【富士川の戦い】平家打倒で挙兵した源頼朝が関東武士団を統べるに至った合戦

安徳天皇の外戚となるなど、平氏にあらずんばひとにあらずとまで言われた栄華を誇った平氏ですが、その驕りから各地で平氏に対する不満が高まっていきます。

そして、治承4年(1180年)4月9日、源頼政と共に高倉天皇の兄宮である以仁王が挙兵し、「最勝親王」と名乗って諸国の源氏や大寺社に平氏追討の令旨を下します。

そして、この以仁王の令旨は、各地の反平氏勢力を刺激し、各地で反平氏の武装蜂起が起きます。

その多くは、早期に鎮圧されますが、源頼朝(河内源氏)、源義仲(河内源氏)、武田信義(甲斐源氏)の3勢力は、平氏勢力を蹴散らして生き残ります。

このうち源義仲は独力で京を目指すのですが、源頼朝と武田信義は協力して進んでいきます。

本稿では、この対平氏3勢力のうち、源頼朝の挙兵後の動きについて、武田信義との関係性にも配慮しつつ見ていきます。

西進する源氏(源頼朝・武田信義)軍の動き

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

治承4年(1180年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じ、舅の北条時政、土肥実平、佐々木盛綱らと共に挙兵し、伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃して殺害します。

こうして当面の平氏の代弁者である目代を討った源頼朝ですが、このときの源頼朝の兵力のみで伊豆1国を掌握するにはほど遠く、近い時期に平家方の反撃を受けることが予想されました。

そこで、源頼朝は、相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとし、その本拠地である相模国へ向かいます。

これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎が源頼朝追撃に向かいます。

平氏の軍勢が迫っていることを聞いた源頼朝は、同年8月23日、300騎をもって石橋山に陣を構えます。なお、このとき三浦義澄が源頼朝への援軍に向かったのですが,大雨で増水した酒匂川に足止めされ源頼朝の下にたどり着けませんでした。

石橋山の戦い(1180年8月23日)

三浦氏の援軍が向かっていることを知った大庭景親は、三浦勢が到着する前に雌雄を決すべきと考え、治承4年(1180年)8月23日闇夜、暴風雨の中で源頼朝の陣に襲いかかります。

源頼朝軍も応戦しますが、多勢に無勢で勝ち目はなく、源頼朝は命からがら土肥の椙山に逃げ込むという大敗北を喫します(石橋山の戦い)。なお、このとき北条時政の嫡男・北条宗時が討ち死にしています。

山中に逃げ込んだ源頼朝は、その後、土肥実平の手引きで船を仕立て真鶴岬(現在の神奈川県真鶴町)から海を渡って安房国に逃亡します。

また、源頼朝に味方した三浦一族も同年8月26日平氏方の畠山重忠らに本拠地・衣笠城を落とされて同じく安房国に落ち延びています(衣笠城の戦い)。

一方、平氏方の大庭景親は、源頼朝謀反の早馬を平氏の本拠地福原に向かって走らせます(知らせは、同年9月1日に福原に到着します。)

安房国で味方集め

安房国に向かって船を出した源頼朝と三浦義澄・和田義盛ら三浦一族ですが、先に安房国についたのは三浦一族でした。

三浦一族は、安房国に到着すると、早々に地元の豪族であった安西景益を調略し味方に引き入れます。

そして、治承4年(1180年)8月29日、少し遅れて源頼朝を乗せた船が安房国・平北郡猟島に到着しますが、このときに三浦一族と安西景益に迎えられます。

源頼朝は、安房国に到着するなり、和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣して味方になるよう協力を要請します。

また、小山朝政、下河辺行平、豊島清元、葛西清重父子にも参陣を求めます。

房総半島近辺の豪族たちも平氏の目代に不満を持っていために、平氏打倒に立ち上がった源頼朝に多くの豪族が賛同します。

まず、下総国の千葉常胤が源頼朝の呼びかけに応じて挙兵し,下総国府を襲撃して平家一族の目代を殺害した上で(結城浜の戦い)、源頼朝を呼び寄せます。

源頼朝は、千葉常胤の呼びかけに応じて,同年9月13日、集った300騎を率いて安房国を出立し下総国を目指して北上を開始します。

そして、同年9月17日、下総国府に到達した際,千葉常胤が源頼朝軍に合流します。

ここで、千葉常胤から源氏ゆかりの鎌倉に向かうよう勧められた源頼朝は、軍を率いて鎌倉に向かって西進を開始します(また、このとき甲斐源氏の武田信義や安田義定に協力を求めるため、北条時政と北条義時を甲斐国に派遣します。)。

この動きを見ていた上総広常はようやく腹を決めて、同年9月19日に2万騎もの大軍を率いて、武蔵国と下総国の国境辺りまで進んでいた源頼朝の下に参陣します(上総国の上総広常は、源頼朝の力量を計りかねていたために参陣が遅れ源頼朝に叱責されています。)。

一大勢力を誇った上総広常が源頼朝の下に参陣したことにより、その他の豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らの豪族たちもこぞって源頼朝の下に集うようになり、同年10月2日に武蔵の国に入る頃には2万5000騎を超えるまでに膨れ上がっていました。

源頼朝鎌倉入り(1180年10月6日)

源頼朝が率いる軍が数万騎に膨れ上がっていたため、以降関東の平氏達も手出しが出来なくなります。

そのため、下総国を発った後,源頼朝は抵抗を受けることなく治承4年(1180年) 10月6日、鎌倉に入ります。

鎌倉に到着した源頼朝は、共に蜂起した甲斐国の武田信義と連絡を取り合い、駿河国で合流して平氏を打倒するとの同盟を結びます。

そして、源頼朝は、鎌倉で軍備を整えた後、同年10月16日、遂に平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を出発します。

甲斐源氏・武田信義の動き

ここで少し時代を戻って、武田信義について説明します。

甲斐源氏の武田信義は、源頼朝挙兵から遡ること4カ月前の治承4年(1180年)4月下旬または5月上旬ころ、以仁王の令旨に応じて挙兵しています。

そして、武田信義は、同年8月頃、弟・安田義定、子・一条忠頼らと協力して甲斐国、信濃国諏訪郡などを制圧します。

そして,この後,石橋山の戦いに敗れて阿波国に逃れた源頼朝から,使者として土肥実平の弟である土屋宗遠が送られ,武田信義と源頼朝との対平家の協議が進められます。

その後、武田信義は、同年10月14日、富士山の麓で駿河目代・橘遠茂を撃破し(鉢田の戦い)、その勢いのまま駿河国に侵攻してこれを制圧します。

なお、後年に編纂された鎌倉幕府の歴史書・吾妻鏡では、武田信義が源頼朝の指示の下で行動していたようにされていますが、先に挙兵した武田信義が源頼朝の指揮下に入る理由がなく、創作のものとの指摘もあります。

東進する平氏軍の動き

平氏の討伐軍編成(1180年9月1日)

治承4年(1180年)9月1日、大庭景親から、福原にいる平清盛の下に源頼朝挙兵の報が届けられます。

平清盛は、同年9月5日、源頼朝による謀反軍を鎮圧するため(あるいは、先に蜂起していた甲斐国・武田信義軍を鎮圧するため)、平維盛を総大将、平忠度を副将とする追討軍を東国へ派遣することを決定します。

もっとも、このころは西国で大きな飢饉が起こっており(養和の飢饉)、その対応などから追討軍の編成は遅々として進みませんでした。特に、兵站の問題に手間取ります。

平維盛、平忠度、平知度らによって何とか3万人の兵を整え、3週間後の同年9月22日、ようやく源氏追討軍が福原を出立します。

討伐軍の進軍遅延

福原を出て京に入った追討軍ですが、京でも総大将の平維盛と参謀役の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着を起こし、またもやいたずらに時間を消費します。

結果、ようやく追討軍が京を出発したのは同年9月29日でした。

平家の源氏追討軍がいたずらに時間を空費している間に、木曾義仲が挙兵し、また源頼朝が一大勢力と化していきます。。

平氏方も、東国へ向かう道中で多くの兵を吸収していき7万人にも膨れ上がった上で、同年10月13日に駿河国に入るのですが、この頃の源氏方の兵数は22万人にも上っていたいわれており兵数の差は歴然としていました。

富士川の戦い

源氏軍の布陣

治承4年(1180年)10月18日、武田信義率いる2万騎が甲斐国から南下して富士川東岸に布陣(もっとも詳細な布陣場所の記録はありません。)し、平家方と直接対陣します。

また、同日10月18日夜には、源頼朝率いる本軍が黄瀬川沿いに布陣します。

なお、このときの力関係について、従来の通説では本軍が源頼朝軍であり武田信義軍はその指揮下にあったとされていますが、今日では本軍が武田信義軍であり源頼朝軍は副次的な扱い(単なる神輿)であった可能性が高いとする説が有力です。

平家軍の布陣

対する平家軍は、富士川湖畔西側に布陣します。

ここで、平家方は、関東の在地平氏勢力が集まってくるのを待ったのですが、以下のように結集することなく源氏方に各個撃破されたり、またそもそも源氏方に寝返られたりして思うように兵が集まりませんでした。

大庭景親は1000騎を率いて平家方への合流を計りますが、富士川東岸に布陣する源頼朝又は武田信義の軍に進路を阻まれてこれを果たせず、しばらく相模国に留まった後に軍を解散し逃亡しています(その後、大庭景親は後に源頼朝に降るも、許されずに斬られています。)。

また、同年10月19日には、伊豆から船を出し、平氏方に合流しようと図った伊東祐親・祐清父子が捕らえられています。

そのため、兵数に大きく劣る平氏方は、食料の欠乏もあって士気が著しく低下し、逃亡兵が相次ぎ戦線を維持することすら困難な状態に陥っていました。

富士川の戦い(1180年10月20日)

治承4年(1180年)10月20日夜、源頼朝軍が駿河国賀島に進み、また武田信義軍が富士川の東岸に進んで開戦を待ちます。

そして、武田信義軍が、平家軍の背後を突こうとして富士川の浅瀬に馬を入れたとき、その動きに驚いた富士沼の水鳥が一斉に飛び立ちます。

このときの水鳥の羽音を源氏方の攻撃と勘違いした平家方は、奇襲をかけられたと勘違いして大混乱に陥ります。

そして、平家方の兵は、他人の馬にまたがったり杭につないだままの馬に乗ったりするなどして、弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどったと言われています。

混乱状態を収拾できなかった平家方は、総大将・平維盛が撤退の決断を下し、平家は一戦も交えることなく総崩れのまま退却を開始します。

退却の際にも、平家方からの逃亡兵はなくならず、なんとか京に逃げ帰った際の平維盛に供する兵はわずか10騎程度であったそうです。

なお、この水鳥のエピソードは、貴族化して戦いを忘れた武士の哀れな姿として知られますが、実際は誇張ないしは虚構で、実際には奇襲を察知した上での戦略的撤退であった可能性も指摘されています。

富士川の戦い後の各陣営

甲斐源氏による駿河国・遠江国制圧

富士川の戦いに勝利した源氏方では、甲斐源氏の武田信義が駿河国、安田義定が遠江国へと本格的に進出し、それぞれ傘下に治めます。

これにより、甲斐源氏は、甲斐国・駿河国・遠江国を治める一大勢力となりました。

源頼朝の東国残留の決断(京か東国か)

源頼朝は、富士川の戦いに勝利して勢いに乗り、撤退する平家軍を追撃して京に雪崩れ込もうと考えます。

ところが、上総広常千葉常胤三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張します。また、同盟関係にある武田信義が駿河、安田義定が遠江と坂東と都を結ぶ東海道の途上を制圧しているので、彼らの意向を無視して上洛することもできませんでした。

いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、これら東国武士たちの意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をします。

そして、源頼朝は、まずは自身のために働いてくれた武士の恩に報いるため、自分の下に集った武士たちに本領安堵と敵から没収した領地の新恩給付を行ないます。

そして、この本領安堵と新恩給与(御恩)の対価として、臣下となった武士たちに兵役を求めることにより(奉公)、源頼朝は急速に力をつけ、鎌倉を本拠地として開拓し東国一帯にその支配権を広げていきます。

そして、この御恩と奉公により得た軍事力をもって、駆けつけてきた弟の源義経や源範頼らを使って平氏打倒を計っていくのですが、長くなりますので、その辺りは別稿に委ねます。

平家の凋落

一方で、大軍を派遣したにもかかわらず、一戦も交えることなく敗れた平氏の評判は地に落ちます。

その結果、畿内、北陸、四国などの反乱勢力の挙兵を誘発し、戦乱は東国のみの反乱に留まらず全国規模の内乱に発展していくこととなりました。

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