【第71代・後三条天皇】摂関政治終焉のきっかけとなった天皇

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は、寛徳2年(1045年)1月16日に即位した第71代天皇です。

宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であり、摂関家の絶大な政治権力の制限に尽力し、摂関政治を終わらせるきっかけを作った日本政治史を語るうえで絶対に外せない超重要人物です。

後三条天皇即位に至る経緯

出生(1034年7月18日)

後三条天皇は、長元7年(1034年)7月18日、後一条天皇の皇太弟・敦良親王(後の後朱雀天皇)の第2皇子として、皇后・禎子内親王(第67代三条天皇の第3皇女、陽明院)との間に生まれます。

諱は尊仁(たかひと)といいました。なお、標記がややこしくなるため、本稿では、譲位まで「後三条天皇」の表記で統一して記載します。

異母兄に後冷泉天皇がいます。

後三条天皇は、父・敦良親王の即位に伴い、長元9年(1036年)12月に親王宣下を受けます。

藤原摂関家に疎まれた幼少期

後三条天皇は、外戚関係を利用した藤原摂関家による摂関政治全盛期に幼少期を過ごします。

この点、前記のとおり後三条天皇の母は、第67代三条天皇の第3皇女である禎子内親王であったため、藤原摂関家の出身者ではありません(一応、藤原道長の外孫ではありますがその関係は希薄でした。)。

そのため、後三条天皇(このころはまた尊仁親王といいました)が即位すると藤原氏が外戚になりません。

その結果、後三条天皇は、幼いころから藤原摂関家の中心人物である関白藤原頼通・藤原教通兄弟に疎んじられて成長していきます。

また、藤原頼通や藤原教通は、自らが外祖父となるために新たな天皇を即位させるため、後冷泉天皇の後宮に娘を入内させるなどして、後三条天皇に圧力をかけ続けます(御冷泉天皇は、なかなか後継ぎを儲けませんでしたので、後三条天皇に対する嫌がらせは相当なものであったそうです。)。

もっとも、藤原摂関家の中にも後三条天皇に対する配慮を見せる人物も存在し、特に藤原頼通らの異母弟である藤原能信は後三条天皇を支援しています。

皇太弟となる(1045年1月16日)

死期が迫った後朱雀天皇の後継として(寛徳2年・1045年1月18日崩御)、寛徳2年(1045年)1月16日、後冷泉天皇が第70代天皇として即位します。

この後冷泉天皇即位にあたり、その異母弟である後三条天皇が12歳の若さで皇太弟となります。

なお、後朱雀天皇崩御の際も、藤原摂関家から後三条天皇に対する嫌がらせが続いており、藤原頼通らは後三条天皇が皇太弟となることについて強く反対したのですが、藤原能信が、後朱雀天皇の遺詔であるとして強く勧めたために皇太弟となるに至ったとされています(今鏡)。

その後も、藤原摂関家から後三条天皇に対する嫌がらせは続き、藤原頼通は、歴代親王が皇太子就任時(東宮就任時)に伝領するはずの「壺切御剣」について、「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」として、天皇即位までの23年もの長きに亘って後三条天皇に献上しませんでした(ただし、誤りとの説もある。)。

藤原摂関家から嫌がらせを受け続けた後三条天皇は、永承元年(1047年)12月19日、元服を迎えています。

第71代天皇として即位(1068年4月19日)

後三条天皇が皇太弟となった後も、世間では藤原頼通・藤原教通兄弟がそれぞれに娘を後冷泉天皇の妃にしていたため、そのうち男子が生まれて皇太子が変更されるだろうと噂され、後三条天皇やその春宮大夫となった藤原能信への扱いは冷ややかなものでした(そのため、後三条天皇が成人しても娘を入内させる公卿はなかったため、藤原能信は、妻祉子の兄である藤原公成の娘・藤原茂子を養女にし、後三条天皇の立太子に際し添臥として入内させています。)。

ところが、後冷泉天皇は、治暦4年(1068年)4月19日皇子に恵まれることのないまま崩御します。

その結果、同日、皇太弟たる後三条天皇が、35歳で第71代天皇として即位します。

第59代・宇多天皇依頼、約170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇が誕生した瞬間でした。

こうなると藤原摂関家としては大変です。

外戚の立場を失った上、それまでさんざん嫌がらせをしてきた後三条天皇が最高権力者となってしまったからです。

即位した後三条天皇は、今までの恨みから、当然に次々と反藤原摂関家政策を打ち出していきます。

藤原摂関家の人間が外祖父であることもありませんので、後三条天皇の政策を止める人物も存在しません。

延久の善政

人事の再編

後三条天皇即位直後に、藤原頼通が関白を辞職します。

もっとも、このときはまだ藤原摂関家を政治の中心から排除するにまでは至らず、第66代一条天皇の中宮であった上東門院彰子の推挙で藤原頼通の弟である藤原教通が次期関白となります。

もっとも、すでに35歳という年齢に達していた後三条天皇は、藤原教通の言いなりになることはなく、これに対抗する人事として反・摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故藤原能信の養子の藤原能長や、村上源氏の源師房や源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図っていきます。

また、大江匡房や藤原実政等の中級・下級貴族などを能力に応じて積極的に登用し、家柄にとらわれない人事を行っていきます(源隆国などの東宮時代に自らを蔑ろにしていた者などについても、報復的態度を取らないように公正な態度を示したようです。)。

大内裏の再建

後三条天皇は、新たに登用した大江匡房らを重用し、一連の改革に乗り出します。

まずは、大内裏の再建からです。

大内裏は、14回もの焼失・再建を繰り返しており、後三条天皇は、即位時に荒廃していた大内裏を再建しています。

征夷の完遂(延久蝦夷合戦、1070年)

次に、征夷の完遂です。

後三条天皇は、延久2年(1070年)、陸奥守・源頼俊に蝦夷討伐を命じます。

これにより、陸奥守・源頼俊は、朝廷軍を編成し国府を発ち北上し、助勢した清原貞衡の兵を加えて蝦夷と戦います。

この戦いの結果、津軽半島と下北半島まで朝廷の勢力下におくことに成功し、これにより本州全土が朝廷の支配下にはいることとなりました(なお、この合戦の途中で総大将の源頼俊が失脚したため、遠征が事実上中止なり、津軽半島・下北半島が朝廷の支配下にはいったのは後三年の役の後の奥州藤原氏の時代になってからという説もあります。)。

経済基盤の強化(延久の荘園整理令)

最後に、朝廷の経済基盤の確立です。

そして、いよいよ後三条天皇は、藤原摂関家の経済基盤にメスを入れます。

代々の天皇が失敗し続けてきた荘園整理を、緻密かつ大胆に行うこととし、治暦5年/延久元年(1069年)、延久の荘園整理令を発布します。

具体的には、記録荘園券契所を設置し、それまでとは異なって藤原摂関家や大寺社にまでその効力を及ぼしました(もっとも、上皇をその範囲に入れていなかったため、後に白河上皇への荘園寄進が進み、院政へと繋がっていきます。)。

これによって基準外の摂関家領が没収できるようになり、摂関家の経済基盤に大打撃を与えました。

また、延久2年 (1070年)には絹布の制、延久4年 (1072年)には延久宣旨枡や估価法の制定も行い、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図ります。

これら一連の改革により、役人・荘園領主・農民に安定をもたらし、延久の善政と称えられました(古事談)。

なお、一連の改革は、後三条天皇による藤原摂関家への挑戦でしたが、藤原摂関家側は藤原頼通・藤原教通兄弟が対立関係にあったこと、後三条天皇と外戚関係がなかったことから有効な対抗策を打ち出すことが出来ず、その力が急速に衰えていきます。

後三条上皇崩御

白河天皇へ譲位(1072年12月8日)

こうして摂関政治から院政へ移行する過渡期となり、数々の改革を始めた後三条天皇でしたが、即位後僅か4年経過後の延久4年12月8日(1073年1月18日)、第一皇子である貞仁親王に譲位し、第72代・白河天皇として即位させます。

働き盛りでの譲位の理由について様々な説がありますが、翌年に崩御していることから健康上の理由であったのではないかと推測されます。

後三条上皇崩御(1073年5月7日)

上皇となった後三条天皇は、翌年には病に倒れ、延久5年(1073年)5月7日、大炊御門万里小路殿(京都府京都市中京区富小路通夷川上る西側)にて崩御します。40歳でした。

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