【九条頼経(藤原頼経・三寅)】得宗家に挑んで敗れ続けた摂家将軍

九条頼経(くじょうよりつね)/藤原頼経(ふじわらのよりつね)は、源実朝が暗殺された後、第4代鎌倉殿(鎌倉幕府第4代征夷大将軍)となるべく京から迎えられた人物です。

摂政関白を歴任した藤原北家九条流の九条道家の三男であり、人臣最高位というその高貴な血筋であり、また源頼朝の遠縁という関係から白羽の矢が立ちました。

九条家の生まれですので、九条頼経とも呼ばれます。

後に源頼家の娘である竹御所を室に迎え、名目上の鎌倉殿として鎌倉幕府の神輿となっていた幼い九条頼経でしたが、その成長に伴って政治への野心が芽生え、反得宗家勢力と協力することにより鎌倉幕府内での政争に巻き込まれていきます。

複数回の反得宗家運動に失敗し、遂には第5代執権北条時頼によって京都へ追放されています(宮騒動)。

本稿では、波乱万丈の人生を歩むこととなった第4代鎌倉殿(摂家将軍)九条頼経の人生について見ていきたいと思います。

九条頼経の出自

出生(1218年1月16日)

九条頼経は、建保6年(1218年)1月16日、藤原北家九条流の九条道家の三男として西園寺公経の娘・掄子との間に生まれます。

寅年・寅月・寅刻生れであったため、幼名は三寅(みとら)と名付けられました。

源頼朝の姉妹が一条能保と結婚し、その間に生まれた女子と九条良経とが結婚して生まれた子が九条道家でしたので、その子である三寅(九条頼経)は、源頼朝の遠縁にあたることとなります。

三寅の鎌倉下向(1219年7月19日)

建保7年(1219年)1月27日、第3代鎌倉殿であった源実朝が甥の公暁によって暗殺されたのですが、源実朝には子どもがいなかったため、第4代鎌倉殿を選ぶ必要性に迫られます。

当然の話ですが、源実朝が死亡したとしても、源氏の血筋が途絶えたわけではありませんので、源氏一門から新たな「源氏将軍」を迎えることが検討されました。

ところが、源氏将軍の擁立は、御家人から信奉を集めやすいために鎌倉幕府内での独裁を進める北条家にとっては害悪でしかありません。

そこで、第2代執権として独裁的権力を有していた北条義時は、源氏将軍に匹敵する血筋を持ちながら扱いやすい人物を求めて京に政所執事の二階堂行光を派遣し、同年閏2月1日に後鳥羽上皇に対して有力御家人一同が連署した上奏文を渡す形で、皇子である雅成親王か頼仁親王のいずれかを鎌倉に迎えたいとの提案を申し出ます。

なお、この前後に、北条義時・北条政子は、多くの源氏一門やその親類縁者の多くに謀反の罪を着せ短期間のうちに次々と粛清しています。

もっとも、後鳥羽上皇としては、武士の棟梁であるはずの鎌倉殿が簡単に暗殺される物騒な組織に大事な皇子を下向させるなどできません。

そこで、後鳥羽上皇は、同年閏2月4日、皇子を鎌倉殿とすれば国を二分することにつながりかねないとの理由をつけて皇子の下向を拒否します(愚管抄)。

そればかりか、後鳥羽上皇は、同年3月9日、北条義時に対し、北条義時が領主を務める摂津国の長江荘・倉橋荘の地頭の改補を命じます。

怒った北条義時は、同年3月、北条時房に1000騎を与えて上洛させ、後鳥羽上皇の要求を拒否した上で、再び皇族将軍下向の圧力をかけます。

メンツをつぶされた鎌倉幕府は、強硬手段により問題を解決しようとしたのです。

軍事力をもって圧力をかけられた後鳥羽上皇は、北条義時の提案を突っぱねることができなくなり、やむなく交渉を進めた結果、皇子ではなく人臣最高位である摂関家の子弟を下向させるとの結論での妥協案を示します。

これに対し、1日でも早く将軍不在という未曽有の危機を回避したい鎌倉幕府は、やむなく後鳥羽上皇の案を了承することとします。

京から将軍を迎えるといっても、北条家独裁を脅かすことは本意ではありませんので、北条義時は、迎える将軍としては、何もわからない子供の中から選定することとし、最終的には、父方及び母方の祖母が源頼朝の姪という関係性にあった2歳の九条道家の三男・三寅(後の九条頼経)の下向を希望し認められます。

そして、同年6月3日、三寅に対して関東下向の宣下が下ったため、三寅は、後に第4代鎌倉殿となるため京を発って鎌倉に向かい、同年7月19日、鎌倉の大倉御所に入ります。

尼将軍誕生

もっとも、大倉御所は、承久元年(1219年)12月24日に焼失してしまったため、三寅は、その後に大倉幕府の南方にあった執権・北条義時の屋敷を仮御所と定めて移っています(二階堂大路仮御所:1219年~1225年)。

もっとも、鎌倉殿(摂家将軍)となるべく送られた人物とはいえ、僅か2歳の三寅に政治などできようはずがなく、三寅が幼少の間は、北条政子がその後見として鎌倉幕府を主導し、北条義時がこれを補佐するという政治形態が作られます。

いわゆる尼将軍の誕生です。

実際、吾妻鏡では、源実朝が死去した建保7年(1219年)から、北条政子が死去する嘉禄元年(1225年)までの間、北条政子を鎌倉殿として扱っています。

嘉禄元年(1225年)7月11日に北条政子が死亡すると、その庇護の下で育てられ、かつその手法を教え込まれていた竹御所が実質的な第2代尼将軍として北条政子の後を継いだのですが、竹御所は、その手腕もさることながら、源頼朝・源頼家という源氏直系の生き残りとして、幕府権威の象徴という役割を果たして御家人の尊敬を集めその取りまとめ役となっています。

第4代鎌倉殿就任

元服(1225年12月29日)

尼将軍として実質的な鎌倉殿であった北条政子が死去したことにより鎌倉殿が不在となったため、三寅を鎌倉殿に据える動きが急ピッチで動き始めます。

まず、嘉禄元年(1225年)12月29日、8歳の三寅が元服することとなり、藤原頼経(九条頼経)と名乗ります。

第4代鎌倉殿就任(1226年1月)

そして、嘉禄2年(1226年)正月27日、九条頼経が征夷大将軍の宣下を受け、第4代鎌倉殿(摂家将軍)に就任します。

もっとも、新たな鎌倉殿が誕生したといっても、九条頼経は、若年であったこと、京から派遣された公家であること、前年の評定衆の選定により北条泰時と北条時房に実質的な権能を奪われていたことなどから傀儡将軍でしかありませんでした。

竹御所と結婚(1230年12月9日)

その後、寛喜2年(1230年)12月9日、13歳となった九条頼経は、権威付けのために2代将軍・源頼家の娘であり16歳年上でもあった竹御所を正室に迎えます。

こうして鎌倉幕府の都合により結婚することとなった2人は、16歳差という親子程の年の離れた夫婦となったのですが、その夫婦仲はとても良かったと伝えられています。

そして、結婚の3年後の天福元年(1233年)、竹御所が九条頼経の子を懐妊していることが判明し、相次ぐ粛清により失われつつあった源頼朝の血を引く後継者の誕生が期待されます。

もっとも、このときの竹御所は、33歳という超高齢での初産であったため、医療技術の発展していない当時としてはその出産は困難を極めます。

そして、天福2年(1234年)7月27日、竹御所は、難産の末に男児を死産により失います。

また、出産に苦しみ抜いた竹御所本人も、ついに力尽きて死去してしまいます。享年は33歳でした。

なお、九条頼経は、竹御所が死去後に継室として大宮殿藤原親能娘を貰い受け、延応元年(1239年)11月21日、その間に藤原頼嗣を儲けています。

その後も、年齢を重ねるのにあわせて官位を高めていった九条頼経ですが、鎌倉幕府の政治は北条得宗家により握られており、九条頼経はあくまでも神輿に過ぎなかったため、政治の実権を持つことはありませんでした。

失脚とその後の謀反計画

強制隠居(1244年)

仁治3年(1242年)6月15日に第3代執権の北条泰時が死去し、第4代執権として北条経時(北条泰時の孫)が19歳の若さでその後を継ぐと、この人事に不満を持った名越流の北条光時(北条義時の次男である北条朝時の嫡男)が九条頼経に接近します。

こうして得宗家から政治の実権を取り戻したい北条光時と、飾り物である立場から脱却して政治をしたい第4代鎌倉殿である九条頼経が手を組み、得宗家の追い落とし工作を始めます。

また、寛元2年(1244年)8月29日に九条頼経の外祖父である西園寺公経が死去したことにより、関東申次の座を引き継いだ九条頼経の父である九条道家が鎌倉幕府政治への介入を試みるようになってきます。

これらの一連の動きに北条得宗家は危機感を持ち、第4代執権の北条経時は、寛元2年(1244年)、九条頼経を鎌倉殿の座から引きずり下ろして無理矢理隠居させ、その地位を九条頼経の嫡男である九条頼嗣に相続させます(第5代鎌倉殿就任)。

上洛計画失敗(1244年)

以上の経過を経て鎌倉殿の座を失った九条頼経でしたが、京に戻ることはせず、「大殿」と称されてなおも鎌倉に留まります。

その後、九条頼経は、朝廷を利用して自分に近い御家人に官位を授けてその地位を高め、鎌倉での返り咲きを計るために寛元3年(1245年)2月ころの上洛を計画したのですが、その約2ヶ月前である寛元2年(1244年)12月26日に北条経時・北条時頼兄弟の屋敷から出た失火によって政所が焼失したことを理由に延期されます。

なお、この失火については、単なる失火であったとも、九条頼経やその取り巻き任官・昇進を抑えるために上洛阻止目的で北条得宗家により自作自演でなされたものとも言われており、その真偽は不明です。

出家(1245年)

朝廷権力を利用しての返り咲きに失敗した九条頼経は、寛元3年(1245年)、鎌倉久遠寿量院で出家し行賀と号します。

宮騒動(1246年)

寛元4年(1246年)閏4月1日、第4代執権であった北条経時が急死してその弟であった北条時頼が第5代執権に就任することとなったのですが、これを好機と見た九条頼経と、名越流の北条光時が再び接近します。

北条光時は、九条頼経及びその側近評定衆であった後藤基綱・千葉秀胤・三善康持ら反執権派御家人と連携し、再び共謀して謀反を計画したのです。

しかし、このときも九条頼経らの動きは事前に執権・北条時頼に察知され、その罪を問われた九条頼経は、寛元4年(1246年)7月、北条時頼によって鎌倉より追放され京への送還されることとなりました。

この九条頼経の京送還に際して、三浦家当主の弟であった三浦光村(反北条の強硬派)が同行し、同年8月12日、別れの際に九条頼経に対して、必ず後に再び鎌倉に迎え入れると涙ながらに語ったことが北条時頼に報告されています。

なお、このときの九条頼経に連座して、同年10月、父の九条道家もまた関東申次を罷免され籠居させられています(宮騒動)。

そして、京に戻った九条頼経は、六波羅の若松殿に移されます。

宝治合戦

ときの執権・北条時頼は、前記の報告を聞き、九条頼経を中心とする反執権勢力に近づき、鎌倉に帰着して反北条の勢力を集結すべく動くなど不穏な動きをみせていた三浦一族を危険視します。

そして、御家人の中の勢力を増した三浦一族へ反感を持つ勢力を利用し、九条頼経をとりまく陰謀に加担していたとして三浦一族を追い込んでいきます。

急先鋒となったのは、外戚として本来得宗家に次ぐ席次が与えられるべきと考えていた安達一族でした。

こうして、安達景盛が主導となって、安達一族からの三浦一族への挑発が続きます。

そして、ついに宝治元年(1247年)6月5日、安達景盛率いる安達軍が、三浦泰村邸を襲撃する事件が起こり、北条家とその外戚である安達家によって三浦一族が滅ぼされます。

九条頼経の最期

鎌倉殿復帰の道が断たれる

以上の一連の動きの中、第5代鎌倉殿として鎌倉に残されていた九条頼嗣もまた、建長3年(1251年)、了行法師らの謀叛事件に九条頼経が関係したとして、翌年に14歳にして鎌倉殿を解任され、母大宮殿とともに京に追放されます。

また、九条頼経の父(九条頼嗣の祖父)であった九条道家もその関与を疑われ、その疑いが解けぬままに同年死去します。

建長4年(1252年)4月に11歳であった後嵯峨上皇の皇子であった宗尊親王が第6代鎌倉殿に就任し、九条頼経の鎌倉復帰の道が断たれます。

九条頼経薨去(1256年8月11日)

そして、九条頼経は、康元元年(1256年)8月11日、赤痢に罹患して39歳の若さで死去します。

また、九条頼嗣もまた、同年9月25日に赤斑瘡により18歳の若さで死去しています。

なお、この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、九条頼経・九条頼嗣親子がそれに罹患したものと考えられているのですが、九条家3代が短期間に相次いで死していることから、何者かの関与も推測されています。

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