【公暁】源実朝を暗殺した源頼家の次男

公暁(こうぎょう/こうきょう )は、第2代鎌倉殿の次男かつ嫡男として生まれ、順当に行けば第3代鎌倉殿として鎌倉幕府を統べるはずの立場にあったはずの人物です。

ところが、有力御家人間の政争に巻き込まれて若くして父・源頼家が謀殺されると、北条家の邪魔になったとして出家させられ、本来の仇であるはずの北条家ではなくその傀儡であった源実朝への恨みを募らせていきます。

そして、仇討ちの機会を得た公暁は、満を持して源実朝暗殺を実行したのですが、その責めを負って討ち取られ、20歳という若さでその生涯を終えています。

公暁の出自

出生(1200年)

公暁は、正治2年(1200年)、第2代鎌倉殿であった源頼家と、辻殿(足助重長と源為朝娘との娘)との間に生まれます(吾妻鏡)。幼名は善哉(ぜんざい)といいました。

善哉の乳母の1人として三浦義村の妻が選ばれたため、有力御家人である三浦義村が乳母夫となっています。

なお、源頼家が建久9年(1198年)に比企能員の娘である若狭局との間に長男の一幡を儲けていたために、善哉は、源頼家の次男となったものの、母親の血統が良いため、辻殿が事実上の源頼家の正室として扱われ、本来であれば公暁が源頼家の嫡男となったはずでした。

公暁誕生当時の鎌倉幕府

善哉(後の公暁)が誕生した正治2年(1200年)は、建久10年(1199年)4月12日に御家人によるクーデターによって第2代鎌倉殿であった源頼家の権限が縮小され、またそれによって向上した御家人の権利を御家人相互間で争い始めた時期でした。

その後、建仁3年(1203年)7月に第2代鎌倉殿であった源頼家が病に倒れ、同年8月には危篤に陥ると、有力御家人において、万一があった場合に次期鎌倉殿を誰にするのかの話し合いがなされ、各々が自信に都合の良い後継ぎ候補を推したため、議論が紛糾していきます。

この時点での源頼家の嫡男たりうる男子は一幡と善哉だったのですが、どちらが次期鎌倉殿となっても権力の座から落ちていく北条時政が奇策を打ちます。

北条時政は、東国は源頼家の子である一幡が、西国を源頼家の弟である千幡が支配するという分割支配案を提示し、建仁3年(1203年)9月2日、これに反発する比企一族を滅亡させてしまいます(比企能員の変)。

そして、北条時政は、比企一族と共に一幡と若狭局までも殺害しています。

源頼家暗殺(1204年7月18日)

その上で、北条時政は、鎌倉幕府の政治を維持するためにはわずか4歳の幼君の善哉(後の公暁)では不足であるとの理由をつけて、善哉が成長した後に僧侶にするとの決定を下した上、源頼家の弟であった千幡(後の源実朝)を第3代鎌倉殿に据えることに決定します。

そして、北条時政は、朝廷に対して源頼家が死去したという虚偽の報告を行って千幡への家督継承の許可を求め、建仁3年(1203年) 9月7日、千幡を従五位下征夷大将軍に補任した上で、源頼家の将軍職を奪って伊豆国・修善寺に追放します。

こうして、実質的には北条時政の完全な操り人形の将軍が誕生し、鎌倉幕府は北条家の傀儡政権に成り下がってしまいます。

そして、北条時政は、北条義時に伊豆国・修善寺に追放された源頼家の暗殺を命じ、元久元年(1204年)7月18日、これが実行に移されました(源頼家は、入浴中に首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。

源実朝の猶子となる(1206年10月)

幼くして父を失った善哉(後の公暁)は、建永元年(1206年)6月16日、若宮にあった別当坊から北条政子の邸に渡って着袴の儀式を行います。

そして、同年10月22日、北条政子の計らいにより、乳母夫の三浦義村に付き添われる形で、叔父である第3代鎌倉殿である源実朝の猶子となりました。

僧になる

出家して公暁となる(1211年)

その後、建暦元年(1211年)9月15日、12歳となった善哉(後の公暁)は、鶴岡八幡宮寺第3代別当であった定暁の下で落飾して頼暁という戒名を受け、翌日、受戒のために上洛することとなり鎌倉を出発します。

そして、同年9月22日、頼暁(善哉)は、近江国の園城寺に入って明王院僧正公胤の門弟となって、貞暁(じょうぎょう、源頼朝の三男)から伝法灌頂を受け、この2人の名から一字ずつもらって戒名を「公暁」に改めます。

なお、この公暁という字の読み方について、寛永版の吾妻鏡の版本で「クゲウ」の読みが振られた江戸時代以降は呉音読みで「くぎょう」と読むと考えられていたのですが、今日では、公胤(「こう」いん)と貞暁(じょう「ぎょう」)からとった名であるために「こうぎょう」と読むと考えるのが一般的です。

鎌倉に戻る(1217年6月20日)

こうして園城寺で修行することとなった公暁でしたが、その後の生活については必ずしも明らかではありません。

園城寺での修行を継続していた可能性もありますが、その子院である如意寺(愛宕軍粟田郷、現在は廃寺)にいた可能性もあります。

いずれにせよ、僧として修業を積んでいた公暁でしたが、建保4年(1216年)閏6月20日、公胤が亡くなったため公暁は師を失います。

その後、建保5年(1217年)5月11日に鎌倉の鶴岡八幡宮の第3代別当であった定暁が亡くなったため、北条政子は、師を失って悲しむ公暁を鎌倉に呼び寄せ、鶴岡八幡宮の第4代の別当に補任することを決めます。

そこで、18歳であった公暁は、建保5年(1217年)6月20日、鶴岡八幡宮の別当に就くために鎌倉に下向します。

鶴岡八幡宮4代別当補任(1217年10月)

そして、公暁は、建保5年(1217年)10月5日第4代鶴岡八幡宮別当に補任されます。

鶴岡八幡宮の第4代別当に就任した公暁でしたが、別当としての職務はそっちのけで、就任直後の同年10月11日から裏山で千日参篭を始め、また建保6年(1218年)12月5日にはいくつもの祈誓を行うなどして、ひたすら自身の仇討ちの成功を神仏に祈り、仇討ち実行の機会を待ちます。

なお、公暁は、鶴岡八幡宮別当となっても一向に剃髪をしなかったことから人々に怪しまれていたそうですが、あえて剃髪をしなかったということは、近々還俗することを決めていたのではないかと推測できます。

父である源頼家が源実朝によって殺されたと信じ込んでいたようですので、源実朝への恨みを募らせ、仇討ちの機会を探していたのだと思われます。

源実朝暗殺

源実朝の右大臣就任(1218年12月2日)

そして、仇討ちの機会を待っていた公暁の下に、絶好の機会が訪れます。

源実朝が、公暁が別当を務める鶴岡八幡宮において右大臣任官の記念式典を行うこととなったのです。

なお、源実朝は、建保6年(1218年)1月13日に権大納言に任ぜられた源実朝でしたが、同年3月16日には左近衛大将と左馬寮御監を兼ね、同年10月9日内大臣に、12月2日右大臣に任じられるなどその官位を高めていったのですが、源実朝の右大臣任官は、武士として初の快挙であり、急ぎ準備をした後、承久元年(1219年)正月27日に鶴岡八幡宮において祝賀イベントが行われることとなったものでした。

鶴岡八幡宮における記念式典は、別当である公暁の管理下で行われる上、神事であることから式典中は、護衛の武士が鶴岡八幡宮の中に入らず外で待機しているため源実朝の護衛が手薄であるという絶好の機会です。

鶴岡八幡宮での記念式典

そして、承久元年(1219年)正月27日、源実朝の右大臣任官を祝う運命の記念式典が鶴岡八幡宮で催されます。

同日、源実朝が、2尺(約60cm)ほど積もるほどの雪が降りしきるなか鶴岡八幡宮に参詣し、式典が始まります。

なお、この日の記念式典は、源実朝の脇で北条義時が太刀持ちをする予定だったのですが、当日、北条義時が急に体調不良を訴えて館に戻ることとなり、急遽太刀持ちが北条義時から源仲章に交代するという疑惑の事件から始まっています。

源実朝暗殺(1219年1月27日)

そして、鶴岡八幡宮内での記念式典が滞りなく終了し、承久元年(1219年)正月27日夜、源実朝は、御所に戻るために鶴岡八幡宮の石段を下って公卿が立ち並ぶ前に差し掛かりました。

このとき、法師の姿に変装して待ち伏せていた公暁が、3~4人の仲間と共に源実朝に襲い掛かり、源実朝の下襲の衣を踏みつけて転倒させ、「親の敵はかく討つぞ」と叫んでその首を打ち落としてしまいました。源実朝の享年は28歳(満26歳没)でした。

また、公暁の仲間の法師は、周囲の者たちを追い散らした上、源仲章を北条義時と間違えて切り伏せています。

こうして目的を達した公暁は、鶴岡八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に源実朝の首を持って姿を消します(吾妻鏡)。なお、愚管抄では、公暁はそのような声は上げておらず鳥居の外に控えていた武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃にまったく気づかなかったとされていますので正確なところは不明です。

この源実朝暗殺事件については、北条義時陰謀説や、鎌倉御家人共謀説、後鳥羽上皇黒幕説などその原因について色々な説があるのですが、直前までお供するはずだった北条義時が直前にドタキャンしていること、公暁が少人数で源実朝の下へたどり着けたとは考え難いこと、この事件により最も利益を得たのが北条義時であることなどから、北条義時陰謀説が有力と言えます。

なお、公暁は、源実朝暗殺の際、近くに来るまで隠れていたとされる大銀杏が近年まで残っていたのですが(もっとも、この話がまことしやかに語られるようになったのは江戸時代からで当時の史料にはない眉唾物の話ではあります。)、平成22年(2010年)3月10日に台風で倒壊し、現在は元々の場所は穴を埋めて根から新しい芽が出るように整備し、倒れた大銀杏は幹を切断して別の場所に移植されています。

公暁の最期

乳母夫である三浦義村へ使いを出す

源実朝を討ち取った公暁は、源実朝の首を持って雪の下北谷にあった後見者である備中阿闍梨の自宅に戻り、すぐさま乳母夫である三浦義村に使いを出し、自分が源実朝の後を継いで第4代鎌倉殿となるのでその準備をすると共に向かいの者をよこすようにと指示します。

なお、公暁は、この後討ち取った源実朝の首を常に身近に置き続け、食事の間も手放さなかったといわれています。

公暁からの使者に対し、三浦義村はすぐに迎えの使者を出すと返事をしたのですが、三浦義村はそのまま北条義時に公暁から使者が届いた旨を伝えて対応を協議し、公暁を討伐することに決まります。

そこで、北条義時は、長尾定景に対して公暁討伐を命じますが、長尾定景は高齢を理由として一旦はこれを固辞します。

もっとも、北条義時の度重なる要請についに長尾定景も折れ、迎えの使者5名のうちの1人と偽り、公暁の下へ向かいます。

公暁討死(1219年1月27日)

そして、建保7年(1219年)1月27日、公暁との待ち合わせ場所となった鶴岡八幡宮の裏手で、長尾定景は太刀をとって公暁の頸を取りました(なお、三浦義村からの迎えの使者がなかなかこなかったために1人雪の中を鶴岡後面の山を登って三浦義村宅に向かっていた際に討手に遭遇して討ち取られたとする説もあります。)。

公暁の享年は20歳でした。

公暁の亡骸と首の行方

討ち取られた公暁の首は、長尾定景によって北条義時邸に持ち帰られ、北条義時によって首実検が行われました。

その後、公暁の亡骸は勝長寿院に葬られたのですが、首の所在は不明となります(不明となったために代わりに記念に与えた髪を入棺したとも【吾妻鏡】、その後岡山の雪の中から見つかったとも言われています【愚管抄】が、正確なところは不明です。)。

なお、公暁の墓は現存しておらず、墓所についての史料も存在していません。

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