【第74代・鳥羽天皇】白河法皇の後に28年間院政を敷いた希代の政治家

鳥羽天皇(とばてんのう)は、子である崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の治世28年に亘って院政を敷いた人物です。

若い頃は、白河法皇の権力維持の駒として使われ苦労するも、その崩御後にその立場にとって代わるという見事な政治劇により権力を手にした希代の政治家でもありました。

本稿では、政治闘争を勝ち抜き、一大権力を手にした鳥羽天皇(上皇・法皇)の生涯について見ていきたいと思います。

鳥羽天皇即位

出生(1103年1月16日)

鳥羽天皇は、康和5年(1103年)1月16日、堀河天皇の皇子として、藤原実季の女である藤原苡子(贈皇太后)との間に生まれます。諱は、宗仁(むねひと)と言いました。

母に育てられるはず鳥羽天皇でしたが、産後の肥立ちが悪く同年3月5日に母の藤原苡子が死去したため、祖父である白河法皇に引き取られて養育されます。

そこで、鳥羽天皇は、白河法皇の権力維持のための駒として使われます。

即位

鳥羽天皇は、誕生から7か月で立太子され、父の堀河天皇の死後、嘉承2年12月1日 (1108年1月15日)に僅か5歳で即位します。

当然ですが、数え5歳の子供に政治などできるはずがありませんので完全にお飾りの天皇であり、政治は引き続き白河法皇によって行われます(白河院政)。

鳥羽天皇は、幼いころに大病を患ったため体が弱かったのですが、天永4年(1113年)1月1日)に元服し、永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内して翌年には中宮となり、その間に5男2女を儲けています。

なお、父の堀河天皇と並ぶ笛の名人であり、また催馬楽や朗詠にも優れていたことで知られており、天永3年(1112年)の白河法皇の60歳の御賀の際には催馬楽を披露しています。

また、元永元年(1118年)には、白河の地(現在の岡崎グラウンド西側から京都会館までの間)に御願寺である後の六勝寺の1つにかぞえられる最勝寺を創建しています。

白河院政下

崇徳天皇に譲位(1123年1月23日)

白河院政の傀儡として天皇を務めていた鳥羽天皇でしたが、年月を経て成長していくと白河法皇の意のままに動かなくなることが出てきます。

鳥羽天皇にも意志があるので当然です。

こうなると、白河法皇としても、意のままにならない天皇など邪魔でしかありませんので、保安4年(1123年)1月23日、鳥羽天皇から、その第一皇子である崇徳天皇に譲位させられます。

この結果、鳥羽天皇は、鳥羽上皇となったのですが、その後も白河法皇が実権を握り続けます。

白河法皇との確執

新たに天皇となった崇徳天皇は、「系図的には」曾祖父が白河上皇、祖父が堀河上皇、父が鳥羽天皇という縦四代の関係性にあったのですが、「真実は」白河上皇と鳥羽天皇の妻・藤原璋子(待賢門院)の不倫の結果として生まれた子であったため、「血縁上の」父は白河上皇でした(そのため、実際は、鳥羽天皇からすると、崇徳天皇は、妻が産んだ子でありながら子ではなく叔父であったのです。)。

そのため、妻を寝取られる形となった鳥羽天皇は、崇徳天皇を「叔父子」と呼び忌み嫌っていました。

もっとも、鳥羽天皇は、白河上皇を後ろ盾とする崇徳天皇を攻撃する力を持っていなかったためこの時点で何らかの行動をとることはできなかったため、表面上は円満な親子を演じていました。

この複雑な関係が、後に様々な問題を引き起こしていきます。

鳥羽院政

鳥羽院政開始(1129年7月)

大治4年(1129年)7月7日、絶対的権力者であった白河上皇が崩御すると、その権力は鳥羽上皇に引き継がれることとなり、ここから鳥羽上皇による院政が始まります(鳥羽院政)。

目の上のたん瘤であった白河上皇が存命であったときは我慢していた鳥羽上皇でしたが、白河上皇が崩御したことにより権力を手に入れた後は白河法皇の影響力を排除することから始めていきます。

朝廷を掌握

まず、鳥羽上皇は、天承元年(1131年)、白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居させられていた前関白・藤原忠実を呼び戻し、娘の藤原泰子(高陽院)を入内させます。

また、白河法皇近臣の多くを鳥羽上皇近臣に横滑りさせるも、意に反する行動をとる藤原長実・家保兄弟らについてはこれを排除するなどして徐々に院の要職を自己の側近で固めていきます。

さらに、伊勢平氏の平忠盛(平清盛の父)の内昇殿をゆるし、政権に近づけるなどして、武力も得て朝廷内を掌握していきます。

加えて、白河法皇の後ろ盾を失った藤原璋子(待賢門院)を遠ざけ、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛するようになります。

近衛天皇を即位させる(1141年)

朝廷を概ね掌握した鳥羽上皇は、次に、自分の子供ではない上、成年となっているために意のままに動かし難くなっている崇徳天皇を天皇の座から引きずり下ろすために策をめぐらします。

まず、永治元年(1141年)12月7日に、崇徳天皇の異母弟を「養子にする」ことを条件として23歳となっていた崇徳天皇を退位させ、藤原得子(美福門院)との間に生まれた第九皇子である3歳の躰仁親王を近衛天皇として即位させます。

このとき、崇徳天皇は、近衛天皇を養子にして皇位を引き継がせると、崇徳天皇が近衛天皇の父となりますので、鳥羽上皇の次の治天の君として院政を行う権利を得ることとなるため、喜んで譲位に同意したのですが、ここで鳥羽上皇が予想外の一手を打ちます。

近衛天皇は、崇徳天皇の中宮・藤原聖子の養子となったために崇徳上皇の「皇太子」だったはずなのですが、譲位の宣命に「皇太弟」と記したのです(愚管抄)。

その結果、公的には、近衛天皇は、崇徳上皇(退位したため、この時点では上皇となっています。)の子ではなく弟とされてしまいます。

これは、崇徳上皇にとって大問題となります。なぜなら、院政は治天の君である天皇の「父」が行うもので、天皇の「兄」では院政を行うことができないからです。

これにより崇徳上皇が院政を行う可能性が閉ざされました。

とんでもない嫌がらせです。

受戒し法皇となる(1142年)

そして、鳥羽上皇は、康治元年(1142年)、東大寺戒壇院で受戒し、鳥羽法皇となります。

後白河天皇を即位させる(1155年)

仁平3年(1153年)頃から近衛天皇が病気がちになり、久寿2年(1155年)7月23日、皇子女を儲けることなく、御所としていた近衛殿において崩御されました(宝算17歳)。

近衛天皇には子がありませんでしたので、近親者から次期天皇を擁立する必要が生じ、このとき最有力候補となったのは重仁親王(崇徳上皇の子)であり、以下、守仁親王(鳥羽法皇の孫・崇徳上皇の甥)などの名が挙げられます。

このとき、崇徳上皇を天皇の父にして院政を始めさせたくない鳥羽法皇が、重仁親王の即位を阻止するため、守仁親王を擁立するよう動き出します。

もっとも、年少である守仁親王を、父親である雅仁親王を飛び越えて即位させるのは妥当ではないとの意見も出ていたため、王者議定の結果、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王を後白河天皇として即位させることに決まりました。

この結果、またも子を天皇にすることが出来なかった崇徳上皇は、鳥羽法皇方に対する怒りが収まらなくなります。

鳥羽法皇崩御

鳥羽法皇崩御(1156年7月2日)

その後、鳥羽法皇は病を得て、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽の安楽寿院御所にて崩御されました。なお、臨終の直前に崇徳上皇が鳥羽法皇の直前に見舞いに訪れたのですが、鳥羽法皇が側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したためだったため対面が許されず(古事談)、これを聞いた崇徳上皇が憤慨して鳥羽田中殿に引き返したとの逸話が残されています

鳥羽法皇は、遺諡によって鳥羽院と追号され、院号が廃止された明治以後は鳥羽天皇と呼ばれるようになっていますら、

鳥羽法皇は、亡くなる17年も前である保延5年(1139年)に、鳥羽(現在の京都市伏見区竹田浄菩提院町)にある安樂壽院境内に三重塔(本御塔)の寿陵を営み、崩御後、遺詔によりその遺骸はこの塔下に納められました。

なお、安樂壽院境内には、藤原得子(美福門院)の墓所として三重塔(新御塔)も建てられていたのですが、藤原得子が新御塔に入るのを拒否したため、藤原得子は火葬されて遺骨は高野山に納められ、その後、三重塔(新御塔)には近衛天皇の遺骨が納められています。

保元の乱勃発

鳥羽法皇が崩御されたことにより、残された後白河天皇が崇徳上皇排除に動き出し、対する崇徳上皇がこれに対抗して武力蜂起をしたことから、政治的地位と皇位を巡って朝廷を二分して争う保元の乱に発展していきます。

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