【武田信玄の西上野侵攻】信濃国の次のターゲットとなった上野国・箕輪城攻防戦

 

信濃国のほぼ全域を支配下に置いた武田信玄は、10年に亘る上杉謙信との戦いを繰り返したのですが、大きな成果を挙げられませんでした。

このとき、武田信玄は、同時に西上野への侵攻作戦を展開しており、北進を諦めた武田信玄はその代わりに西上野を獲得しています。

本稿では、上杉謙信との川中島の戦いの裏で繰り広げていた西上野侵攻戦について紹介していきたいと思います。

なお、本稿がどの段階の話であるかよくわからない場合には、別稿【武田信玄の領土拡大の軌跡】をご参照ください。

武田信玄の西上野への侵攻ルート確保

小田井原の合戦(1547年8月6日)

信濃国内で勢力を拡大する武田信玄は、天文15年(1546年)5月ころから信濃国・佐久郡に勢力を伸ばしていきます。

佐久郡の国衆が次々と武田家の軍門に下って行く中で佐久郡に唯一残る志賀城主・笠原清繁は、迫りくる武田軍に対抗するため信濃国小県郡の村上義清・上野国の上杉憲政と結び、これらの同盟により相互防衛ラインを構成します。

武田軍は、天文16年(1547年)閏7月24日、笠原清繁が守る志賀城を7000人の兵で包囲します。

このとき、笠原清繁が上杉憲政に援軍要請を出し、山内上杉家当主・上杉憲政が、志賀城救援の兵を出したのですが、武田信玄は、板垣信方・甘利虎泰・横田高松・多田三八らを別動隊として上杉憲政軍の迎撃に向かわせ、同年8月6日、これを殲滅します(小田井原の戦い)。

志賀城攻略(1547年8月11日)

小田井原の戦いに大勝した武田軍別動隊は、討ち取った敵兵の首3000人分を持ち帰り、志賀城戦線に復帰します。このとき、武田信玄は志賀城の士気を下げるため、板垣信方らが持ち帰った3000もの首を志賀城の目前に晒したと言われています。

並べられた首を見て上杉憲政軍が敗れたこと(後詰の可能性がなくなったこと)知った志賀城では瞬く間に士気が低下します。

志賀城の士気低下を見てとった武田信玄は、天文16年(1547年) 8月10日、志賀城への総攻めを開始し、同日、外曲輪、二の曲輪を焼き払います。

そして、翌8月11日、残る本曲輪(本丸)を攻めて、志賀城主・笠原清繁を討ち取り、志賀城は落城し、武田信玄による佐久盆地平定が果たされます。

 

そして、武田信玄は、信濃国・佐久郡を獲得したことにより隣接する西上野への侵攻ルートを獲得しました。

西上野の防衛構造

もっとも、西上野は、関東管領山内上杉氏の重臣である長野氏の居城・箕輪城を中心として、その支城のみならず、周囲の国衆達と姻戚関係を基にした強固な防御ネットワークを構築していました。

また、北信濃を残して西上野に侵攻すると退路をふさがれる可能性があるため、西上野への侵攻ルートを確保したものの、武田信玄としてもすぐに西上野に侵攻することまではできませんでした(この時点では信濃国攻略を先行させます。)。

武田信玄の西上野侵攻(長野業正死亡前)

瓶尻の戦い(1557年4月)

武田信玄による西上野侵攻は、弘治3年(1557年)年4月に同盟中関係にあった北条氏からの要請があったことに始まります。

北条氏康の援軍要請に応じて西上野に兵を派遣した武田軍に対し、長野業正は瓶尻(みかじり、群馬県安中市磯部)に軍を進めてこれてを迎え撃ちます(瓶尻の戦い・みかじりのたたかい)。

この戦いは、武田軍が勝利し、武田信玄は、退却する長野業正を追って箕輪城を攻撃したものの、武田軍の損害も大きく箕輪城を攻略に手間取ります。

そして、箕輪城攻撃中に上杉謙信が川中島に進軍してきたため、その対応のため箕輪城の囲いを解いて撤退しています(この後、撤退した武田軍と上杉軍との間で第三次川中島の戦いが起こります。)。

若田原の戦い(1559年)

1559年(永禄2年)、武田信玄軍は、再度西上野に進軍して片岡丘陵北端の鼻高砦へ陣取り、これに対して長野業正軍が若田原へ陣取ります。

このときは、長野業正が奇襲により武田信玄軍を翻弄し、攻めあぐねた武田軍は陣払いをしています。

桧平の合戦(1560年)

永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東に攻め込むと(小田原城の戦い )、上野国各地の国衆の中で上杉方に呼応する勢力が現れます。このとき、長野業正も上杉謙信方に加わって北条方に攻め込んでいます。

他方、北条方につく国衆もいたことから、上野国全体で敵味方に分かれて争いが起こります。

このとき、長野業正方の小幡景定が国峰城を乗っ取った上で(小幡憲重・小幡信実父子不在でした。)、砥沢城(群馬県南牧村)を攻略すべく出兵します。

これに対し、砥沢城を治める小幡信実(小幡憲重の子)が武田信玄に救援要請をしたため、武田信玄が飯富虎昌、小山田信義を救援に向かわせます。

これにより、再び武田軍の上野国進出がなされたのですが、常住寺(群馬県甘楽郡下仁田町)付近で戦闘があった後、糧道を絶たれた武田軍は撤兵しています。

このときも上野国侵攻に失敗した武田軍でしたが、西上野攻略のための拠点としてなる砥沢城主(群馬県南牧村)を取り込んだという成果はありました。

武田信玄の西上野侵攻(長野業正死亡後)

長野業正の死去(1561年11月22日)

前記のとおり、武田信玄は、何度も西上野に軍を進めたのですが、長野業正の巧みな戦術に翻弄され、なかなかこれを攻略できません。

この戦局が動いたのは、永禄4年(1561年)11月22日の長野業正の死でした。

西上野の中心人物であった長野業正の死により長野家の家督を三男・長野業盛が継いただのですが、長野業正程の求心力は望むべくもなく、西上野の箕輪衆に動揺が起こります。

この動揺を見逃す武田信玄ではありません。

国峰城攻略(1561年)

長野業正の死を知った武田信玄は、永禄4年(1561年)、西上野に侵攻し、まずは松井田城を攻めたのですが攻略できなかったため、小幡景定が守る国峰城に狙いを変え、国峰城を攻略します。

そして、この小幡信実を国峰城の城代に任命し、西上野(箕輪城)攻略の橋頭堡とします。

安中城攻略(1562年9月)

その後、武田信玄は、永禄5年(1562年)9月頃に甲府を出陣して信濃・上野国境の余地峠(佐久保町)から南牧(南牧村)へ入り安中重繁の守る安中城を攻略します。

また、そのまま南側にある高田城、小幡城、郷山城も攻略します。

岩櫃城攻略(1563年)

さらに、武田信玄は、永禄6年(1563年)、真田幸隆に命じて斎藤憲広が守る岩櫃城を陥落させ吾妻郡を攻略します(なお、この功により真田幸隆を吾妻郡代に任じ、岩櫃城を与えています。)。

松井田城攻略(1564年)

そして、永禄7年(1564年)、武田信玄は安中忠成の守る松井田城をも攻略します。

これで、箕輪城の西側の守りは崩壊します。

倉賀野城攻略(1565年6月)

そして、永禄8年(1565年)6月、武田信玄が倉賀野城を攻略したことにより、箕輪城と厩橋城を中心とする東側の支城群を分断することに成功して箕輪城が孤立します。

こうして箕輪城攻略の機が熟します。

西上野平定

箕輪城落城(1566年9月)

永禄9年(1566年)、武田信玄は、西上野攻略の総仕上げとして2万人の兵を率いて西上野に侵攻し、同年9月、鷹留城を攻略した後、長野業盛率いる1500人で守る箕輪城に総攻撃を仕掛けます。

後がない長野業盛も必死に抵抗し、一旦は内藤昌豊を安中城に退却させるほどの活躍を見せましたが、多勢に無勢のため次第に箕輪城の守りは崩されていき、その落城は決定的となります。

敗北を悟った長野業盛は、箕輪城・本丸御前曲輪にあった持仏堂に籠って切腹し、箕輪城の戦いは武田軍の勝利に終わります。

残る西上野支城群の平定

その後、武田信玄は、永禄3年(1567年)3月に真田幸隆・真田信綱によって白井城を落城させるなどして残る支城群を攻略し西上野全域を平定します。

箕輪城を得た武田信玄は、甘利昌忠・真田幸隆・浅利信種らを経て、元亀元年(1570年)ころから内藤昌豊に城代を任せ、箕輪城を武田家における西上野統治の拠点であると共に対北条との最前線として使用しています。

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