【樋口一葉】生涯貧乏だった5000円札の顔

2004年の紙幣刷新時に女性として初めて起用され、その後30年もの間、5000円札の顔となった樋口一葉。

その人生を振り返ってみると、なぜ樋口一葉5000円札の肖像として採用されたのかはなはだ疑問です。

以下、樋口一葉の人生について、お金と作品に注目しながら見ていきたいと思います。

樋口一葉出生

樋口一葉は、1872年(明治5年)5月2日、当時の東京府庁の官舎内(現在の東京都千代田区内)にて、下級役人をしていた父則義及び母多喜の次女として出生します。

本名は、「奈津(なつ)」と言いますが、本人は主に夏子と名乗っていたようです(本稿ではわかりやすく一葉に統一します。)。

貧乏だった少女時代

樋口一葉が幼い頃を過ごした明治初期は、急速に貧富の差が進んだ時代でした。

樋口一葉は、幼い頃から聡明でしたが、母親が女に学問はいらないとの思想を持つ人であったため、小学校を途中で退学させられます。なお、樋口一葉は、この時遺構,母親に隠れて薄暗い蔵の中で本を読み漁る生活を続けたため、近眼になってしまったそうです。

そんな樋口一葉を見かねた父則義は、樋口一葉を、和歌を学ぶ塾である歌塾「萩の舎」に入塾させます。

その結果、樋口一葉は、この塾で文才を高めて行きます。

ところが、この頃に樋口家の家計があぶくなります。

1889年、役人を辞めて運送業を始めた父が事業に失敗します。

次男虎之助は、親と折り合いが悪く勘当され家を出ていきます。長女ふじは嫁いで家を出ます。追い討ちをかけるように長男泉太郎が肺結核で亡くなります。

更に悪いことに,1889年7月、父が莫大な借金を残して急死します。

その結果として,樋口家には母、妹、樋口一葉の女3人だけが残されます。

その結果、わずか17歳の樋口一葉が、樋口家を相続し戸主となってしまいました。

明治期の戸主は、家族の扶養義務を負いますので、樋口一葉は、17歳にして、母と妹を食べさせていかなければならなくなってしまいました。

樋口一葉の究極の極貧生活の始まりです。

生活に困窮した樋口一葉は、生活費の稼ぐ手段を考えます。

まず、当時の女性の仕事の代表格であった着物の洗濯や針仕事などの内緒を検討しますが、単価が安い上、近眼で不器用でもあった樋口一葉にはハードルが高過ぎました。

次に、歌塾の師匠である中嶋歌子に教師の世話をしてもらおうとしましたが、学歴のない樋口一葉には叶えられませんでした。

そんな中、樋口一葉は、歌塾の先輩であり貴族院議員の娘でもあった田邊龍子が短編小説を書いて33円20銭もの大金をもらったという話を耳にします。樋口家が3か月は暮らせる金額です。

その話を聞いて、樋口一葉は、文章を書くのであれば自分でも可能であると考え、作家として生計を立てるべく小説を書き始めます。

樋口一葉は、自ら好んで小説家となったのではなく、自分の能力の中から稼ぎとなりそうなものを振り返り、消去法で小説家となったのです。

イケメン小説家への弟子入りと初めての恋

小説家となることを決めた樋口一葉ですが、このときまで小説など書いたのともなかったため、まずは小説を書くという方法を学ぶべく、知人のつてを辿って、当時、朝日新聞で小説を連載していた半井桃水(なからいとうすい)を訪ね,以降同人の指導を受けることとなります。

なお、先に述べたとおり、樋口一葉の本名は樋口奈津というのですが、小説家を書くに際して一葉というペンネームをつけています。

その由来は、中国禅宗の祖である達磨大師にあります。達磨大師は、座禅修行の結果手と「足」を失ったのですが、樋口一葉は、自分は貧乏のためにお金(お金のことを女房言葉で「お足」と言います。)がなく、共に「お足」がないと達磨大師に親近感を持ちました。そこで、樋口一葉は、達磨大師が揚子江を下る際に一枚の葦の葉に乗ったという故事にちなみ、自身の貧乏を皮肉って一葉と名付けたそうです。

そして、1892年(明治25年)、20歳の樋口一葉は幼なじみの報われない悲恋を書いた処女作「闇櫻」で作家デビューを果たします。

ところが、これを掲載した文芸誌「武蔵野」の売れ行きが悪く廃刊となり、樋口一葉は、原稿料を受け取ることができませんでした。

また、この頃、樋口一葉と半井桃水との関係が噂に上り、樋口一葉は、自らの意思で半井桃水の下を去ります。

失意の樋口一葉に、1892年(明治25年)11月、チャンスが訪れます。

歌塾の先輩である田邊龍子の紹介で、文芸誌に職人が芸術を求めるがためにその家族を不幸にしていくとい物語「うもれ木」という名の小説の連載が開始します。

樋口一葉は、勘当されて家を出た兄虎之助をモチーフにこの話を書いたと言われています。

樋口一葉は、この作品で、初めて原稿料をもらいます。その額は、11円75銭でした。

初めて原稿料を得た樋口一葉ですが、もらった額は、1ヶ月の生活費程度のものでしたので、これで貧乏生活から脱出するには至りませんでした。

挫折して一度小説家を諦める

その後も、樋口一葉は、なかなかヒット作に恵まれず、遂には、一度小説家の道を諦めます。

そして、1893年(明治26年)、樋口一葉は、一念発起して、吉原遊郭の近くで雑貨屋を始めます。主に子供たちを相手とする今でいう駄菓子見たいな店舗でした。

開いた店が雑貨店ではありましたが、その立地的が吉原近くで遊女も訪れる場所であったことから、樋口一葉は,遊女達からその文才を買われて、恋文の代筆を引き受けるようになります。

なお、余談ですが、このとき遊女達から男を転がす技を学んだ樋口一葉は、言葉巧みに男から借金をしたりしながら、生活をしていたようです。

もっとも、樋口一葉に商才はなく、僅か9ヶ月で店は廃業に追い込まれてしまいました。

ただ、この雑貨店経営時の経験は、その後の樋口一葉の飛躍のきっかけとなります。

遊女の話や、恋文の代筆など(一説には、このときに妾も経験したとかしていないとか)、生々しい男女間の機微を経験し、この経験が後の文学作品にも生かされていくこととなったためです。

再び小説を書き始め飛躍(奇跡の14ヶ月)

雑貨店を閉店してから半年後、樋口一葉は再び小説を書き始めます。

復帰第一作が、1894年(明治27年)、お金をテーマに書いた「大つごもり」です。

困窮する叔父一家のため、奉公先から2円盗んでしまう少女の物語で、雑貨店経営時代の経験を基に、労働の過酷さを数字で示しながら書くという新しい書き方をしています。

そして、ここから、樋口一葉の飛躍が始まります。

1895年(明治28年)、樋口一葉は、代表作「たけくらべ」を発表します。

遊郭界隈に暮らす少年信如・少女美登利との初恋を描いた群像劇で、恋という言葉を使うことなく、登場人物の具体的な描写を用い、人物の言葉ではなく物に語らせるという手法で、若い2人の切ない報われない初恋を描ききったのです。

たけくらべは、当時の文壇で大絶賛されます。

正岡子規は、一行を読めば一行に驚き、一回読めば一回に驚く、樋口一葉とは何者だ、と絶賛。

森鷗外も、たとえ世の人から一葉崇拝の嘲をうけても、一葉に誠の詩人という称を送ることを惜しまないとまで述べています。

樋口一葉の飛躍は、まだ終わりません。

1895年(明治28年)、樋口一葉は、続けて「にごりえ」を発表します。

酌婦として生きる女性を通じて不条理な世の中を生きる懸命さを見事に描き、名声を不動のものとします。

惜しまれる早逝

小説家として大成した樋口一葉の下には、彼女を慕う若き作家達が集うようになります。

その中には、島崎藤村も含まれていました。

世に知られ、もてはやされるようになり、これからその生活も豊かになろうとした矢先に不幸が訪れます。

1896年(明治29年)11月23日、作家として将来を期待されながら、肺結核により24歳の若さで亡くなることとなってしまったのです。

後世の評価(5000円札の顔として)

樋口一葉は、優れた作家として現在まで、その名を知られる偉人と言えます。

教科書にも載っていますので、誰でも名前を聞いたことがあるはずです。

他方、私生活では、生涯お金の苦労が絶えず、そのことからお金に対する強い執着が見て取れます。

樋口一葉にとっては、世間から絶賛された小説でさえも、自身の評価に対するバロメーターとしてではなく、単に生活資金を得るための手段としてのみとらえていたようです。

樋口一葉が5000円札の顔となった2004年当時は、1999年に男女共同参画社会基本法が施行され、女性の社会進出が加速していた時代でした。

そんな時代の先駆けとして、男性に頼らず、自らの文才で生きて行った象徴として樋口一葉が選ばれたのでしょうが、その選定には疑問も感じます。

文学的に新しく優れた作品を残した人物とは言え、生涯お金に苦しめられ続けた人を、日本の顔ともいえる紙幣の肖像に選ぶセンスはどうかと思いませんか?

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