【仁田忠常】北条時政に疑われ粛清された鎌倉幕府御家人

仁田忠常(にったただつね)は、反平家の挙兵をした際から源頼朝に付き従った最古参の御家人です。

古い付き合いということもあって源頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府2代将軍の源頼家に嫡男・一幡が生まれるとその乳母父となるほどでした。

鎌倉幕府内で北条氏が力を持った後は、北条氏に従って行動していたのですが、謀反の疑いをかけられて悲しい最期を遂げています。

仁田忠常の出自

出生(1167年?)

仁田忠常は、仁安2年(1167年)ころ、藤原武智麻呂を祖とする「藤原南家」の裔として平安末期頃までに伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)に土着していた仁田氏に生まれたと言われています。

父母や幼名は不明で、兄弟には五郎忠正、六郎忠時がいます。

仁田忠常の通称は四郎といい、名は新田忠常とも日田忠常とも言われています。

仁田忠常の前半生

仁田忠常の前半生についてはほとんど明らかになっておらず、元服時期や初陣等も不明です。

 

鎌倉幕府の有力御家人となる

源頼朝挙兵に参加(1180年8月17日)

治承4年(1180年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政土肥実平、佐々木盛綱らを率いて平家打倒のために挙兵したのですが、仁田忠常もこの挙兵に参加し、挙兵直後の山木兼隆邸討ち入りにも参加しています。

その後、仁田忠常は、源頼朝に従って対平家の戦いに従軍し、源範頼が源頼朝の下に集ってからは源範頼に従って各地を転戦しています。

挙兵直後から付き従っていたということもあって、仁田忠常に対する源頼朝の信任は厚く、文治3年(1187年)正月、仁田忠常が危篤状態に陥ったときには源頼朝自らが見舞いに行くほどの関係性でした。

そして、仁田忠常は、病が癒えた後は、文治5年 (1189年)の奥州合戦に参戦するなどして戦功を挙げています。

仁田忠常館築城

築城時期は不明ですが、仁田忠常は、静岡県田方郡函南町仁田(伊豆半島の北部、駿東平野の南東部、来光川下流域の右岸)、70〜90m四方と推測される周囲を堀と土塁で囲った単郭の方形館の館を築いています。

もっとも、現在、仁田館遺跡と言われるこの館跡は、北側に土塁と空堀の跡が残存しているものの、残念ながら南東部は来光川に侵食され消滅しています。

富士の巻狩りと曾我兄弟の仇討ち(1193年5月28日)

建久4年(1193年)5月、源頼朝が主催して富士裾野で大規模な巻狩りが行われたのですが、このときに仁田忠常は、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされています。

そして、巻狩り最終日であった建久4年(1193年)5月28日夜、源頼朝が宿泊していた御旅館に、曾我祐成・曾我時致の兄弟が押し入り、父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発します(曾我兄弟の仇討ち)。

このとき、源頼朝の長男である千鶴丸や多くの御家人も巻き込まれて討ち取られます。

また、源頼朝も暗殺の危機に陥りましたが、仁田忠常が源頼朝の御旅館に討ち入った曾我兄弟の兄・曾我祐成を討ち取り、また弟・曾我時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られ、源頼朝は無事でした。

なお、北条時政が曾我兄弟の弟である曾我時致の烏帽子親であることから、この事件の黒幕が北条時政であるとも考えられますが本当のところはわかりません。

源頼家に仕える

挙兵直後から付き従う仁田忠常に対する源頼朝の信頼は相当なもので、建久9年(1198年)に源頼家に嫡男・一幡が生まれると、その乳母父の1人となっています。

建久10年(1199年)1月13日に武家政権を樹立したカリスマ源頼朝が53歳の若さで死去すると、同年1月20日、その嫡男である源頼家が18歳の若さで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。

そのため、以降、仁田忠常も源頼家に仕えることとなります。

 

北条氏による粛清対象となる

比企能員の変(1203年9月2日)

源頼朝の死後、鎌倉幕府2大将軍である源頼家の権力を制限し、13人の合議制を確立した御家人らの間で、地で血を洗う権力闘争が始まります。

そして、13人の合議制の解体と梶原景時の失脚により、鎌倉幕府内の権力が、北条時政比企能員に集まって行っていき、この2人が争うことになります。

ここで、比企能員が、建仁3年(1203年)9月2日、娘の若狭局を通じて、源頼家に北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えたのですが、これを事前に察知した北条時政が、比企能員を薬師如来の供養と称して自邸(名越亭)に誘い出し暗殺してしまいます(比企能員の変)。

このとき、北条時政に命じられて暗殺の実行犯となったのが、仁田忠常と天野遠景でした。

仁田忠常の最期(1203年9月6日)

比企能員暗殺の報を聞いた源頼家は、建仁3年(1203年)9月5日、仁田忠常を呼び出し、報復として北条時政討伐を命じます。

もっとも、仁田忠常は、源頼家の命に服するつもりはなく、それどころか、翌同年9月6日夜、比企能員追討の褒賞を受けるべく北条時政邸へ向かいます。

ところが、ここで疑心暗鬼に陥っていた北条時政が、仁田忠常の帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に仁田忠常に謀反の疑いを抱きます。

そこで、北条時政は、加藤景廉に仁田忠常の殺害を命じ、仁田忠常は、北条時政邸を出て御所へ戻る途中で加藤景廉に殺害されてしまいました。

無念の最期を遂げた仁田忠常の墓所は、静岡県田方郡函南町仁田所在の慶音寺にありますので、興味がある方は是非。

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