【衣笠城の戦い】三浦義明が壮絶な最期を遂げた攻城戦

衣笠城の戦い(きぬがさじょうのたたかい)は、治承4年(1180年)8月26日、源頼朝の挙兵に乗じて源氏方についた三浦党の本拠地・衣笠城を、平家方の秩父党が攻撃することにより起こった合戦です。

2日前に、三浦党による騙し討ちにより敗戦を喫した畠山重忠のリベンジ戦でもあります。

三浦党の本拠地が陥落し、総領が討ち死にするという壮絶な結末を迎えたこの戦いについて、その発生に至る経緯から説明したいと思います。

衣笠城の戦いに至る経緯

三浦党が伊豆へ向かう(1180年8月22日)

治承4年(1180年)8月17日、源頼朝が、以仁王の令旨を奉じて打倒平家の兵を挙げ、伊豆目代・山木兼隆の首を挙げたのですが、三浦党総領であった三浦義明は、源頼朝に協力するため、同年8月22日、三浦義澄・和田義盛らに兵を預けて本拠地である三浦半島を出て西進させ、源頼朝との合流を図らせます。

ところが、三浦半島から東に向かった三浦義澄・和田義盛らでしたが、折からの大雨で酒匂川が増水し、これに阻まれて三浦軍は、源頼朝が待つ相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に到達できません。

そうこうしているうちに、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実ら3000余騎を率いて、北側から源頼朝討伐に向かいます。また、このとき南側から伊東祐親軍も源頼朝討伐に向かったため、同年8月23日、挟撃された源頼朝軍が大敗します(石橋山の戦い)。

本拠地に戻る三浦党が畠山重忠と遭遇

酒匂川の東側で水が引くのを待っていた三浦軍は、ここで源頼朝軍が石橋山で敗北したと聞かされたため、やむなく本拠地である三浦半島へと引き返すこととなりました。

ところが、撤退中の三浦軍は、治承4年(1180年)8月24日、由比ヶ浜付近で、石橋山の戦いに参加するために遅れて石橋山に向かっていた畠山重忠軍と遭遇します。

遭遇当初は、両軍ともに当初はそれぞれが相手が誰かわからなかったのですが、三浦軍の和田義盛が名乗りをあげたためにお互い相手が誰かを知ります。

そして、畠山重忠の母が三浦義明の娘(三浦義澄の姉妹)であるため畠山重忠と三浦義澄が甥と叔父の関係にあたること、また同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多かったことなどから、合戦回避の流れとなり一旦は戦になることなくおさまる気配となります。

由比ヶ浜の戦い(1180年8月24日)

ところが、形だけ小競り合いをして終わらせるはずだった双方の意向をひっくり返す事態が起こります。

このとき、別働隊として鎌倉の北側にある杉本城(椙本)に和田義盛の弟であり17歳の和田義茂(わだよしもち)が入っていたのですが、ここに和田義盛の下人が駆け込んできて、由比ガ浜にて畠山軍と三浦軍とで合戦が始まったと伝え、これを聞いた和田義茂が、兄・和田義盛の援軍に向かうために出撃してしまったのです。

杉本城を出た和田義茂は、杉山城から巡礼古道を通って南下し、そのまま由比ヶ浜に向かい、そのまま畠山重忠軍に向かって突撃していきました。

当然ですが、一応和平がなったとはいえ、突然の攻撃を見て、畠山重忠軍は、和田義茂らを討ち取るための反撃に出ることを決め、畠山重忠方の連太郎(つづきたろう)が進み出て対応に当たります。

他方、小坪坂の西側に布陣していた和田義盛は、名越方面から由比ヶ浜へ駆け下る少数の騎馬武者を見て、それが勘違いをした和田義茂だと気がつきます。

このまま少数で大軍の畠山重忠軍に攻撃を仕掛ければ、和田義茂が討ち死にすることは明らかです。

和田義盛は、和田義茂を助けるため、やむなく和平合意を破って畠山重忠と戦うことを決めます。

また、ちょうどこの頃、鐙摺城に引き上げていた三浦義澄が和田義盛に加勢するために軍勢を由比ヶ浜に送っているところだったのですが、鐙摺城から由比ヶ浜に向かうためには、一度に2~3騎しか通れない狭い小坪坂を通る必要があったため、三浦援軍は、この小坪坂を長く連なった隊列で下ってくる形となったのです。

ところが、この三浦援軍の長く連なる列を見た畠山重忠軍は、三浦援軍が大軍勢である(房総平氏も援軍に参加している)と勘違いをし、一気に士気が下がります。

この状態で、和田義盛らの三浦軍と畠山重忠軍との戦いが始まります(由比ヶ浜の戦い)。

そして、勢いに押された畠山重忠軍は、50余名が討ち取られる結果となります。

そこで、単騎で三浦軍に突撃しようとしたのですが、榛沢成清(はんざわなりきよ)になだめられ、やむなく相模国の本馬宿まで引くことに決め、この戦いは三浦軍の勝利に終わります。

なお、勝利した三浦軍も、相当の損害を出しており、その後、なんとか本拠地・衣笠城にたどり着いています。

衣笠城の戦い

畠山重忠が河越重頼に助けを求める

前記のとおり、由比ヶ浜の戦いは三浦党の勝利に終わったのですが、当然、騙し討ちの形となって初陣を汚された畠山重忠は納得がいきません。

怒りが収まらない畠山重忠は、治承4年(1180年)8月26日、 平家方の大庭景親の動員要請に応じて源頼朝を討つために相模に来ていた秩父党の総領・河越重頼に加勢を求めます。

河越重頼は、同じ秩父党の仲間である畠山重忠に卑怯な手を使った三浦党に対する憤懣の思いがあったこと、源頼朝方についた三浦党を討伐するという実績を挙げる目的があったことなどから、畠山重忠に味方して、三浦一族に攻撃を仕掛けることを決めます。

衣笠城の戦い(1180年8月26日)

そして、河越重頼は、畠山重忠軍を吸収し、中山重実・江戸重長らと共に数千騎の武士団を率いて、三浦党の本拠地である衣笠城に向かい、衣笠城の周りに取りつきます。

なお、衣笠城近くの神奈川県三浦郡葉山町に標高約205m畠山という山があり、衣笠城攻めの際畠山重忠が布陣したために名付けられたと伝えられています。

秩父党迫るとの報を聞いた三浦一族は、東木戸口(大手口)に三浦義澄・佐原義連らを、西木戸口(搦手口)に和田義盛・金田頼治らを、中の陣に長江義景・大多和義久らをそれぞれ配備して、迎撃態勢を整えます(吾妻鏡)。

衣笠城陥落(1180年8月27日)

もっとも、直前にあった由比ヶ浜の戦いにより三浦軍が消耗していたこと、攻め寄せる秩父党が圧倒的な大軍であったことから、衣笠城はすぐに落城の危機に陥ります。

後がなくなった三浦一族は、89歳の老齢であった三浦党総領の三浦義明が城に残って敵を食い止め、その隙に、その他の者が城を出て安房国に逃れた源頼朝に合流するという苦渋の決断が下します。

そして、治承4年(1180年)8月27日夜、三浦義明を除く三浦党の主要人物全員が、衣笠城を脱出し、船で安房国に向かいます。

他方、1人衣笠城に残った三浦義明は、城を枕に壮絶な討ち死にを遂げ、衣笠城もまた陥落したとされています(吾妻鏡)。

もっとも、延慶本平家物語では、三浦一族が城を脱出する際に、老齢の三浦義明が足手まといとなったため置き去りにしたために死亡したとされ、また、別の説では、衣笠城落城に際して城を出た三浦義明でしたが、現在の横須賀市大矢部付近に生えていた松の木の下で愛馬が動かなくなったため、それを天命と受け止めその場で切腹したという言い伝えも残されています(なお、三浦義明が切腹したとされる松は腹切り松と呼ばれ、現在は場所を移し、児童公園「腹切り松公園」の一角に保存されています。)ので、実際の三浦義明の死に様については不明だったりします。

衣笠城の戦いの後

安房国にて源頼朝と合流

海に逃れた三浦一族は、安房国の安在景益を調略した上で,源頼朝と合流します。

そして、その後、三浦一族は、千葉常胤上総広常らを傘下に加えて大軍となった源頼朝に従って相模国・鎌倉に向かって進んで行き、治承4年(1180年)10月2日、武蔵国に入ります。

秩父一族の帰順申出(1180年10月4日)

そうしたところ、同年10月4日、長井の渡に到達した源頼朝の下に、畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族が帰順を求めてやってきます。

この話を聞いた三浦一族は怒り狂います。

1ヶ月前に本拠地を攻め滅ぼし三浦党の総領を殺した仇ですので、受け入れられるはずがありません。

困った源頼朝は、必死に三浦一族を説得し三浦一族がしぶしぶこれを受け入れたことから、秩父平氏の取り込みに成功し、いよいよ鎌倉に入ることとなります。

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