【三方ヶ原の戦い】若き徳川家康が武田信玄に大惨敗した合戦

三方ヶ原の戦いは、徳川家康と武田信玄が密約により共同で今川領へ侵攻し、徳川家康が遠江国を、武田信玄が駿河国を切り取った後に勃発した徳川家康と武田信玄との直接対決です。

圧倒的な戦力差・若き徳川家康と老獪な武田信玄との経験値差などにより、戦術的に見ると戦い自体は武田軍の圧倒的勝利に終わります。

徳川家康にとっては、多くの兵のみならず、腹心をも多数失い、自らも死を強く意識したほどの大敗だったのです。

もっとも、戦略的に見ると、大敗したとはいえ所領の主要部分を死守し、武田軍をやり過ごした徳川家康は、必ずしも負け戦であったとは言い切れない結果ともなっています。

本稿では、徳川家康の戦術的大惨敗により人生最大の危機に陥ったともいえる三方ヶ原の戦いについて、その発生の契機から順に説明します。

三方ヶ原の戦いに至る経緯

武田信玄が遠江国・三河国を狙う

甲斐国に始まり、信濃国全域・西上野・駿河国を獲得し飛騨国・東美濃にまで影響力を及ぼすに至った武田信玄は、次の攻略目的として徳川家康が治める三河国・遠江国に定めます。

武田信玄にとっては、今川領侵攻作戦(駿河国攻略戦)の際に散々に煮え湯を飲まされた徳川家康に対する恨みを晴らす戦いでもあります。

徳川領・織田領への侵攻を目論む武田信玄は、甲相駿三国同盟の破綻後長らく対立してきた北条家当主北条氏康が元亀2 年(1571年)10月3日に死去したのをきっかけとして、これをきっかけとする家督相続後の混乱を鎮めようとする北条氏政と和睦します(甲相同盟の復活)。

北条家との同盟締結により東側の脅威を排除した武田信玄は、いよいよ織田信長・徳川家康と対決すべく、自ら軍を率いて、遠江国・三河国方面に向かって出陣させます。いわゆる西上作戦の開始です。なお、このときの武田信玄の狙いが、上洛であったのか、織田信長の居城・岐阜城であったのか、はたまた徳川家康の首であったのかは必ずしも明らかではありません。

そして、この武田信玄の動きに室町幕府15代将軍・足利義昭が便乗します。

足利義昭は、元亀2年(1571年)ころから全国の大名に対して織田信長討伐令を出していたのですが、武田信玄動くの報を聞くやいなや周辺の大名に御内書を送って蜂起を促して織田信長包囲網(第二次信長包囲網)を形成していきます。

武田信玄の西上作戦開始

武田信玄は、織田領・徳川領に対し、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート(①)、伊那盆地から西に進んだ後に南進して奥三河・東三河に入るルート(②)、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルート(③)の3つのルートからの同時に侵攻作戦を行います。

具体的な侵攻は以下のとおりです。

①秋山虎繁隊(東美濃侵攻軍)

甲斐国・躑躅ヶ崎館を出陣した武田軍は、途中諏訪郡・上原城を経由した後、信濃国・高遠城を越えたところで、まず秋山虎繁・山県昌景に8000人の兵を預けて南西方向へ向かわせます。

その後、この軍が2手に分かれ、秋山虎繁率いる3000人が東美濃(東濃)侵攻し、日本三大山城の1つでもあり、女城主「おつやの方(岩村御前)」で有名な岩村城を包囲、元亀3年(1572年)11月初旬にこれを攻略します。これが東美濃(東濃)侵攻軍です。

岩村城攻略後、秋山虎繁は織田方による武田領攻撃を阻止するための防波堤として同城に留まります。

②山県昌景隊(奥三河侵攻軍)

岩村城獲得により織田軍によって本領を脅かされることがなくなった武田軍は,そのまま徳川領への本格的な侵攻を開始します。

秋山虎繁隊を分離した山県昌景隊5000人が、そのまま南下して奥三河へ侵攻して武節城を攻略し、さらにそのまま奥三河の豪族を取り込みつつ南進を続け、東三河の重要拠点であった長篠城・遠江国の伊平城を続けて攻略します。

山県昌景は、以上のとおりの諸城攻略により、浜松城にいる徳川家康の東三河方面への退路を断った上で、遠江国二俣城に向かいます。

③武田信玄本隊(遠江侵攻軍)

残るは武田本隊による退路を断った上での本格的な浜松城攻略戦です。

武田信玄率いる本隊2万2000人は、信濃国・高遠城から、真っ直ぐ南下して遠江国に侵攻します(なお、今日では、武田軍本隊は駿河国から西進して遠江国に入ったとする説も有力です。)。

武田信玄の本隊の侵攻が始まると、犬居城主・天野景貫が武田信玄に内応して同城を明け渡して武田侵攻軍の先導役を務めたため、武田信玄は、馬場信春に別働隊5000人を預けて只来城を攻撃させ、元亀3年(1572年)10月13日にこれを攻略させた後、諏訪勝頼と共に二俣城に向かわせます。

只来城陥落を見届けた武田信玄は、本隊を南東側に回り込ませ、二俣城に向かいます。

以上の結果、西側から山県昌景隊5000人、北側から馬場信春・諏訪勝頼隊5000人、南東側から武田信玄本隊1万7000人が三方向から二俣城に向かって進軍していくこととなりました。

三方ヶ原の戦い前哨戦

二俣城の重要性

前記航空写真を見ていただければわかりますが、二俣城は、遠江国と信濃国伊那郡とを結ぶルートの出入口にもあたり、浜松城とそのその支城である掛川城や高天神城にも繋がる交通の要所(扇の要)に位置する遠江支配の要の城でした。

また、徳川家康の居城である浜松城の北側約20kmに位置する浜松城攻撃の橋頭堡となる城であったため、徳川家康からすると絶対に失うわけにはいかない城でした。

このような重要拠点である二俣城に、武田軍が三方から合計2万7000人もの大軍で向かってきていることを聞かされたかされた徳川家康は対応に追われます。

ところが、頼りにしていた織田信長が畿内各勢力との戦いの最中であったため織田軍からの多数の援軍は期待出来ない状況であった上、居城・浜松城に加え、残りの支城群の防衛にも兵を割かねばならなかった徳川家康にとっては二俣城の後詰として動員できる最大兵力は、せいぜい8000人程度でした。

この結果、寡兵の徳川軍は、厳しい戦いを強いられます。

一言坂の戦い(1572年10月14日)

この状況下で最初に二俣城に取り付いた馬場信春・諏訪勝頼隊は、北側に諏訪勝頼・南側に索敵も兼ねて回り込ませた本隊先遣隊の馬場信春を展開させ、城を囲みつつ西側から遅れてくる山県昌景隊と、東側の支城を順次攻略しながらやってくる武田本隊を待つ作戦をとります。

そして、武田信玄本隊は、二俣城の東側にある天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で攻略していきます。

二俣城包囲網が完成しつつあったことに焦った徳川家康は、元亀3年(1572年)10月14日、武田軍本隊の正確な動向を探るため、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、徳川家康自身も3000人の軍勢を率いて出陣するという行為にでます。

ところが、このとき、先行していた徳川偵察隊が武田偵察隊であった馬場信春隊に遭遇します。

徳川偵察隊はすぐに退却を試みるも、馬場信春隊は素早い動きで徳川軍を追撃したため、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まります。

寡兵での遭遇戦という望まぬ形で開戦した徳川軍は、すぐさま劣勢となり、本多忠勝と大久保忠佐を殿として残し、徳川家康が命からがら退却を果たすという形で戦いが終わります(一言坂の戦い)。

二俣城の戦い

元亀3年(1572年)10月16日、東側の支城を撃破しながら回り込んできた武田信玄本隊が二俣城に到着し、武田信玄が、絶体絶命となった二俣城に降伏勧告をしますが拒否されます。

その結果、同年10月18日、武田軍による二俣城総攻撃が始まり、同年11月初旬には遅れて到着した山県昌景隊もこれに加わります。

もっとも、二俣城の守りが堅くなかなか落城しませんでした。

そこで、武田信玄は力攻めから水の手を断つ作戦に切り替え、攻撃開始から2ヶ月後の同年12月19日にようやく二俣城が陥落します(二俣城の戦い)。

なお、一言坂の戦いで大敗北を喫して余力を失った徳川家康は、二俣城からの再三の後詰要請を無視し求心力を失っています。

三方ヶ原の戦い

武田軍が遠州平野を西進

二俣城陥落により、武田軍が、丸裸となった浜松城を直接狙える状況となりました。

徳川家康としても大ピンチの状況となり、織田信長や掛川城からの後詰を期待しながらの厳しい籠城戦を覚悟させられます。

ところが、徳川家康の予想に反し、二俣城が落ちた3日後の元亀3年(1572年)12月22日、二俣城を出発した武田軍は、浜松城を無視して遠州平野を西進し、東三河に向かって進軍していきました。

この報告を聞いた徳川家康は、自分が武田信玄に相手にされていないと感じ、プライドを傷つけられて激怒します。

徳川家康出陣(1572年12月22日)

怒りが抑えきれなくなった徳川家康は、一部家臣の反対を押し切ってまで籠城策を取りやめ、三方ヶ原から祝田の坂を下るであろう武田軍を背後から襲う奇襲策に変更し、元亀3年(1572年)12月22日、織田方からの援軍(佐久間信盛・平手汎秀・林秀貞・水野信元ら7人の将が率いる3000人)を含む計1万1000人を率いて浜松城から出撃します。

このときの徳川家康の無謀な出陣については、プライドを傷つけられて怒っていたこともあったかもしれませんが、二俣城防衛戦で後詰めを送らなかったことにより失墜した求心力を取り戻しこれ以上武田信玄の調略による離反者が出るのを防ぐためであったという説も有力です。

また、織田信長への義理立てであったという説もあり、いずれの要素も含んでいたというのが真実なのかもしれませんが、今となっては真実はわかりません。

徳川家康による追撃戦のはすが

浜松城を出た徳川・織田連合軍は、西に向かって進軍する武田軍を背後から突いてこれを包囲殲滅するべく、鶴翼の陣を敷きながら、同日3時頃夕刻に三方ヶ原台地に進軍しますが、そこで思っても見ない光景を目にします。

西に向かって行軍し、山道である祝田の坂を降りている途中であると思っていた武田軍が、その手前で反転し、三方ヶ原台地にて魚鱗の陣を敷いて徳川軍を待ち構えていたのです。なお、武田信玄が魚鱗の陣を敷いていたのは、徳川家康のいる本体(中央)への攻撃を厚くし、徳川家康の首を取るためでした。

武田軍が準備万全の態勢で待ち構えていたことを知った徳川家康は驚愕します。

まんまと武田信玄の罠にはまり圧倒的に不利な状態となった徳川・織田連合軍ですが、ここで最初に武田軍を発見し焦った徳川方左翼の大久保忠世らが、徳川家康の命令を待たずに勝手に戦を始めてしまいます(投石隊の小競り合いから本格的な戦いに発展したとも)。

この結果、徳川軍は、正確な状況把握や対応の検討を行う前に、武田方から猛反撃を受けることとなります。奇襲をかけるつもりが、逆に奇襲を受けてしまったのです。

魚鱗の陣で攻める武田軍の中央の攻撃は分厚く、元々寡兵であるにも関わらずさらに鶴翼の陣で兵を左右に散らしてしまっている徳川軍では支えきれません。

また、ここで勝ち目がないと判断した織田方の援軍・佐久間信盛が、ほとんど戦うことなく浜名湖南方の今切まで兵を引いてしまいます。

当初は善戦していた徳川軍でしたか、こうなるともはや戦線を維持できず、高地に陣取っていた武田軍による上から勢いに乗って駆け下りてくる総攻撃をまともに受けて間もなく徳川軍は壊滅状態となります。

徳川織田連合軍の壊走

窮地に陥った徳川家康は、必死に戦線を維持しようと前線で士気を鼓舞していたのですが、このとき留守居役として浜松城に残っていた夏目広次(夏目吉信)が櫓上から徳川軍が壊滅状態にあることを目にします。

徳川家康の命の危険を目にした夏目広次は、部下を引き連れて大急ぎで戦場に赴き、徳川家康に対して退却を進言したのですが聞き入られませんでした。

そこで、夏目吉信は、徳川家康の乗馬の向きを強引に南向きに変えてその尻を刀のむねで打って浜松城方面に走らせた後、これを逃すために自らが徳川家康であると名乗りを上げて25~26騎を率いて武田軍に突撃し、徳川家康の身代わりとなって戦死したと言われています。

また、その後、徳川家康が逃げる時間稼ぎのために、鈴木久三郎が徳川家康の采配を持って敵を引きつけて討ち死したり、本多忠真(本多忠勝の叔父)が殿を買って出て、道の左右に旗指物を指して待ち構えて向かってくる武田軍と戦って討ち死にしたりしています。

これら重臣の犠牲により、命からがら浜松城まで逃げ帰ることができたのですが、終わってみれば、徳川軍の死傷者2000人、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱、中根正照、青木貞治、夏目広次、鈴木久三郎などといった有力家臣を失い、また友軍であった織田信長の家臣・平手汎秀も討ち取られるという大惨敗に終わります。

なお、敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞したとの逸話が残っていますが、その真偽は明らかではありません(有名な話ですが、出典である三河後風土記では一言坂の戦いの際の逸話とされ、またそもそもこの三河後風土記が作者不明の信憑性に疑問のあるものです。)。

いずれにせよ、徳川家康は、失った求心力を取り戻すためにあえて挑んだ戦いで、さらにその威信を失墜させてしまったのです。

そのせいもあって、徳川家康より先に浜松城に戻った小栗忠蔵が徳川家康が討死しと触れ回ったり、勝手に戦いを始めて全軍を危機に晒したはずの大久保忠世が詫びるどころか帰城した徳川家康に対して「殿が糞を垂れて戻ってきたぞ」と大声で嘲ったりするなど、陣中の将兵のコントロールが困難な状況にまで混乱していたと言われています。

なお、真偽は不明ですが、逃げ戻ってくる兵を鼓舞するため、浜松城に戻った酒井忠次が、太鼓を高々と打ち鳴らしたとする逸話が残されています(酒井の太鼓)。

また、これも真偽は怪しいものですが、浜松城へ到着した徳川家康は、もはや籠城をしても武田軍に勝ち目はないと判断し、一か八かの賭けに出て、城門を開いたままにして、城門の外へとてつもない大きなかがり火を焚かせ、武田軍に何か策があるのだとの疑念を抱かせて城攻めを躊躇させたとも言われています(空城計)。

榊原康政の西島布陣

三方ヶ原で織田徳川連合軍を蹴散らした武田軍は、徳川家康の首を取るために敗走する徳川家康を追撃し、浜松城に向かって進んでいきます。

これに対し、敗れた徳川兵が次々と浜松城に入って行ったのですが、全ての敗残兵を入れてれても浜松城は守れないと判断した榊原康政は、自らは浜松城に入ることなく500人の兵を率いて浜松城の東南側にあった西島に陣を敷き、武田軍を牽制します(改正三河後風土記)。

これは,武田軍が浜松城に攻撃した場合、遊軍としてその背後をつくための布陣でした。

城外に遊軍の布陣があるため、武田軍としても決戦後の疲れた状態で挟撃の危険をおしてまで軽々に浜松城に攻め込むことはできません。決戦に勝利した武田軍が急ぐ必要もありません。

そこで、武田軍としては、浜松城総攻撃の準備のために兵馬を休ませることとし、浜松城の北西側に陣を張って朝を待つことにします。(なお、このときの武田軍布陣地と浜松城との間には、深さ約40m・幅50m・東西約2kmもの巨大な崖がありました。)

犀ヶ崖の戦い(1572年12月23日)

浜松城のすぐ近くに武田の大軍が布陣されたことにより後がなくなった徳川軍は、武田軍と浜松城の間にある崖下に武田軍を追い落としてしまおうと考え、夜陰にまぎれてこの崖の両岸に白い布を張って橋が架かっているように見せかけ、反対側から鉄砲を打ち込むと共に西島から回り込んで来た榊原康政隊が武田の陣に奇襲を仕掛けますます(犀ヶ崖の夜襲)。

三方ヶ原合戦に大勝しして勝利の美酒を堪能していた武田軍は,寡兵とはいえ予期しない突然の奇襲を受けて混乱します。

敵地である上、深夜であったために道がわからなくなっていた武田軍将兵は、奇襲がある方向の反対方向に逃げようとしたところで徳川軍が橋に見立てて張っていた布を目撃します。

武田軍の将兵は、真っ暗な夜間に崖上に張られた物体(布)を目撃してこれを橋と勘違いし、次々と張られた布の上に乗ろうとしては崖下へ転落していきます。

武田軍がなんとか冷静を取り戻し朝を迎えた頃には、崖下には武田兵の死体でいっぱいとなっていたそうです(なお、余談ですが、この犀ヶ崖の戦いは、同時代の史料には記録がなく後世に江戸幕府によって編纂された史料が初出であるため、その発生の有無・内容については疑問もあります。)。

掛川城からの援軍

そうこうしている間に、徳川家康大敗の報を聞いた掛川城主・石川家成が2000人の兵を率いてきて西島に布陣した榊原康政隊に合流します。

こうなると、武田軍が浜松城を攻めるためには、守りを固めた浜松城とは別に背後を突いてくるであろう2500人もの大部隊の遊軍を相手にしなければならないこととなりますが、先に西島を攻めるとするとそれはそれで浜松城から打って出てくる城兵とで挟撃される危険もでできます。

そのため、挟撃を恐れた武田軍は安易に浜松城や西島を攻撃出来なくなり、ここで戦線が膠着します。

武田軍が浜松城攻略を断念

この結果、兵站や武田信玄の体調に不安のある武田軍は、浜松城攻略をあきらめ、これを捨て置いて一旦刑部城に入って越年した後、野田城へ向かって西進していきます。

この結果、三方ヶ原の戦いで大敗したにもかかわらず、浜松城はなんとか陥落することなく持ちこたえることができたのです。

徳川家康の三方ヶ原合戦敗北の教訓

以上が、三方ヶ原の戦いの顛末です。

三方ヶ原の戦いの大惨敗は、徳川家康に人生最大の恐怖と大きなトラウマを植え付け、徳川家康は、この後しばらく夢でうなされ、しばしばこの戦で死ぬ夢を見たといわれています。

他方で、徳川家康は、敗戦の対価として大きなものも得ています。

若気の至りとは言え、武田信玄に釣り出されて大惨敗を喫したことにより、徳川家康は、己の過信・至らなさを猛省し、その後の、統治・戦略の再構築が行われます(天下分け目の関ヶ原の戦いでは、武田信玄が三方ヶ原の戦いでとった戦法をほぼそのまま利用している程です。)。

また、家臣団の統制には、相当の配慮をするようにもなりました。

この反省は相当なものであったようで、実際には事実とは異なるのですが、徳川家康が、三方ヶ原の戦いでの敗戦について慢心の自戒するために徳川家康三方ヶ原戦役画像(俗にいう、顰像・しかみぞう)を描かせ、反省を忘れないためにこれを生涯離さなかったとの逸話まで生まれたほどです。

また、徳川家康は、この敗戦により武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになり、武田式の政治・軍事システムを積極的に取り入れ、また武田家滅亡後には、武田家残党を積極的に採用しています。

大失敗を次に活かす。

簡単なようで、簡単ではありません。

戦国乱世を終息させ、江戸幕府を開いて265年に及ぶ泰平の世を保ち得た徳川家康ほど、様々なことから学んで成長した武将はいません。

そんな徳川家康は、当然に生涯最大の負け戦から多くのことを学び取らないはずがありません。

天下をとるほどの傑物ならではの活かし方です。

今を生きる我々にも学ぶべき点の多い戦ですね。

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