【伊藤博文】農民から内閣総理大臣までのし上がった調整型リーダーの前半生

日本で農民から頂点まで上り詰めた人物挙げるとすると、ほとんどの人が豊臣秀吉の名を挙げると思います。

もっとも、余り知られていませんが、日本の歴史上、農民から頂点まで上り詰めた人物がもう1人います。

伊藤博文です。

豊臣秀吉に匹敵する究極の成り上りをした大人物ですが、意外に知名度がありません。

そこで、本稿では、もう1人の成り上がり者である伊藤博文の人生を振り返ってみたいと思います。

 

伊藤博文の出生

伊藤博文は、天保12年(1841年)、今の山口県光市で貧しい農家の長男として産まれます。

生まれつき身体が小さく青白かったため、青びょうたんとあだ名をつけられていたようです。

伊藤博文の父・林十蔵は豪放磊落な性格で金銭問題を起こして生まれた村に住み続けられなくなったため、伊藤博文は幼いころから一家で放浪の生活を強いられることとなりました。

その後、伊藤博文が12歳のときに、父親が長州藩の下級藩士・伊藤家の奉公人になったことで、伊藤博文の出世人生が始まります。

この伊藤家の当主が、伊藤博文の実直な性格を気に入り、13歳になった伊藤博文を伊藤家の養嗣子としたからです

 

伊藤博文が歴史の表舞台に出てくるまで

伊藤博文の松下村塾入学(1857年)

伊藤博文は、安政4年(1857年)に長州藩の思想家である吉田松陰が主催する松下村塾に入塾します。

このころの世界状態は複雑で、天保11年(1840年)に発生したアヘン戦争により中国の一部がイギリスに植民地化され、また安政3年(1856年)に発生した第2次アヘン戦争といわれるアロー戦争によって中国がイギリス・フランスに侵略されていくなど、西洋の大国によりアジア各国が侵略されていく苦難の時代でした。

また、日本でも嘉永6年(1853年)にペリー率いる黒船来航して開国を迫るなど、大きな転換期にありました。実際、欧米列強に危機感を抱いた幕府が安政5年(1858年)に日米修好通商条約調印し事実上の開国を迎えたため、日本中で世相が混乱し、弱腰の幕府を排斥して天皇中心の政治を目指す尊王攘夷思想が活発化した時期でもあります

日本中が混乱していく中で、長州藩において尊王攘夷思想の急先鋒の思想家・吉田松陰が勃興し、その私塾松下村塾に新しい日本を目指す若い才能が集いました。

伊藤博文もその一人となるはずでした。

松下村塾での伊藤博文の評価

松下村塾は、政治問題等を塾生同士で議論し学び合いが行われる場だったのですが、高杉晋作や久坂玄瑞などの秀才とは違い、身分も低く知識もない伊藤博文が塾内で頭角を現すことはできません。

そのため、伊藤博文は、専ら他の塾生たちの使い走りとして使われる毎日でした。

松下村塾の主催者であった吉田松陰も、当時の伊藤博文を「才劣り学幼きも質直にて華なし」と酷評しています。

吉田松陰でさえ、後の大政治家・伊藤博文の才能をその程度のものと見ていたのです。

伊藤博文の才能

 

もっとも、伊藤博文は凡人ではありませんでした。

伊藤博文の才能は別のところにあったのです。

伊藤博文の才能は、先頭に立って他人を先導し引っ張っていく英雄型のリーダーのものではなく、人々の話を聞いてその意見をまとめ上げていく調整型のリーダーのものだったのです。

自らの舌で他人を打ち負かすのではなく、聞く力・質問力を高めて人に気持ちよく話させ、他人を動かすことで人の能力を得、それを利用することに長けていたのです。

言うなれば丸く収める力、人の能力を借り受けるという才能です。他人との軋轢を生みませんので、その下に人が集うため人的ネットワークを構築しやすいという強みでもありました。

海外密留学の誘い 

松下村塾で思うように才能を発揮できずにくすぶっていた伊藤博文に転機が訪れます。

伊藤博文が23歳のとき、長州藩士で5歳年上の井上馨から、攘夷論に支配されつつも外国の侵略に怯えているだけではいけないとして、世界の現状を確認するために幕府の禁を破って当時の世界最強国であるイギリスに密行しようと誘われたのです。

貧乏武士であった伊藤博文はには渡航費用を捻出できなかったため、イギリスへの渡航費用のために長州藩の武器調達費用から1000両もの大金を横領しさらにこれを担保にさらなる金を借りて、文久3年(1863年)、ロンドンに向けて出発します。ときに伊藤博文数え23歳でした。

なお、このときの密航者は、①井上馨(外務大臣)、②伊藤博文(初代内閣総理大臣)、③井上勝(鉄道の父)、④遠藤謹助(造幣の父)、⑤山尾庸三(工業の父)の5人でした。

この5人は、後に長州五傑と呼ばれ、長州ファイブという映画も作られる程、明治日本で重要な役割を担うこととなります。

攘夷の概念が消え失せる

6カ月の船旅を終えてイギリス・ロンドンに到着した伊藤博文らは、大発展を遂げた大英帝国を見てその繁栄ぶりに衝撃を受けます。

巨大な石造りの建物、蒸気を上げて走る機関車など高度な文明を作り上げたイギリスと旧態依然の日本との間の圧倒的な国力の差を目の前に突き付けられたからです。

そのため、長州ファイブは、イギリス・ロンドンに到着した瞬間に、攘夷の概念を捨て去ります。

日本が、この高度な文明国と戦って勝てるわけがありません。

後日、井上馨は、後にこのときの衝撃について余りに驚き攘夷の念は跡形もなく消え去ったと述懐していたそうです(井上伯伝)。

西洋文明の取入れに邁進する

 

長州ファイブは、イギリス・ロンドンの現実を見て、攘夷よりもイギリスの高度な技術を日本に持ち帰ることが大事であると悟ります。

そこで、まずは、全ての前提となる言語・英語を習得するため、ロンドン大学ユニバーシティカレッジへ入学し勉学に励みます。

次に、帰国後に役立つであろう土木学、地質鉱物学などの分野を習得するため、長州ファイブ5人で分担を決め、各人分かれてイギリスの最先端大学で勉学に励みました。

このときに伊藤博文に割り当てられた専攻は分析化学(基礎化学)でした。

そして、イギリスの大学に入学した伊藤博文は、積極的に先端技術を学び吸収していきます。

下関戦争(1864年)

ところが、イギリスに着いて6ヶ月を経過した頃、長州ファイブはとんでもないニュースを耳にします。

祖国長州藩が下関を通行する外国船を砲撃し、これに激怒したイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国が長州藩に報復を加えようと準備しているというニュースでした。

イギリスで生活する長州ファイブには、長州藩と欧米4か国とが戦ったら結果がどういう結果になるかは考えなくてもわかります。

そのため、このニュースを聞いて祖国存亡の危機と感じた長州ファイブは、急遽帰国して直ちにイギリス公使ラザフォード・オールコックや通訳アーネスト・サトウなどと会うなどして戦争回避を試みました。

もっとも、この長州ファイブの努力は実ることはなく、西欧4ヶ国から長州藩に対する報復戦争が勃発するに至ってしまいました(下関戦争)。

西欧4か国は、下関に砲撃を加えた後に長州に上陸したため、長州藩は壊滅の危機を迎えました。

もっとも、このときも、長州ファイブの流暢な英語力と豊富な知識に裏付けられた交渉のおかげで、西欧4ヶ国は軍を引いたため、戦争の長期化と長州藩の壊滅だけは免れることができました。

そして、このとき行った外国との交渉能力を買われ、ここから伊藤博文の名が歴史の表舞台に出てくることとなります。

 

明治維新政府の頂点へ

明治維新後のポスト(1868年)

明治元年(1868年)、戊辰戦争に勝利した薩摩藩・長州藩出身者を中心とする明治新政府が誕生します。

そんな新政府において、伊藤博文にも大蔵省でポストが与えられます。

そして、明治3年(1870年)11月から明治4年(1871年)5月までの6ヶ月間、当時の大蔵省のナンバー3として、財政制度を学ぶため、財務貨幣調査としてアメリカを視察します。

そして視察を終えて日本に帰国した伊藤博文は、大蔵省で経済システムの構築や銀行の設立などの改革案を提出します。

このアメリカ視察は、伊藤博文に強い自信をもたらしもしましたが、他方で受けた影響の大きさから西洋かぶれとの批判も受けることとなりました。

当時の大蔵省のトップであった大久保利通も、この伊藤博文の傾倒ぶりに嫌悪感を示し、伊藤博文の改革案を次々に潰したともいわれます。

同様に、伊藤博文の西洋かぶれの改革案は、長州藩の先輩である木戸孝允にも嫌われていたようです。 

なお、伊藤博文は、明治4年(1871年)には外国との交易拠点である神戸を有する兵庫県の初代県知事に就任しています。

岩倉使節団随行(1871年)

明治4年(1871年)、31歳になった伊藤博文は、それまでの海外経験を買われ、岩倉使節団の副使に抜擢されてアメリカとヨーロッパ12ヶ国を視察する旅に同行します。

このとき、伊藤博文は、自身を西洋かぶれと批判し、自身の改革案を握り潰した大物である大久保利通・木戸孝允に西洋の進んだシステムを見せるため同人らを使節団に引き入れるという人選をしています。

自分を嫌っている人とあえて行動を共にする、なかなかできることではありません。

この伊藤博文の行動力について、徳富蘇峰は、敵とどうつるむかを考える人であると高く評価しています。

もっとも、調子に乗った伊藤博文は、アメリカ視察中に大失敗もしています。

アメリカ各地で大歓迎を受けた岩倉使節団を目の当たりにして、アメリカが日本に協力的であると考え、日本修好通商条約を改正できる可能性を見出して岩倉具視らを焚きつけ条約改正交渉を開始しますが、使節団が条約改正に必要となる全権委任状を持っていなかったため、アメリカに全く相手にされませんでした。

そこで、伊藤博文と大久保利通が全権委任状をもらうために急いで帰国し、残った岩倉具視と木戸孝允とで交渉を続けましたが、これも相手にされませんでした。

結局、伊藤博文の勘違いが、日本の外交の未熟さを世界に晒してしまうという大失態につながってしまったのです。

明治政府内での大躍進

こうして1年9ヶ月の視察を経て日本に戻った伊藤博文は、その後も自身と対立する人をも排斥することなく取り込んでいき、新政府の中でそのポジションを駆け上がっていくこととなります。

明治6年(1873年)には32歳の若さで参議に任命されて閣僚入りし、かつての岩倉使節団のメンバーとも手を取り合って改革を始めます。

また、征韓論を巡って明治新政府が分裂したいわゆる明治六年の政変の際には、権力が集中した大久保利通とそれに反目する木戸孝允とのパイプとなることによって明治政府内での存在感を強めていきます。

そして、伊藤博文は、明治8年(1875年)2月11日、明治政府の要人である大久保利通と、政争に敗れて政府を去った木戸孝允・板垣退助らを大阪府に集めて面談させ(いわゆる大阪会議)、明治新政府内の不協和音を払しょくするという手腕を見せて明治政府内での地位を確立させます。

その後、明治10年(1877年)に兄と慕った木戸孝允が病死し、明治11年(1878年)に最高権力者大久保利通が暗殺されるなど、明治政府内での重鎮がどんどんこの世を去っていきます。

これに伴って、明治政府内の権力構造が、この重鎮たちの1つ下の世代の伊藤博文、大隈重信、板垣退助、井上馨らの世代に降りてきます。

初代内閣総理大臣となる(1885年)

明治になって10年も経過してくると、明治政府の政治も安定し、近代国家の証として憲法制定が目指されます。

明治十四年の政変で、政敵大隈重信を排除して力を持った伊藤博文は、憲法制定に奔走します。

そして、伊藤博文は、ついに天皇を主権者とする立憲君主制を基本とする明治憲法を制定し、国会を開設するなどの政治的手腕を発揮し、45歳となる1885年(明治18年)に、日本初の内閣総理大臣に就任します。

伊藤博文が、事実上の日本のトップに上り詰めた瞬間でした。

伊藤博文は、その後も計4度内閣を組閣しますが、その都度、好き嫌いではなく適材適所で人選をしたとして今日まで政治手腕が高く評価されています。

女癖が悪く好色宰相と呼ばれたり、政治哲学がないとか、軽い人間性であったなどという様々な評価もありますが、明治維新で一新した政府の中で、富国強兵策を実行し、現代日本の発展につながる礎を築いた大政治家として高い評価を得ていい大人物であると思います。 

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