【長谷堂城の戦い】北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦のクライマックス

長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)は、慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた上杉景勝軍(西軍)と最上義光・伊達政宗連合軍(東軍)の戦いであり、「北の関ヶ原」といわれる慶長出羽合戦の中の主要な戦いの1つです。

長谷堂城を囲み、最上家の居城・山形城まであと一歩に迫った上杉軍が、関ヶ原の戦いで石田三成軍(西軍)が敗れた余波により敗れ、東北地方最大の大名家から一地方大名に成り下がるきっかけとなった戦いでもあります。

長谷堂城の戦いに至るまでに、上杉家と最上家には長い因縁がありましたので、本稿ではその辺りから紐解いて長谷堂城の戦いについて見ていきたいと思います。

長谷堂城の戦いに至る経緯

庄内地方を巡る上杉景勝と最上義光の対立

大江氏・白鳥氏・天童氏などを破って村山郡・最上郡を勢力下に治めた最上義光は、大宝寺家が治める庄内地方の制圧を目指していたのですが、天正15年(1587年)に起こった内紛に介入し、大宝寺義興を自害に追い込んで一旦は庄内地方を制圧します。

ところが、このときに落ち延びた落ち延びた大宝寺義勝(本庄繁長の子)が、翌天正16年(1588年)8月、本庄繁長と共に旧領奪回を目指して庄内地方に進攻してきます。

このとき、大崎合戦に出陣していたために不意を衝かれた最上勢は、大宝寺義勝・本庄繁長に大敗し(十五里ヶ原の戦い)、庄内地方は本庄繁長ひいてはその主君である上杉景勝の支配下に置かれました。

そして、天正18年(1590年)に行われた豊臣秀吉による奥州仕置により、庄内地方は大宝寺義勝の領地として公認され、その後、藤島一揆による大宝寺氏の改易を経て、上杉氏の所領となりました。

庄内地方を上杉景勝に領有させる代償として、最上義光にも出羽国・雄勝郡(当時は上浦郡の一部でした。)が与えられたのですが、この沙汰は、庄内地方を失う最上義光にとって納得のいくものではなかったため、この後、庄内地方の領有権を巡って上杉景勝と最上義光の間に禍根として残っていくこととなりました。

最上義光が豊臣政権を見限る(1595年)

最上義光は、自身にとって納得のいく領地配分を行わない豊臣政権に対して不信感を募らせていったのですが、これを決定的にさせる事件が起こります。

豊臣秀吉が、愛娘である駒姫を殺害したのです。

東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞いたときの関白・豊臣秀次が、最上義光に対し、駒姫を側室として差し出すように迫ります。

最上義光は、何度もその要求を断っていたのですが、天下人の後継者である豊臣秀次の要求を完全に拒絶することなどできようはずがなく、ついに駒姫が15歳になったら山形から京へと嫁がせると約束してしまいます。

その後、文禄4年(1595年)、15歳となった駒姫が豊臣秀次の下へ行くために京に向かったのですが、同年7月15日、夫となる豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられるという事件が起こります(秀次事件)。

このとき、豊臣秀吉は、豊臣秀次のみならず、その妻子も全て処刑するとの判断を下します。

そして、まだ豊臣秀次に会ったこともなく実質的な側室であるはずのなかった駒姫までもその対象とされます。

このあまりにひどい決断に対し、最上義光が、必死で助命嘆願に走り回ったのですが、その甲斐もなく、同年8月2日、駒姫は他の豊臣秀次の側室達と共に京・三条河原に引き立てられて、15歳の若さで処刑され、その遺体は最上義光に下に返されることもなく他の側室らと共にぞんざいに穴に埋められ、その上に畜生塚という石碑まで設置されます。

このあまりに酷い話を聞いた最上義光は、怒り狂い、豊臣政権をへの恨みを募らせていきます。

上杉景勝の会津転封(1598年)

慶長3年(1598年)、上杉景勝が、越後国・佐渡国から、会津・置賜・信夫・伊達・安達など(蒲生氏郷の旧領)に移封されます。なお、上杉景勝が越後から会津に転封したことにより、上杉景勝の継続支配が認められた庄内地方が最上領によって本領と遮断される飛び地となっています。

これにより、豊臣恩顧の大名である上杉景勝が、計120万石もの大勢力となった、最上義光・伊達政宗らが豊臣政権に反旗を翻さないよう、常時目を光らせてくるようになります。

そして、この上杉景勝の会津移封によって、本拠地・山形城が上杉領の会津と庄内地方に挟まれる形となったため、上杉家(豊臣家)と反目する最上義光にとっては、大きな安全保障上の問題となります。

しかも、上杉景勝方の直江兼続が、秘密裏に米沢と庄内を結ぶ軍道の建設を進めて約1年で完成させたため(朝日軍道)、最上家にとっての脅威はすぐに顕在化します。

徳川家康による会津征伐軍出陣

慶長3年(1598年)8月18日、天下人となった豊臣秀吉が死亡したことにより、一旦泰平の世となった世界が、織田信長・豊臣秀吉の下でひたすら耐え忍んでいた徳川家康が動き始めたことをきっかけとして動き始め、徳川家康は、各大名と縁戚関係を結ぶなどして味方となりそうな各大名の取り込みを始めます。

徳川家康は、敵対する大名に対しては、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の後見と称して武力で脅し、服従を強いていきます。

また、徳川家康は、同じく豊臣政権で五大老の一員を担っていた上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形式で、徳川家康への臣従を迫りました。

これに対して、上杉景勝は、有名な「直江状」を送り付け、徳川家康の提案をはねつけます。

直江状を見た徳川家康は激怒し、会津征伐の兵を興し、大坂を離れます。

徳川家康は、5方面から上杉領に侵攻する作戦を立案し、慶長5年(1600年)7月7日、最上義光に対して書状を送り、奥羽の親徳川(反上杉)大名を取りまとめるよう指示します。なお、白河口から徳川家康ら東海方面勢、仙道口から佐竹義宣、信夫から伊達政宗、米沢口から最上義光ら奥羽勢、津川口から前田利長ら北陸勢を配置予定でした。

最上義光は、仇敵・上杉景勝を討伐する大義名分と絶好の機会を得て、奥羽の諸大名を集めていきます。

当然、これに対抗すべく上杉軍も軍備を整え、旧領・越後で一揆を誘発して津川口を妨害したり、佐竹義宣に接近して仙道口を無力化したりしてますので、一気に合戦の気配が高まります。

そして、同年7月24日、先行した伊達政宗が、刈田郡から上杉領に侵攻して白石城を攻撃し、翌日にはこれを攻略するという形で上杉領侵攻作戦(慶長出羽合戦)が始まります。

徳川家康が西に転進(1600年7月25日)

ところが、ここで最上義光の意に反する事態が起こります。

会津征伐に向かっていた徳川家康が、慶長5年(1600年)7月24日、下野国・小山で石田三成挙兵の報を受け取ったのです。

徳川家康は、同年7月25日、急遽本陣に諸将を招集して軍議を開き、諸将の意見を質した後、会津征伐を取りやめて反転し、石田三成を討伐するため西上するという判断を下します。

徳川家康が上杉攻めをしないのであれば最上義光の下に集った奥羽の諸大名も会津征伐の必要がなくなりますので、最上義光の下を離れ、それぞれ自領に引き上げていきます。

既に上杉領に侵攻していた伊達政宗までも、攻略した白石城を上杉景勝に返還し、信夫口から自領に引き上げてしまいました。

ところが、こうなると最上義光は困ります。

上杉景勝を包囲殲滅するはずだったのが、最上家単独で上杉軍と対峙しなければならなくなったからです。

上杉景勝による反攻作戦

逆に、徳川軍による脅威が去った上杉景勝は勢いつきます。

上杉景勝は、徳川軍に対抗するために集めた兵を、対決姿勢を示す最上義光領への侵攻に使うこととします。

自らを危機に陥れる可能性がある最上義光を放っておくことはできないからです。また、このときの上杉家は120万石・最上家は13万石という国力に圧倒的な差があり、攻略が容易いと考えられたこともその理由として挙げられます。

いずれにせよ、単独で上杉家と戦う戦力のない最上義光は、慶長5年(1600年)8月18日、上杉景勝宛に嫡子・最上義康を人質として差し出すことを和睦条件として山形へ出兵しないように要請しています(上杉家記)。

もっとも、この最上義光の和睦申出は単なる時間稼ぎに過ぎず、同年8月下旬に最上義光が秋田実季と結んで、上杉領である庄内(上杉本領である会津から離れた飛び地でした)の東禅寺城を挟撃する気配を見せたため、上杉景勝は激怒し、再び最上領への侵攻を決定します。

上杉軍の最上領侵攻(1600年9月8日)

そして、上杉軍は、慶長5年(1600年)9月8日、直江兼続を総大将として米沢を出陣し、これと同時に庄内地方からも兵を出し、米沢・庄内の2方面からの最上領侵攻を開始します。

上杉軍を包囲殲滅する予定だった最上義光が、逆に上杉軍に挟撃されるという苦しい戦いです。

このときの両軍の正確な兵数は不明ですが、1万石あたりの動員兵力を約250人と仮定すると、このときの上杉軍は2〜3万人、対する最上軍は3000人程度となりますので、最上軍に勝ち目はありません。

実際、最上領に侵攻した上杉軍の攻勢はすさまじく、庄内方面から進入した軍は、同年9月15日までに白岩城・寒河江城を攻略し、また同年9月18日までに谷地城・長崎城・山野辺城も陥落させて山形城に迫ります。

また、米沢から進入した軍は、多方面に分かれ、それぞれが山形城の支城を陥落させながら、最上家の居城・山形城へ迫っていきます。

さらに、慶長5年(1600年)9月13日に畑谷城が陥落すると、最上領の北側に位置する小野寺家までもが、上杉軍に便乗し、最上領への侵攻を開始しました(もっとも、小野寺軍の侵攻は、最上家の属城であった出羽国雄勝郡にあった湯沢城を守る楯岡満茂により食い止められました。)。

長谷堂城の戦い

上杉軍による長谷堂城包囲

畑谷城を攻略した直江兼続は、菅沢山に陣を敷き、1万8000人の兵で最上方の志村光安が1000人の兵で守る長谷堂城を包囲します(副将は鮭延秀綱)。

長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置する山形城の南西約8kmにある山形城防衛の最後の拠点であり、この時点で最上川西岸・須川西岸において残る唯一の拠点となっていたために、最上方からすると山形城防衛の最後の支城です。長谷堂城が落ちれば、次は最上家の居城・山形城です。

最上家の絶体絶命の危機です。

伊達政宗へ援軍要請(1600年9月15日)

いよいよ後がなくなった最上義光は、慶長5年(1600年)9月15日、嫡男・最上義康を使者として、甥の伊達政宗に援軍要請を行います。

最上義光からの援軍要請に対し、伊達家中では片倉景綱らによる両家を争わせて疲弊させるべきであるとする意見もあがりましたが、最上家が滅ぶと次に伊達家が狙われるとの考えから、援軍を派遣することに決まります。

そして、伊達政宗は、叔父の留守政景に5000人の兵を預けて最上義光への援軍に派遣します。

長谷堂城への力攻め

慶長5年(1600年)9月15日、直江兼続が長谷堂城に対する力攻めを敢行しましたが、志村光安らが必至に防戦し、これを跳ね返します。

それどころか、志村光安は、同年9月16日夜、200人の兵で上杉方の春日元忠軍に夜襲を仕掛け、混乱した上杉勢は同士討ちを起こして250人も討ち取られます。

直江兼続は、同年9月17日にも長谷堂城を攻め立てますが、城の周りが深田になっていたために兵馬の足をとられて城内から弓・鉄砲による一斉射撃を浴びることもあって、なかなか城に取り付けません。

損害ばかり増えていくために力攻めが困難と判断した直江兼続は、長谷堂城内から兵を誘き出すために長谷堂城付近で刈田狼藉を行いますが、城守の志村光安は「笑止」という返礼を送っただけで、これを無視します。

伊達政宗・最上義光の援軍到着

上杉軍が長谷堂城攻略に手間取っている間に、伊達政宗・最上義光からの援軍が長谷堂城に向かっていきます。

慶長5年(1600年)9月21日には、伊達政宗からの援軍である留守政景隊3000人が白石から笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣し、さらに同年9月24日には須川河岸の沼木(上杉軍の本陣から約2km北東の地点)にまで迫ります。

また、最上義光も、同年9月25日に兵を率いて山形城を出陣し、稲荷塚に布陣します。

長谷堂城への援軍が迫ったため、直江兼続は、これらが到着するまでに城を陥落させようとし、同年9月29日、再度長谷堂城に総攻撃を仕掛けます。

もっとも、この攻撃に対しても長谷堂城は持ち堪え、そればかりか無理な攻撃が災いして上杉軍の上泉泰綱が討ち取られます。

こうして長谷堂城が陥落するまでに伊達・最上の援軍が到着したため、戦線が膠着するかに見えました。

ところが、この日、事態が急変します。

直江兼続の撤退戦

慶長5年(1600年)9月29日、長谷堂城を囲む直江兼続の下に、同年9月15日に関ヶ原で石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗れたとの報が届いたのです。

このまま上杉軍が長谷堂城包囲のために留まれば、徳川方の総攻撃を受けることが必定です。上杉軍の負けが決定します。

直江兼続は、敗戦の責任をとって腹を切ろうとしますが、客将の前田慶次に諫められて切腹を取りやめ、長谷堂城包囲を解いて急ぎ会津に向かって撤退させることを決断します。

ところが、翌同年9月30日に最上方にも関ヶ原の戦いの結果が届きます。

この結果、上杉軍・最上軍の双方に、関ヶ原の戦いの結果に従って最上方が勝者の立場に、他方、上杉方が敗者の立場になったことが伝わったこととなりました。

こうなると、散々痛い目にあわされた最上軍は、これまでの恨みを晴らすため一気に士気が回復します。

同年10月1日、上杉軍が撤退を開始すると、最上・伊達連合軍は、全戦線で反攻に転じ、同年10月1日には寒河江・白岩・左沢を回復し、また、撤退から取り残された谷地城も11日間の籠城の末に降伏しています(上杉方が和平交渉へ向けて動いている間に、庄内地方に進攻し短期間のうちに失った旧領の奪還しています。)。

また、長谷堂城からも追撃戦に出たため、逃げる直江兼続と追う最上義光との間で大激戦が繰り広げられます。

富神山の付近では陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなどの激戦となり、両軍多くの死傷者を出します。

直江兼続も必死の逃走を続け、追撃軍を迎え撃つために自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめるなどし、同年10月4日になんとか米沢城まで帰還しています。

長谷堂城の戦いの後

上杉景勝に対する減封

慶長出羽合戦の敗北が決まった上杉景勝は、慶長5年(1600年)12月、徳川家康に降伏します。

徳川家康は、敗れた上杉景勝に対し、慶長6年(1601年)2月上旬、結城秀康のとりなしで豊光寺の西笑承兌を介して上洛を促します。いわば全面降伏の勧告です。

上杉景勝は、全面降伏を受け入れるため、直江兼続と共に上洛し、徳川家康に謝罪します。

降伏したことにより上杉家の改易は免れたものの、上杉景勝は、同年8月に行われた奥羽に関する大名配置の決定により、置賜・信夫・伊達の3郡からなる出羽国米沢30万石(表高30万石・実高51万石余)に減移封されます。

こうして、上杉家は、東北地方最大の大名家から一地方大名に成り下がってしまいました。

最上義光に対する加増

他方、最上義光は、上杉軍を撃退した功などにより、攻め取った庄内地方などの領有を認められます。

また、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡(佐竹氏との間で、当初所有していた雄勝郡・平鹿郡と領土交換。)の計57万石を領しする大大名となります。

結果、長谷堂城の戦い(慶長出羽合戦)を経て、上杉家と最上家の立ち位置が逆転するという結果となりました。

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