【長島一向一揆】願証寺の蜂起と泥沼の消耗戦となった殲滅戦

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)は、元亀元年(1570年)8月に石山本願寺第11世顕如が三好三人衆と同調して蜂起したことをきっかけとし、これに長島願証寺も呼応して当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島の一向宗門徒が一斉に蜂起し、さらにこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻したことにより発生した一連の戦いです。

織田軍による三度の鎮圧戦が繰り広げられ、最終的に長島の一揆勢が殲滅されるまでに約4年の歳月を要し、その間に織田方にも織田一門衆を含む多くの犠牲者を出しています。

本稿では、泥沼の消耗戦となった長島一向一揆の蜂起とその殲滅戦について、発生に至る経緯から順に見ていきたいと思います。

長島一向衆蜂起

長島願証寺の概略

長島(現在の三重県桑名市)はもともと「七島(ななしま)」と呼ばれる尾張国と伊勢国の国境にある木曽川・揖斐川・長良川の河口付近の輪中地帯です(複数の川が川下で幾重にも重なりあって合流するという複雑な地形を造り上げていました。)。

律令制度上は伊勢国桑名郡に含まれたのですが、幾筋にも枝分かれした木曽川によって伊勢側からも尾張側からも隔絶されていたため、尾張国河内郡とも認識されていました(信長公記でも尾州河内長島と記載されています。)。

願証寺(長嶋山願證寺)は、この長島の地に、明応10年(1492年)ころまでに、本願寺8世蓮如の6男である蓮淳によって創建されたといわれる浄土真宗本願寺派の寺院です。

その後、蓮淳の次男である実恵が常住していた願証寺は、数十の寺院・道場を設け、それによって天文3年(1534年)までに伊勢国、それ以降は美濃国・尾張国を加えた東海三ヶ国の本願寺門末を支配するようになりました。

また、願証寺は、農民漁民10万人の信徒のみならず、周囲の国人領主層を取り込んで支配地域を拡大し、さらには長島の周りに防衛のため中江砦・大鳥居砦などして武装化して自治勢力化していきました。

永禄10年(1567年)8月、織田信長によって美濃国を追われた斎藤龍興が願証寺に逃げ込むなどしたのですが、少なくとも表面上は織田家と願証寺とが敵対していたわけではありませんでした。

願証寺蜂起(1570年8月)

そんな中、願証寺と織田家が対立するに至る事件が起こります。

浅井長政・朝倉義景との戦い(金ヶ崎の戦い姉川の戦いなど)のために織田信長が畿内から兵を引き上げたことを好機と見た三好三人衆が、元亀元年(1570年)6月19日、摂津池田城主・池田勝政の重臣であった荒木村重をけしかけて池田城を奪取させ、同年7月21日、さらに三好三人衆が摂津に再上陸して野田と福島に砦を築いて反織田の兵を挙げます。

そして、同年8月、これに石山本願寺第11世顕如が三好三人衆と同調して蜂起し、各地の門末に檄を飛ばし、同年9月13日には多数の門徒が野田城・福島城を包囲する織田軍を攻撃し始めます(10年間に及ぶ石山合戦の始まりです。)。

また、石山本願寺に長島願証寺も呼応し、当時の願証寺住持証意や本願寺の坊官下間頼成の檄文によって長島の一向宗門徒が一斉に蜂起し、さらにこれに呼応して「北勢四十八家」と呼ばれた北伊勢の小豪族も一部が織田家に反旗を翻したため長島一帯が大混乱に陥ります。

一揆勢が長島城占拠

こうして長島において蜂起した数万人にも及ぶ一揆衆は、大坂より派遣された坊官の下間頼旦らに率いられ、伊藤重晴が城主を務める長島城を攻め落としてこれを占拠します。

この結果、以降はこの長島城が一揆方の拠点となります。

一揆勢が古木江・桑名攻略(1570年11月)

勢いに乗る長島の一揆勢は、元亀元年(1570年)11月、続けて織田信長の弟である織田信興が守る尾張国の最前線に位置する古木江城(小木江城)や滝川一益が守る桑名城に攻め込みます。

この一揆勢の動きに対し、織田信長は、朝倉義景・浅井長政が籠る比叡山延暦寺から離れることができなかったため(志賀の陣)、古木江城や桑名城に後詰を出すことができませんでした。

その結果、古木江城と桑名城はいずれも陥落し、古木江城主であった織田信興を自害に追い込まれ、桑名城主であった滝川一益は城を捨てて敗走するに至りました。

織田軍が琵琶湖東側確保(1571年1月)

元亀元年(1570年)12月、朝倉・浅井と和睦して兵を引いた織田信長は、京と岐阜の導線を回復させることと、分散する信長包囲網を各個弱体化させることに力を費やしていく必要性に迫られます。

このとき、織田信長が最初に着手したのが、本拠地岐阜と畿内との導線の障害となる北近江の浅井長政と比叡山延暦寺に対する対策でした。

まず、織田軍にとっては岐阜と畿内の導線回復・信長包囲網側にとっては浅井・朝倉と三好三人衆との連絡網遮断のため、織田信長は、元亀2年(1571年)1月2日、横山城に入れていた木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路・陸路を封鎖させ、越前・北近江と畿内との連絡路を遮断します(尋憲記)。

その上で、織田信長は、同年2月、小谷城と遮断されて孤立していた佐和山城主であった磯野員昌が降伏させて立ち退かせ、代わりに同城に丹羽長秀を入れて織田方の岐阜城から湖岸平野への通行路を確保します。

第一次長島侵攻(1571年5月)

第一次長島侵攻戦(1571年5月12日〜)

琵琶湖東岸の安全を確保した織田信長は、次に長島一向一揆制圧を決めます。

織田信長は、元亀2年(1571年)5月12日、5万人もの兵を率いて岐阜城を出立した後、軍を以下の3隊に分けて長島城を目指して進軍していきます。

①【長島の東側】織田信長本隊が津島に着陣し指揮をとる。

②【長島の北側】佐久間信盛隊(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)が中筋口から侵攻。

③【長島の西側】柴田勝家隊(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)が西河岸の太田口から侵攻。

以上の編成で道中の村々に火を放ちながら進む織田軍でしたが、桑名方面から海路を使って雑賀衆らの人員や兵糧・鉄砲などの潤沢な補給が得られ、かつ坊官の指揮の下で長島城とその支城として機能していた砦群を巧みに利用したゲリラ戦を展開する一揆勢に苦しめられます。

損害が膨らんでいくことを苦慮した織田信長は、同年5月16日、撤退の決断を下します。

撤退戦

ところが、既に山中に潜んでいた一揆勢をかいくぐることは容易でなく、一揆勢は山中に移動し、撤退の途中の道が狭い箇所に弓兵・鉄砲兵を配備して待ち受けて散々に織田軍を苦しめます。

織田信長本隊と中筋口の佐久間信盛隊は上手く兵を退くことが出来たのですが、殿をつとめた太田口の柴田勝家が負傷して旗指物を奪われて戦線を離脱します。

そこで、柴田勝家に代わって氏家卜全が殿をつとめることとなったのですが、押し寄せて来る一揆勢を押し返すことができず石津郡安江村で泥沼に馬を乗りいれて身動きが取れなくなったところを討ち取られています。

以上の結果、第一次長島侵攻は織田軍の大惨敗に終わります。

長島侵攻作戦中断

第一次長島侵攻作戦の失敗により一向宗手強しと見た織田信長は、長島攻略を後に回すこととし、もう1つの宗教勢力である比叡山延暦寺への対応を先行させます。

そして、織田信長は、元亀2年(1571年)9月12日、比叡山延暦寺とその山麓を焼き尽くして延暦寺を無力化して(比叡山焼き討ち)、琵琶湖西側の安全を確保し、その結果、京と岐阜の導線を確保します。

第二次長島侵攻(1573年9月〜10月)

長島侵攻を決断(1573年9月)

その後、織田信長は、天正元年(1573年)8月に越前朝倉家を、同年9月に北近江浅井家(小谷城の戦い)を滅ぼすと、満を持して再度の長島攻めを決断します。

第一次長島侵攻の際には一揆勢の伊勢湾を利用した兵站による潤沢な物量に苦戦した織田信長は、まずは一向宗門徒の兵站を封じるべく伊勢湾の制海権確保のために船の調達にかかります。なお、このときの船の調達は、制海権の確保のためだけでなく、木曽川と長良川に囲まれた三角州に位置する水城であった長島城に取り付くために必要となっていました。

そこで、織田信長は、次男である北畠具豊(後の織田信雄)に命じて伊勢国大湊において船の調達を命じていたのですが、大湊の会合衆との交渉が難航します。

困った織田信長は、自ら北畠具教・北畠具房父子に働きかけて会合衆に協力を求めさせたのですが、これも不調に終わります。

織田信長は、やむなく大湊における船の調達は追って完了するのを待つこととし、先行して陸路での長島城の支城攻略を始めるために長島に侵攻するという決断を下します。

第ニ次長島侵攻戦(1573年9月24日〜)

天正元年(1573年)9月24日、織田信長率いる数万人の軍勢が北伊勢に向かって進軍し、同年9月25日に太田城に着陣します。

その後、各将がそれぞれ兵を率いて長島城の支城群に攻撃を開始します。

そして、同年9月26日、佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らにより西別所城が、同年10月6日、柴田勝家・滝川一益らにより坂井城(その後、近藤城も)が陥落します。

これらの報告を受けた織田信長は、同年10月8日に本陣を東別所に移します。

ここで、萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで人質を差し出して織田信長に降服します(なお、白山城の中島将監は降伏の意を示さなかったため、佐久間信盛・蜂屋頼隆・丹羽長秀・羽柴秀吉らによる金掘り攻めにより攻略されています。)。

こうして織田軍は、概ね長島城の西側支城群の攻略を果たして北伊勢を平定したのですが、この時点においてなお、大湊における船の調達が難航していたため、水城である長島城に取り付くことはできず、結局、第ニ次長島侵攻戦での長島城攻撃は見送られます。

そこで、織田信長は、同年10月25日、矢田城に滝川一益を入れて長島城の西側の守りを担わせ、軍を美濃国へ撤退させることとします。

一揆勢による追撃(1573年10月25日)

ところが、退却する織田軍に対し、一揆勢や伊賀甲賀兵が多芸山で待ち伏せして弓・鉄砲で攻撃を仕掛けてきます。

この戦いは乱戦となったため、織田信長は、林通政を殿として残し退却することとなったのですが、ゲリラ作戦にはまった林通政が一揆勢に討ち取られてしまいます。

その後、退却する織田軍は、一揆勢からのさらなる追撃を受けたのですが、毛屋猪介らがとどまって奮戦したため、織田信長は、天正元年10月25日夜に大垣城に、翌同年10月26日には岐阜城へ帰り着いています。

大湊の取り締まり

岐阜に帰り着いた織田信長が、第二次長島侵攻の失敗要因(北伊勢平定と言う意味では成功、長島城攻略断念という意味では失敗)を調査したところ、大湊の会合衆が長島の将であった日根野弘就の要請に応じて足弱衆(女や子供)の運搬のため船を出し、また織田軍への船の提供を妨げていた事実が判明します。

激怒した織田信長は、日根野弘就に与したとして山田三方の福島親子らを処刑して、伊勢の船頭達に長島一揆勢に与した場合には処刑する旨を知らしめます。

この結果、恐怖によって伊勢の船主達の協力を取り付けることに成功した織田信長は、長島への人員・物資補充の牽制を行っていきます。

第三次長島侵攻(1574年7月〜9月)

長島侵攻を決断(1574年6月23日)

その後、織田家に下っていた九鬼義隆が織田信長の援助により志摩国を平定して九鬼水軍を編成したため、織田軍は伊勢湾の制海権を得ただけでなく、海路からの長島城侵攻が可能となります。

そこで、織田信長は、天正2年(1574年)6月23日、三度目の長島攻めのため大動員令を発します。

第三次長島侵攻戦開始(1574年7月)

織田信長は、織田領全域から合計8万人とも12万人とも言われる兵を動員し、以下の編成で全方面から長島城を目指して進軍していきます。

①【長島の東側】総大将を務める織田信忠隊(織田信包・織田秀成・織田長利・織田信成・織田信次・斎藤利治・簗田広正・森長可・坂井越中守・池田恒興・長谷川与次・山田勝盛・梶原景久・和田定利・中嶋豊後守・関成政・佐藤秀方・市橋伝左衛門・塚本小大膳)が市江口から侵攻。

②【長島の北側】織田信長隊(羽柴秀長・浅井政貞・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・飯沼長継・不破光治・不破勝光・丸毛長照・丸毛兼利・佐々成政・市橋長利・前田利家・中条家忠・河尻秀隆・織田信広・飯尾尚清)が早尾口から侵攻。

③【長島の西側】柴田勝家隊(佐久間信盛・稲葉良通・稲葉貞通・蜂屋頼隆)が賀鳥口から侵攻。

④【長島の南側】九鬼嘉隆隊(滝川一益・伊藤実信・水野守隆・島田秀満・林秀貞、織田信雄・佐治信方)が水路で侵攻。

(1)陸上隊侵攻(1574年7月14日)

対する長島一揆勢は、長島城・その支城群・その他の場所に兵を伏して織田軍を待ち構えます。

天正2年(1574年)7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、西側の賀鳥口から侵攻した柴田勝家隊が川を押し渡って松之木の渡しを守る一揆勢を一蹴します。

また、同日、北側から侵攻した織田信長隊が、小木江村を守る一揆勢を破り、そのまま羽柴秀長・浅井政貞に篠橋砦を攻撃させ、また丹羽長秀にはこだみ崎河口に船を集めて堤上で織田軍を迎え討とうとした一揆勢を撃破します。

その後、織田信長隊は、前ヶ須・海老江島・加路戸・鯏浦島の一揆拠点を焼き払って五妙(現在の愛知県弥富市五明)に布陣して夜を明かします。

(2)海上隊侵攻(1574年7月15日)

また、天正2年(1574年)7月15日には、九鬼嘉隆率いる安宅船を先頭とした大船団(織田領である蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・常滑・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿野津・楠・細頸などからかき集められました。)が長島沖に到着します。また、伊勢国司である織田信雄もまた、垂水・鳥屋野尾・大東・木造・田丸・坂内の兵を乗せた大船を出しています。

これらの大船団が、南側から順に長島城の周囲に点在する一揆勢の拠点を殲滅していくと共に、そのまま長島城を包囲していきます。

(3)長島城包囲戦

以上の結果、長島城支城群は次々と陥落していき、一揆勢は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城を残すのみとなりました。

そして、これら5城を織田軍が取り囲み、織田信長・織田信忠が殿名に陣を移して戦局を見極めます。

その後、織田信雄織田信孝らが指揮する船団から散々砲撃を加えられた大鳥居城では戦意が失われ、天正2年(1574年)8月2日、織田信長に対して降伏を申し出ます。

ところが、織田信長は、この降伏申し出を拒否します。

後がなくなった大鳥居城に籠る一揆勢は、同日夜半に紛れて城を抜け出そうとしたのですが城を出たところで織田軍からの攻撃を受け、一揆勢男女1000人ほどが討ち取られ、そのまま大鳥居城が陥落します。

この大鳥居城陥落劇を見た篠橋城の一揆勢は、長島城に入って織田信長に通じることを条件として織田信長に対して降伏を申し出ます。

織田信長としては、篠橋城の一揆勢の降伏を認めるつもりはなかったのですが(一揆勢の申し出が虚偽であることもわかっていました。)、長島城を包囲している織田方からすると、攻略を要する城が減る上、長島城の兵糧を早く減らせることは好都合であると考え、篠橋城の一揆勢の要求を受け入いれて一揆勢を長島城へ追い入れます。

この結果、篠橋城も陥落し、残すは長島・屋長島・中江の3城となります。

その後も織田軍による3城の包囲は続き、ついに兵糧が尽きた長島城では餓死者が続出して戦線を維持できなくなります。

そこで、天正2年(1574年)9月29日、長島城から織田信長に対して全面降伏の申し入れがなされます。

織田信長は、この降伏申し入れを応諾するふりをし、長島一揆勢が長島城から出てくるのを待ち受けます。

そして、長島城から一揆勢が船で出てきたところで囲んでいた織田軍から一斉に鉄砲を撃ちかけ、顕忍や下間頼旦を含む多くの一揆勢を射殺します。

もっとも、このだまし討ちに怒った一揆勢800余人は、どうせ助からない命であると考え、織田一門衆の部隊に向かって捨て身で反撃を仕掛けたことから、織田方にも織田信広・織田秀成などを含めた700~800人(信長公記)とも1000人(日本史・ルイスフロイス)とも言われる損害が出ます。

これにより、痛み分けのような結果となったのですが、いずれにせよ、城門が開いたことにより織田軍が城内に侵入したため長島城も陥落しています。

その後、織田信長は、残る屋長島城・中江城については、その周囲に幾重にも張り巡らせた柵を築いて取り囲んで城内から一揆勢が逃げ出せないようにした上で、これらの2城に火をかけ、両城に籠っていた2万人とも言われる一揆勢を焼き殺し、長島一向一揆の殲滅を果たします。

長島一向一揆の後

こうして長島一向一揆を鎮圧した織田信長は、天正2年(1574年)9月29日のうちに本拠地である岐阜城に帰還し、長島城は北伊勢8郡のうちの5郡と共に滝川一益に与えられました。

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