【小田原合戦】豊臣秀吉天下統一の総決算と後北条氏の最後

豊臣秀吉の天下統一の総決算である小田原合戦。小田原征伐とも言われます。戦国時代の大大名北条氏が滅亡する原因となった合戦です。

同じ規模の大名であった徳川家康が一旦豊臣秀吉に臣従した後に天下をとったのと対比し、あくまで抗戦をして滅んだ北条家。

結果を知る後世の我々からすると、北条氏側の判断の誤りと考えてしまいがちですが、当時の事情を振り返ってみると、簡単にそうとも言い切れません。

以下、北条氏が、なぜ天下人豊臣秀吉と戦う道を選んだのかについて、北条氏(いわゆる後北条氏)の成り立ちから紐解いて行きます。

 

堅城小田原城と支城ネットワーク

北条氏の成り立ち

北条氏は、元々伊勢氏を名乗る室町幕府の奉公衆でした。

戦後大名として飛躍は、伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が、甥である駿河の戦国大名今川氏親の支援を受けて堀越公方を滅ぼして伊豆を獲得したことから始まります。

その後、伊勢盛時は、さらに相模へ進行して小田原城を奪取します。小田原城の獲得手段については、攻めとったものなのか割譲を受けたものなのか資料がないのでわかりません。わかっているのは、1501年に小田原城が北条早雲の手にあったという事実だけです。

難攻不落の小田原城

伊勢盛時の子氏綱が、家名を北条と改めるとともに,本拠地を小田原城に定め関東進出の足掛かりとして領土を拡大していきます。伊豆・相模の次は武蔵です。

北条氏綱が本拠とした頃の小田原城は、規模が小さく、また石垣で守られた城ではありませんでした。

北条家の家督は、北条氏綱から、北条氏康、北条氏政へと継がれ、その勢力は上野・下野にまで勢力を伸びていくのですが、それと同時に段々と小田原城の規模拡張・改修がなされていきます。

北条氏康の時代には、難攻不落と言える堅城に仕上がっていたようで、上杉謙信、武田信玄ですら落とすことはできない程でした。

支城ネットワーク

また、小田原城には、単体での優れた防御力のみならず、更なる強力な防御力がありました。いわゆる支城ネットワークです。

北条氏は、関東各地へ勢力を拡大していくに際し、交通の要衝などの戦略上の重要ポイントに大小様々な支城を整備していきました。大きな支城を見ると八王子城、滝山城、鉢形城、小机城、忍城、松山城等があり、小さい支城を加えると優に100を超える数がありました。

北条氏は、これらの支城をハブとして輸送の中継とすることにより、スムーズな兵站が確立し、戦時の軍勢や物資の運搬はもとより、平時の経済活動に強力な力を発揮しました。

また、支城自体も防御力を有していますので、どこかの支城が攻め込まれた場合には、このネットワークを生かして、すぐに他の支城から救援に向かうことができました。

支城単体での守りのみならず、支城間で相互防御が可能となったことにより、北条氏の領地全てが全体として一大防衛施設となっていたのです。

これらの防御力は絶大で、1560年に上杉謙信が10万もの大軍で小田原城を囲んだ際には、背後の支城にけん制されて退却し、また1569年に武田信玄が小田原城に攻め込んだ際も同様の成果を上げています。

 

小田原合戦の遠因

天正10年(1582年)3月に、織田信長が、天目山にて武田家を滅亡させたのですが、武田領であった甲斐・信濃を完全に制圧する前の同年6月に本能寺の変で織田信長が没します。

これにより、統治者が不在となった旧武田領の甲斐・信濃が混乱し、権力の空白地帯ができました。

このとき、この甲斐・信濃に勢力を伸ばそうと、徳川・上杉・北条が三つ巴の戦いを始めます(いわゆる天正壬午の乱です。)。

このとき、武田家という主君を失った甲斐・信濃の国衆たちは、徳川・上杉・北条のいずれかの勢力に与することで存命を計ろうと画策します。

そんな中、信濃小県・上野沼田の国衆であった真田昌幸は、徳川家康の寄力となる道を選びました。

その後、この天正壬午の乱は、最終的には、上杉氏と北条氏の講和、徳川氏と北条氏の講和によって終結を迎えます。このとき、徳川・北条間で、和睦条件として徳川家康の娘を北条家嫡男北条氏直に嫁がせるというのがあったのですが、もう1つ存在した和睦条件が問題となります。徳川家康が、北条氏政に対して、真田昌幸が有していた沼田領を割譲することを約したことです。

徳川家康からすると自分に与した真田昌幸の領地を割譲して何が悪いのかということですが、真田昌幸からすると徳川家康から与えられたわけでもなく自らの力で勝ち取った領地を譲り渡すなどできない選択です。結果、真田昌幸は、沼田領の割譲を拒絶します。

その上で、真田昌幸は、徳川方を離反し、上杉方へ寝返ります。これが、後の上田合戦につながるのですが、今回は北条家の話なので、上田合戦の話は割愛します。この辺りの話は、2016年(平成28年)度の大河ドラマ「真田丸」でも詳しく描かれていましたので、覚えておられる方も多いのではないでしょうか。

また、このときの真田昌幸の沼田領割譲拒否が、後の小田原合戦の遠因となります。

 

豊臣秀吉と北条家との確執

豊臣秀吉の台頭

惣無事令織田信長亡き後、豊臣秀吉が急速に力をつけていきます。豊臣秀吉は、1585年(天正12年)には豊臣姓を賜って関白に任官し、また徳川家康を臣従させ、四国征伐、九州征伐を経て天下人となります。

そして、豊臣秀吉は、1587年、全国の諸大名に向かって「惣無事令」というお触れを出します。豊臣秀吉の許可なく大名同士が死闘をすることを禁じ、これに反すれば豊臣秀吉が直々に成敗するというもので、実質上、全国の大名に豊臣秀吉の命令を及ぼし、その臣下にするという意味を有する宣言でした。

豊臣秀吉は、戦ではなく政治力で全国の大名の頂点に立ち、日本全国を治めるつもりだったのです。

全国の大名が臣従すれば、各個に戦で撃破して取り潰す必要などありませんので経済的だからです。

そのため、豊臣秀吉は、元々は北条氏についても攻め滅ぼす気などありませんでした。

 

この意図は北条側も十分に理解していました。北条家が240万を擁する大大名ではあってものの天下人と戦って勝てるはずがないためです。そのため、北条家側も、豊臣秀吉への臣従自体はやむなしと考えており、豊臣秀吉からの北条氏政又は北条氏直の上洛要請に対し、弟の北条氏規を行かせて、臣従のための条件交渉を行っています。

沼田領問題

そんな中、1つの事件が起こります。

全ての大名の頂点に立つと考える豊臣秀吉は、大名間の揉め事の仲裁も行います。

その中に、天正壬午の乱の際に、徳川家康と北条氏政とで勝手に約束したために真田・北条間でずっとトラブルとなっていた沼田領問題もありました。

豊臣秀吉は、天下人の義務として沼田問題に介入し、3分の2を北条へ割譲し、名胡桃城を含む残り3分の1を真田に残すという裁定を下します。

ところが、北条氏政は、一旦はこの裁定を受け入れようとするものの考え直し、徳川との約定で、沼田領の全てが北条家のものとなっているはずで、3分の1を真田に残すなど認められないとして、豊臣秀吉の裁定を蹴ってしまいます。

北条氏政は、鉄壁の小田原城を擁し、徳川家康・伊達政宗と姻戚関係があるためにいざとなれば3大名協力して豊臣秀吉に対抗ができると考えており、豊臣秀吉にへりくだる必要がないと考えていたためです。自らの国力を過信していたのかもしれません。

名胡桃城の奪取

豊臣秀吉の裁定を蹴った北条氏は、実力行使に出ます。天正17年(1589年)10月23日、北条家臣の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田氏が沼田領内に有していた名胡桃城を急襲して奪取してしまったのです。

知らせを聞いた真田昌幸は狼狽し、徳川家康を通じて豊臣秀吉にその事情を報告します。

自らの裁定を無視されてメンツを潰された豊臣秀吉は、北条氏政・北条氏直親子に詰問状を送りますが、北条親子はこれを無視します。

その後、豊臣秀吉から、北条氏に最後通牒が突き付けられましたが、北条氏政・北条氏直はまたもこれを無視します。

やむなく、豊臣秀吉は、惣無事令違反を理由に、天正17年(1589年)11月24日に北条氏に宣戦布告の上、天下統一の総仕上げとなる小田原合戦が始まることとなったのです。

北条氏は、豊臣秀吉の侵攻を前に、急ぎ防御を固めます。

小田原城を改修するとともに、予想される豊臣軍の進軍ルートに、山名城、足柄城を築き、また防衛ラインが突破された場合に備えて現在の小田原市内を丸ごと取り囲む規模の総延長9kmもの長さの総構えと呼ばれる外角陣地の改修をして、豊臣軍を待ち受けます。

 

小田原合戦

天正18年(1590年)3月1日、豊臣秀吉は、22万人とも言われる大軍を率いて京都聚落第を出発し、軍を東海道、中山道、海上に分けて小田原へ向かいます。なお、この中には北条氏と姻戚関係にあり、北条氏が自分に味方してくれると考えているた徳川家康の顔もありました。

対する北条氏の動員兵力は、5万6000人程度でしたが、堅城小田原城と支城ネットワークによる防御力と、伊達政宗の参戦・徳川家康の裏切りを期待して戦いが始まります。

豊臣秀吉は、小田原城の鉄壁の防御力を理解していましたので、大軍で直接本陣を落とす戦略をとらず、北条氏の支城ネットワークを1つ1つつぶしていくという戦略をとります。

手始めに、圧倒的兵力で箱根近くの山中城に攻め込み、わずか半日で攻略します。

その後、東からは、韮山城、下田城、玉縄城などを攻略します。

また、中山道を通って進行した別働隊が北から松井田城、箕輪城、松山城、八王子城などを次々攻略します。

圧倒的な数で押し寄せた豊臣軍は、かつて上杉謙信や武田信玄を跳ね返した支城ネットワークを瞬く間に壊滅させます。そのため、残りは小田原城本城のみとなり、北条氏は、小田原城での籠城戦を強いられます。

小田原城に籠る北条氏を見ながらも兵力に勝る豊臣軍は一向に小田原城を攻めません。

豊臣軍にとっても、深く掘られた堀と滑りやすく登りにくい関東ローム層の赤土で固められた土塁による総構えによって周囲を覆われた堅城小田原城を力攻めするといたずらに損害を増やしてしまうからです。

豊臣秀吉は、力攻めで城を制圧するのではなく、心を削って北条氏を降伏させる道をとりました。

なお、豊臣軍が小田原城を囲んでいた際に、北条氏政があてにしていた東北の雄伊達政宗が白装束をまとって豊臣秀吉に謁見し、その軍門に下ったため、後方からの援軍のあてもなくなった北条氏は孤立します。

そんな中、豊臣秀吉は、さらに追加の策を講じます。

 

1590年6月26日、小田原城南西近くの同城を見下ろす高台に、突貫工事で石垣山城という天守と石垣を擁する大城郭を出現させたのです。

突然、面前に大宮城郭を造り上げられた北条方は驚愕します。

短期間で強大な城を作り上げる豊臣秀吉の財力・技術力もさることながら、北条氏が降伏するまで退却することなく腰を据えて包囲戦を行う宣言をしている意図が明確化されたからです。

北条家家臣団は、徹底抗戦派と降伏派で意見が分かれ連日議論が重ねられますが、一向に結論が出せません。余談ですが、このときの会議を指して、議論ばかりして一向に結論が出ない会議を小田原評定という語源となりました。

その後、天正18年(1590年)7月5日に至り、勝ち目がないことを悟った当主北条氏直がついに降伏を決意します。

降伏を決めた北条氏直は、豊臣秀吉の下を訪れて自らの命と引き換えに城兵の助命を嘆願しますが、豊臣秀吉はこれを認めず、降伏条件として北条氏政と北条家宿老の切腹と北条氏の改易を求めます。北条氏直の命は求められませんでした。

そして、天正18年(1590年)7月11日に北条氏政(と北条氏照)が切腹し、北条氏直・北条氏規らが高野山蟄居となって、5代100年に亘って繁栄した北条氏は失われます。

もっとも、北条氏が絶えたわけでははなく、後に北条氏直は罪を許されて大名に復帰し、その一族の北条氏盛が河内国(現在の大阪府大阪狭山市)狭山藩主としてその命脈を保っています。

 

歴史のif

以上が、小田原合戦の顛末です。

歴史にifはありませんが、小田原合戦がなかったとしたら、歴史はどう変わっていたのかを考えると興味がつきません。

小田原合戦がなければ北条氏は滅亡しませんので、徳川家康が後に天下をとれたかどうかは微妙な線になってきます。また、仮に徳川家康が天下をとれたとしても、徳川家康が関東に移封されることはありませんので、首都は江戸ではなく東海地方に置かれていたかもしれませんね。

 

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