定後に織田信孝が、三好康長の養嗣子となり、三好氏を継いで四国を治めることが予定されていたようです。)。

なお、織田信孝の四国攻めに際し、織田信孝の養父・神戸具盛が12年ぶりに幽閉を解かれ赦免された上、隠居地の伊勢沢城に戻され、織田信孝遠征中の神戸城の留守居役を命じられました。

四国遠征のための無茶な募兵

四国方面軍総大将という大役を命じられた織田信孝は張り切り、所領の北伊勢の河曲・鈴鹿2郡の15歳から60歳に至る名主・百姓を尽く動員するという暴挙に出ます。

動ける者は全員集合というとんでもない命令です。

ところが、これでも足りないと判断した織田信孝は、伊勢国内の牢人衆、伊勢各地の国衆を急遽召し抱え、近隣の伊賀衆・甲賀衆、紀州の雑賀衆なども手あたり次第に徴兵します。

さらに織田信孝の徴集は丹州(丹波国・丹後国)や南山城国相楽郡にも及び、国衆に対して兵糧・飼葉・武器弾薬・船人夫を調達して四国遠征軍に補給するように命じていた。

織田信孝は、このようにして集めた烏合の衆1万4000人を従え、同年5月27日、安土に伺候します。

織田信孝の集めた大軍を見た織田信長は喜び、織田信孝に対し、「一夜に大名にお成り候」というほどの人夫・馬・兵糧・黄金など莫大な贈り物を与えます(イエズス会日本年鑑)。

そして、同年5月28日、織田信孝軍は、四国へ向かうために摂津国に至り、織田信孝と蜂屋頼隆は住吉に、津田信澄は大坂に着陣します。

そして、に先行待機していた九鬼嘉隆率いる鉄甲船9隻を含む志摩・鳥羽水軍、紀伊海賊衆の100艘と合流し、これらの調整をして、同年6月2日または3日に、住吉・大坂・堺から船を出し、四国へ向かう予定とされました。

ところが、四国に向かって出航しようとしていたまさにその日である天正10年(1582年)6月2日早朝、織田信孝の下に大事件の知らせが届きます。

織田信長横死による混乱

本能寺の変(1582年6月2日)

天正10年(1582年)6月2日早朝、四国への出港準備を進めていた織田信孝の下に、明智光秀の裏切りにより織田信長と織田信忠が討ち取られたとの報が届生きます。

織田信長は、知らせを聞いて驚き、直ちに四国遠征を取りやめます。

そして、軍をまとめて京に向かい明智光秀に対し弔い合戦に及ぼうと考えます。

ところが、この織田信長横死の報が、陣中に漏れてしまい、織田信孝の大軍が烏合の衆であったことが裏目に出ます。

織田信孝に義理など全くないため、織田信孝軍では逃亡が相次ぎ、1万4000人いたはずの軍勢がみるみる減っていきます。

津田信澄殺害(1582年6月5日)

ここで、軍の立て直しを図る織田信孝は、自身の副将であった津田信澄が明智光秀に加担しているとの噂を信じ(このとき、巷では津田信澄が明智光秀の娘婿であったこと・裏切者である織田信勝の子であることなどから、津田信澄が明智光秀に加担しているというと噂が流れていました。)、まずは津田信澄を討ち取ることを決断します。

そして、織田信孝は、殘る軍勢を率いて住吉を出て北進し、天正10年(1582年)6月5日、丹羽長秀・蜂屋頼隆と共に大坂城に立ち寄り、明智光秀の娘婿であることを理由に大坂城千貫櫓を襲って津田信澄を殺害します。

なお、このときの付帯状況や現存史料を見る限では、津田信澄が明智光秀に加担していたことはなかったようですが、津田信澄を殺害したことで、織田信孝軍の士気は回復し、何とかそれ以上の軍勢の離散を防ぐことができました。

もっとも、織田信孝軍は、この時点でわずか4000人程度にまで減少しており、もはや単独での軍事行動ができない規模にまで縮小してしまいました。

羽柴秀吉の中国大返し

明智光秀軍に最も近いはずの織田信孝らが大坂で手をこまねいている間に、中国方面にて毛利家と対峙していた羽柴秀吉が大軍を率いて畿内に戻ってきます。

そして、天正10年(1582年)6月11日、羽柴秀吉が中国大返しで備中高松城より軍を返して摂津国尼崎に着陣すると、織田信孝が出向いて羽柴秀吉と会見します。

翌同年6月12日に軍議が行われ、羽柴軍2万人に対し、織田信孝軍4000人であったため、家格は織田信孝が上であるものの、織田信孝が総指揮を執ることは困難と考えられました。

そこで、名目上、織田信長の弔い合戦の総大将に織田信孝を立て、実際の総指揮を羽柴秀吉が執ることに決まります。

山崎の戦い(1583年6月13日)

天正10年(1582年)6月13日に起こった山崎の戦いでは、少し遅れて織田信孝軍も4000人の兵を率いて摂津国富田で合流し、明智方の斎藤利三軍と戦うなどし(織田信孝軍の野々懸彦之進が斎藤利三軍に討たれています。)、最終的には2万人を擁する主力である羽柴秀吉軍の活躍により明智光秀を撃破します。

羽柴秀吉との対立

清洲会議(1582年6月27日)

(1)清須会議参加者

天正10年(1582年)6月27日、織田信長亡き後の織田家後継者および遺領の配分を決定することを目的に、尾張国・清洲城(愛知県清須市)で開催されました(清洲会議)。

このときに集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人であり(滝川一益は不参加)、織田信雄と織田信孝は会議の席上から外されて徳川家康と共に会議の決定に委任してそれに従う形で誓紙を交わしています。

(2)織田家家督の承継

織田家の後継者問題では、織田信長の次男・織田信雄と3男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張して引かなかったため、羽柴秀吉を中心とする宿老たちが事前に織田信長の嫡孫である三法師を御名代として織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と織田信孝が後見人、傅役として堀秀政が付き、これを執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐することで話を纏めます。

(3)織田信長遺領の再配分

① 一門衆

領地再分配のうち、一門衆では、新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を、織田信雄が尾張国を、織田信孝は美濃国を相続することに決まり、また織田信長の4男で秀吉の養子である羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続することに決まります。

そして、織田信忠の本拠地であった岐阜城を与えられた織田信孝が、事実上、そのまま同城で暮らしていた三法師の後見役を務めることになりました。

なお、織田信雄が支配することになった尾張国と織田信孝が支配することになった美濃国の国境について両者の意見の対立があり(信孝は洪水による木曽川の流路変更を理由に国境線自体の変更を求めた)、織田信孝の意見を支持する羽柴秀吉(織田信孝の意見を支持する代わりに三法師を安土に移動させる算段であった。)と織田信雄の意見を支持する柴田勝家の対立に繋がります。

なお、このときは、最終的に織田信雄の意見が認められることとなり、織田信孝の不満を強めていく一因となっています。

② 家臣団

次に、家臣団では、柴田勝家は越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江3郡12万石の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられます。

次に、丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡を、池田恒興は摂津国から3郡を、それぞれ加増されました。

さらに、羽柴秀吉には河内国と山城国が増領され、丹波国も含めると28万石の加増になりました(この結果、力関係が柴田勝家と逆転します。)。なお、羽柴秀吉は、この後柴田勝家を仮想敵として本拠地を山崎城に移します。

③ 徳川家康

なお、織田家の従属大名状態となっていた徳川家康からは、旧武田領国の平定(天正壬午の乱)についての同意の求めがあり、会議内でこれを了承しています。

柴田勝家に接近

清洲会議による領地再配分により、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下する一方で羽柴秀吉が重臣筆頭の地位を占めることになり、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられました。

そして、羽柴秀吉は、清洲会議後に三法師の傅役となった堀秀政を取り込んだ上、執権の丹羽長秀及び池田恒興を懐柔し一大勢力をを形成していきます。

これに対し、織田家一門衆をないがしろにして勢力を高めていく羽柴秀吉に危機感を感じた織田信孝は、羽柴勝家と組んで反秀吉陣営を構築し、これに清洲会議に参加できなかった滝川一益も加わります。

なお、織田信孝は、柴田勝家を取り込む意味もあり、叔母であるお市の方と柴田勝家との関係を仲介し、天正10年(1582年)10月頃、岐阜城で両人の婚儀がとり行います。

こうして、織田家は、親羽柴派と反羽柴派に2分されることとなりました。

そして、同年10月6日、柴田勝家は、羽柴秀吉が堀秀政を介して清洲会議の決定に違反しているとの弾劾状を諸大名に送り、自陣営への参加を促しています。

織田信長の葬儀

勢力を高めて行く羽柴秀吉は、段々と織田家に対する配慮を失っていきます。

そして、羽柴秀吉は、天正10年(1582年)10月11日から15日にかけて、大徳寺において羽柴秀勝を喪主に立て挙行し、葬列では羽柴秀吉が織田信長の位牌を持つことにより、世間に自分が織田信長の後継者であると事実上告知します。

なお、織田家では異母弟・羽柴秀勝(喪主)、信長の乳兄弟でもあった池田恒興・古新親子が参加したが、当主・三法師、その後見人の織田信雄、織田信孝、宿老の柴田勝家、滝川一益は出席を見送っています。

清洲会議決定の破棄(1582年10月28日)

岐阜城にいる織田信孝が三法師を抱えて離さないため、自身の行動の正当性を確保できない羽柴秀吉は、ついに主家である織田家に牙を向け始めます。

羽柴秀吉は、天正10年(1582年)10月28日、宿老である丹羽長秀・池田恒興と協議の上、織田信孝と柴田勝家の謀反を理由として、清洲会議での決定を破棄し織田信雄を織田家の家督に据えるとの決定を下します。

なお、この決定には、清洲会議の体制に含まれる徳川家康の承諾も必要だったのですが、徳川家康は同年12月22日付で羽柴秀吉に織田信雄の家督相続に祝意を表す形で承認しています。

こうして、羽柴秀吉・織田信雄陣営と、柴田勝家・織田信孝陣営との対決は不可避の方向に進んでいきます。

羽柴秀吉挙兵(1582年12月)

羽柴秀吉は、清洲会議で決定していた三法師の安土城移転を果たさないことを理由として織田信孝に謀反ありと決めつけ、天正10年(1582年)12月2日、羽柴秀吉と織田信雄らは三法師奪還を名目に挙兵し、これに丹羽長秀、池田恒興ら多くの諸将が同調します。

柴田勝家が雪で動けなかったため、織田信孝陣営は圧倒的な劣勢となり、羽柴秀吉は、長浜城の柴田勝豊を降した後、織田信孝が籠る岐阜城を囲みます。

後詰のない織田信孝軍に勝ち目はなく、同年12月20日、織田信孝は、三法師を秀吉に引き渡して安土城に送ると共に、母の坂氏や乳母、娘らを人質として供出することを条件として羽柴秀吉に降伏します。

こらにより、織田信孝の威信は地に落ち、家老の岡本良勝、斎藤利堯や与力の氏家行広らが織田信孝側を離れて羽柴秀吉側に寝返り、また東美濃で独立的行動をとっていた森長可、稲葉良通らも羽柴秀吉の軍門に下る結果となりました。

反羽柴秀吉の挙兵

滝川一益挙兵(1583年1月)

羽柴秀吉の行動に対抗し、反羽柴秀吉陣営も動き出します。

まずは、天正11年(1583年)正月、北伊勢で滝川一益が反羽柴秀吉を掲げて挙兵します。

これに対して、羽柴秀吉は、滝川一益討伐のために軍を派遣して滝川勢に占領された国府城を奪還したのですが、その後滝川一益の長島城を囲んだところで戦線が膠着します。

柴田勝家挙兵(1583年3月)

次に、天正11年(1583年)3月、雪解けを待って柴田勝家が挙兵し、南進を開始します。

長島城を攻撃していた羽柴秀吉は、柴田勝家の出陣を知ると、長島攻めは蒲生氏郷・織田信雄に伊勢を任せ、自身は柴田勝家と決戦をするため、近江国に向かって北進していきます。

こうして越前から南進してきた柴田軍と北伊勢から北進してきた羽柴軍とが、北近江・余呉湖付近で対峙することとなりました(賤ヶ岳の戦い)。

織田信孝挙兵(1583年4月16日)

そして、織田信孝も、天正11年(1583年)4月16日、滝川・柴田の動きに呼応して岐阜城で挙兵して城下に繰り出し、羽柴秀吉に下った稲葉良通(稲葉一鉄)の所領を焼き討ちにしています。

小田信孝の挙兵により、羽柴秀吉は、滝川一益に対する伊勢戦線、柴田勝家に対する近江戦線、織田信孝に対する美濃戦線の3方面作戦を強いられることとなり、苦しくなります。

そして、岐阜城から織田信孝が侵攻してくると北近江の地で柴田軍とで挟撃される危険があるため、翌同年4月17日、豊臣秀吉は、まずは美濃戦線を抑えるという決定をし、柴田勝家を豊臣秀長と黒田官兵衛に任せて自身は本隊2万5000人の兵を引き連れて翌4月17日に岐阜城の西に位置する大垣城まで移動します。

賤ヶ岳の戦いと美濃大返し(1583年4月20日)

羽柴秀吉が織田信孝攻撃のために美濃国に向かったとの報が柴田勝家の陣にもたらされると、その隙をついて、柴田方の猛将・佐久間盛政が、天正11年(1583年)4月19日、羽柴方の中川清秀が守る大岩山砦を急襲し、これを攻略します。

勢いに乗る佐久間盛政は、続いて黒田官兵衛隊を、続けて高山右近を攻撃し、高山隊を木之本の羽柴長秀(後の豊臣秀長)の下まで壊走させます。

その後、佐久間盛政は、羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかり、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して降伏勧告をするなどして賤ヶ岳砦の陥落も間近となっていました。

賤ヶ岳が危機に陥っていると知った羽柴秀吉は、陣を払って大急ぎで賤ヶ岳に向かうこととし、大垣城の陣を払って軍を引き返させ、大垣から木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動して戻ってきたのです(美濃大返し)。

大垣城に向かっていたはずの豊臣秀吉本隊2万5000人が木之本の陣に戻ってきたことに驚き、また後方にいたはずの前田利家軍が羽柴秀吉に内応して撤退を開始したため、佐久間盛政隊は総崩れとなります。

柴田勝家自害(1583年4月24日)

そして、その後、勢いに乗った豊臣軍は、一気に柴田勝家本隊を攻撃し、柴田勝家を撃退したことにより、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉の勝利で終わります。

敗れた柴田勝家はら北ノ庄城に逃れるも、同年4月23日、前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌同年4月24日に夫人のお市の方らとともに自害しました。

織田信孝の最期

岐阜城開城

 

羽柴秀吉方の織田信雄軍に岐阜城を包囲されてていた織田信孝は、頼みの綱である柴田勝家を失ったことにより勝ち目が亡くなったと判断し、羽柴秀吉に降伏して岐阜城を開城します(一説では、降伏ではなく、織田信雄が織田信孝を欺いて和議を持ちかけたことによる開城とも言われています。)。

岐阜城の明け渡しを受けた織田信雄は、織田信孝を尾張国へと向かわせます。

織田信孝の辞世の句

岐阜城を出た織田信孝は、長良川を下って尾張国知多郡に奔り、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺(野間大坊)に入ります。

そして、同地において羽柴秀吉の内意の下、織田信雄の命により、織田信孝に切腹が申し付けられます。

織田信孝は、切腹に際し、以下の2つの辞世の句を詠んだと言われています。

①辞世の句1(天正記)

「たらちねの 名をばくださじ 梓弓 いなばの山の 露と消ゆとも」

②辞世の句2(太閤記)

「昔より 主(しゅう)を内海(うつみ)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

なお、②については、同じ尾張国野間の内海で源義朝を騙し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致の故事にかけたものであり、織田信孝の羽柴秀吉への激しい怒りが感じられますが、この出典が江戸時代以降の軍記物であって同時代の資料ではないことから、信憑性には強い疑問があります。

織田信孝切腹(1583年4月29日または5月2日)

そして、織田信孝は、天正11年(1583年)4月29日または5月2日、同地の安養院において、太田新左衛門尉の介錯の下で切腹して果てます。享年26歳でした。

なお、織田信孝は、切腹に際し、羽柴秀吉に対する強い恨みから、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれており、安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸(非公開)が伝来しています。

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