【多々良浜の戦いから湊川の戦いまで】建武政権が足利尊氏に敗れた終盤戦

鎌倉幕府討伐後、その功労者である後醍醐天皇と足利尊氏確執は、中先代の乱の後に始まります。

両者の争いは、中先代の乱の後、矢作川の戦い、手越河原の戦い、箱根・竹ノ下の戦い、第一次京都合戦、打出・豊島河原の戦い、多々良浜の戦い、湊川の戦いを経て建武政権が倒れて終了します。

これらの一連の戦いのうち、前回建武政権が足利尊氏を追い払った前半戦を説明しましたので、今回は、足利尊氏が勢力を盛り返した多々良浜の戦いから建武政権終焉と室町幕府設立のきっかけとなった湊川の戦いまでについて見ていきましょう。

足利尊氏九州で復活

足利尊氏九州へ落ち延びる

豊島河原の戦いに大敗した足利尊氏は、弟・足利直義と共に、大友・大内水軍の援助を受け、鎌倉幕府討伐戦を共に戦った肥前国守護の少弐貞経を頼って九州に落ち延びます。

そして、九州・赤間に到着した足利尊氏は、肥前国守護の少弐貞経らに迎えられ、その本拠地である太宰府において再起を図ろうと考えます。

ところが、そう簡単にはいきませんでした。

足利尊氏は、少弐貞経死亡後は少弐貞経の子である少弐頼尚の庇護を受け九州での再起を図ります。

そして、足利尊氏は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範を取り込み、その支援も受けて宗像大社にて戦勝祈願を行い、九州の建武政権軍との戦いに挑みます。

このときの九州の建武政権方は菊池氏(肥後国)、秋月氏(筑前国)、阿蘇氏(肥後国)、蒲池氏・星野氏(筑後国)であり、その数は約2万騎でした。

対する足利尊氏方は、少弐氏(筑前国)、大友氏(豊後国)であり、その数2000騎と圧倒的な劣勢でした。

多々良浜の戦い(1336年3月2日)

足利尊氏は、香椎宮において少弐頼尚とともに布陣していたのですが、このときに菊池武敏が、少弐氏の本拠地・有智山城(うちやまじょう)を陥落させ、少弐家当主の少弐貞経を自害に追い込みます。

有智山城を攻略して勢いに乗る菊池軍は、香椎宮に布陣する足利軍へ向かって進軍していきます。

足利尊氏は、菊池方の圧倒的な大軍を見て勝ち目なしと判断し、一旦は自害をしようとしたのですが、弟・足利直義に止められ自害を止められ、やむなく抗戦することとなります。

足利軍は、足利直義を先頭にして、建武3年(1336年)3月2日、筑前国の多々良浜(福岡市東区多々良川付近)にまで進んできた菊池軍に突撃を仕掛けます。

多々良浜の戦いの始まりです。

圧倒的な兵力差と落ち延びてきた兵の装備の乏しさから、当初は菊池軍優勢で戦いが進みます。

兵数に勝るために慢心があった菊池軍は、後がない足利軍の鬼気迫る突撃に圧倒されて次々と陣形を突破されていきます。

そして、足利軍の勢いを見た菊池軍の兵士たちは、少しずつ足利軍に寝返っていきます。

足利軍は、寝返ってきた兵を吸収しながら勢いを緩めることなく菊池軍の本軍を目指して突撃を続けます。

形勢危うしと見た菊池軍が撤退を開始すると戦局は一転し、菊池軍が総崩れとなり敗走します。なお、このときに菊池方の阿蘇惟直が戦死しています。

足利軍は、撤退していく菊池軍を散々に打ち破って武勇を示し、その勢いのまま菊池氏を除く九州のほぼ全域に亘る武将達を味方に引き入れることに成功します。

京へ向かう足利尊氏と防衛を図る建武政権軍

足利尊氏東進・新田義貞播磨国で足止め

九州で勢いを取り戻した足利尊氏は、再び軍勢を引き連れて京都に向かって東進を開始します。

足利尊氏が京に向かって進軍を開始したとの報を耳にして、後醍醐天皇をはじめとする建武政権首脳たちは驚愕します。

後醍醐天皇らは、足利尊氏が九州で野垂れ死んでいるのである程度の認識しか持っていなかったからです。

焦った建武政権では、新田義貞に命じて足利尊氏討伐軍を編成させます。

新田義貞は、急ぎ軍を編成して足利尊氏討伐のために京を出発して西へ向かったのですが、播磨国・白旗城に籠る赤松円心が障害となります。

赤松円心の守りが固く、新田義貞軍は播磨国より西に進めませんでした。

後方から追撃されるおそれがありますので白旗城を落とさずに西進することもできません。

この間にも、九州を発った足利尊氏が、西国の武士を吸収してどんどん東に向かって進んでいきます。

足利尊氏が光厳上皇から院宣を受ける

そして、足利軍が備後国の鞆浦にたどり着いた際、遂に足利尊氏は、光厳上皇(持明院統)から新田義貞(大覚寺統の後醍醐天皇の臣下)討伐の院宣をもらい受けます。

これは、足利尊氏が、単にそれまでの後醍醐天皇(大覚寺統)から持明院統(光厳上皇)側に寝返るという意味を持つものでなく、持明院統にその地位が保証され朝敵とされていた立場が覆されることを意味します。

足利尊氏もまた皇軍となったのです。

これにより、朝廷対足利の構図が朝廷間の対決(大覚寺統対持明院統)にすげ替わりました。

朝敵でなくなった足利尊氏には、さらに味方する武士が急増します。

率いる軍が大軍に膨れ上がったため、足利尊氏は、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流し、陸路を弟・足利直義に任せ、自らは海路を進むという二方面作戦にて東進を続けます。

楠木正成も西へ(1336年5月16日)

東進を続ける足利尊氏軍は、遂に播磨国近くまで軍を勧めます。

このとき、赤松円心を攻めていた新田義貞は、そのとき擁する兵では迫りつつある足利尊氏率いる大軍とは戦えないと判断し、白旗城の囲みを解いて東に向かって撤退を開始します。

ところが、戦上手の赤松円心は、撤退を始めた新田軍に追撃を仕掛け、新田軍を散々に打ち破ります。

これにより新田軍では、大量の寝返り兵・投降者を出し東に向かって敗走します。

多くの兵を失った新田義貞は、建武3年(1336年)5月13日、兵庫(現・兵庫県神戸市兵庫区)まで兵を退いて軍の立て直しを図ります。

足利尊氏が京に迫っていること、新田義貞が赤松円心に大敗して撤退したことを聞かされた後醍醐天皇は、楠木正成を呼び対応策を検討させます。

ここで、楠木正成は、大軍となった足利尊氏軍を、寡兵の建武政権軍で打ち破ることは困難であるため、、足利尊氏と和睦するか、あるいは後醍醐天皇が比叡山に上って京を留守にして足利軍を京に誘みこれを取り囲んで兵糧攻めにするとの策を後醍醐天皇に進言します。

ところが、後醍醐天皇は、1年間に2度も天皇が京都から逃亡するなど権威に関わるなどという形式的な理由で楠木正成の献策を却下し、そればかりか楠木正成に新田義貞への援軍に加わるよう命令します。

知ってか知らずかは不明ですが、後醍醐天皇から楠木正成への事実上の死刑宣告です。敗れて死んで来いという命令です。

このときの楠木正成の胸中はどのようなものだったのでしょうか。

楠木正成にとって後醍醐天皇の命令は絶対であり、建武3年(1336年)5月16日、楠木正成は敗れて死ぬのがわかりつつ、新田義貞の援軍として兵を率いて兵庫に向かって京を発ちます。

桜井の別れ(1336年5月)

京を発って西に向かう楠木正成軍が西国街道の宿駅である桜井駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井1丁目付近・JR島本駅前)にさしかかった頃、楠木正成は、数え11歳の嫡男・楠木正行を呼び寄せて故郷の河内国へ帰るよう命じます。

父が死に至る戦いに向かうことがわかっている楠木正行は、自分も父と共に従軍させてほしい旨を懇願しますが、楠木正成は頑としてこれを拒否します。

自分が死ぬことがわかっている楠木正成は、嫡子楠木正行に対して、自分の死後後醍醐天皇に仕えていずれ足利尊氏を討伐せよと言い残し、かつて後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を形見として渡し、今生の別れとしました。

なお、後日談ですが、楠木正成が嫡子の楠木正行を本拠地の河内国へ帰したこのエピソードは「桜井の別れ」として、勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くすことのプロパガンダとして講談などで人気を博し、戦前の皇国史観教育や唱歌などでも盛んに取り上げられています。

湊川の戦い

湊川の戦いの布陣

桜井の別れを経てそのまま東に向かって進軍した楠木正成軍は、建武3年(1336年)5月24日、新田義貞の待つ兵庫に到着し新田義貞軍に合流します。

これに対し、足利軍は、陸路を足利直義・少弐頼尚・斯波高経らが、海路を足利尊氏が東進してきます。

新田義貞は和田岬に本陣を置き、脇屋義助・大舘氏明らを経ヶ島付近に布陣させて、足利方の陸路軍・海路軍のいずれに対応できるように備えます。

また、楠木正成は、会下山に陣を敷いて戦局を俯瞰し、遊軍として戦局が動いたところに攻撃を仕掛ける作戦となりました。

湊川の戦い開戦(1336年5月25日)

建武3年(1336年)5月25日辰刻(午前8時頃)ころ、海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、戦いの準備が整います(なお、当時は現在よりも海面が高く、湊川付近では現在よりも海が六甲山地に迫っていることから平地が狭く大軍の行動には適さなかったため、水軍を持っていなかった新田義貞方は作戦行動に決定的なビハインドとなっていました。)。

もっとも、海路を行く足利軍に対し、水軍を準備できなかった新田義貞方では、海路を行く足利尊氏隊を迎撃することができません。

そこで、新田義貞方では、やむなく経ヶ島付近に布陣した脇屋義助があった隊の船に向かって矢を射かけ、これに対して海路を進む足利尊氏隊のうち、佐々木顕信隊が矢を射返すことにより、いわゆる矢合わせが始まりました。なお、足利水軍の他の隊はそのまま東進を続けます。

また、このとき、陸路を進む足利直義隊も湊川に到着し、まずは足利直義隊の最右翼の少弐頼尚隊が、新田義貞隊の最左翼の大舘氏明と衝突します。

さらに、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回りこみました。

各所で激戦が始まります。

このとき、東進を続けていた足利水軍の中か、最前を進む細川定禅率いる細川水軍が新田義貞を引き付けるためにあえて東へ移動し新田義貞本陣の東側から上陸しようと見せかけたため、新田義貞方の新田義貞本隊と脇屋義助隊が東に釣られていきます(新田方はこの細川水軍が足利尊氏のいる本隊と誤認していました。)。

新田義貞が東側へ引き寄せられた隙をついて、後続していた足利尊氏本隊が方向転換をして、手薄となった和田岬に取りつき足利尊氏本隊の上陸が始まります。

楠木正成の最期

足利尊氏本隊が和田岬に上陸した後、先行していた細川定禅隊も上陸したところで、退路を断たれる危険を察知した新田義貞隊は東へ後退をしていきます。

新田義貞隊の後退により、楠木正成隊のみが足利方の大軍の真ん中に取り残されました。

敵陣の真っ只中に単独で残されて後がなくなった楠木正成は、700騎を率いて面前にいる足利方陸路隊の総大将である足利直義隊のみを目指して突撃していきます。

足利直義隊は、突撃してくる楠木正成隊を討ち取ろうと防戦をしますが、決死の楠木正成隊は脇目もふらずに足利直義のみを目指して進んでいき、防戦一方となった足利直義隊を須磨まで押し込んでいきます。

足利軍は、押し込まれていく足利直義隊を見てすぐさま援軍を派遣し、後方(東側)から楠木正成隊に襲い掛かります。

新手にも果敢に奮戦した楠木正成隊でしたが、多勢に無勢のため疲弊し、6時間に亘る合戦中に楠木正成・楠木正季により16度もの突撃を行ったという伝説を残し力尽きます。

楠木正成と楠木正季は、湊川の民家にて互いに刺し違えて自害し、残りの腹心らも後を追ったと言われています。

英雄・楠木正成の最期でした。

足利軍による新田義貞追撃

楠木正成の脅威を脱した足利直義は、足利尊氏本隊と合流し、東に向かった新田義貞の追撃に向かいます。

このころ、一旦東へ後退した新田義貞は、西宮で体制を整え、西進してくる足利軍を迎え撃ちます。

新田義貞は、4万余騎の軍勢を三方に分け、生田の森を背に迫りくる足利軍と激突します。

新田軍と足利軍の戦いは一進一退を続けていましたが、次第に兵数に劣る新田軍が押され始めます。

そして、遂には新田軍が崩壊し、新田義貞も丹波に向かって落ちていきます。

この撤退戦では、新田義貞が自ら殿を務め、乗っていた馬が矢を射られて負傷しても求塚の上に降り、味方からの乗り換えの馬を待ちながら、源満仲の代から伝わる源氏重代の宝刀、鬼切・鬼丸の二振りの太刀を左右の手に持ち戦ったと言われています。

命からがらの撤退戦をしのぎ切った新田義貞は残兵6000騎を纏めて京に戻り、三種の神器と共に後醍醐天皇を連れて比叡山に撤退します。

建武政権の終焉

足利尊氏は、後醍醐天皇がいなくなった京に入り、光厳上皇を治天の君に擁立した上で、建武3年/延元元年(1336年)8月15日持明院統の光明天皇(光厳天皇の弟)を擁立します。

そして、後醍醐天皇は、同年10月10日に足利尊氏に投降して天皇の座から下ろされて京の花山院に幽閉され、同年11月2日に光明天皇に三種の神器を差し出したことにより建武の新政が終わります。

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