【道明寺の戦い・誉田の戦い】後藤又兵衛が戦死した豊臣軍と徳川大和方面軍との合戦

道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)・誉田の戦い(こんだのたたかい)は、慶長20年(1615年)5月6日に発生した、徳川・大和方面軍と豊臣方迎撃隊との間で発生した野戦です。

大坂夏の陣のクライマックス直前の戦いの一つであり、後藤又兵衛(後藤基次)が戦死した戦いでもあります。

以下、道明寺の戦い・誉田の戦いについて、その発生経緯から順に説明します。

道明寺の戦い・誉田の戦いに至る経緯

豊臣秀頼が徳川家康の要求を拒否

大坂冬の陣で一旦和議となった徳川方と豊臣方でしたが、徳川家康は豊臣家の取り潰しを虎視眈々と狙っていました。

慶長20年(1615年)3月24日、そんな徳川家康の下に、京都所司代・板倉勝重から、豊臣家が大坂冬の陣で埋め立てられた堀を掘り返し、また壊れた塀を修理し、大量の食糧を買い込み浪人を集めているとの報告が届きます。

豊臣家攻撃の絶好の口実を得た徳川家康は、豊臣家に無理難題を突き付けます。

徳川家康は、すぐに大坂城に使者を送り、豊臣秀頼に対し、大坂城を明け渡して大和国または伊勢国に国替えするか、浪人らを放逐するかいずれかを選択するよう迫ります。

豊臣秀頼は、当然にこの徳川家康からの申し出を拒否し、戦争の準備に入ります。

徳川軍の侵攻

徳川家康は、慶長20年(1615年)4月4日、九男・徳川義直の婚儀に赴くとの名目で駿府を出発して名古屋に向かったのですが、その道中で、徳川家康は豊臣方の使者・大野治長から豊臣家が徳川家康の申し出を拒否するとの返答を受け取ります。

してやったりの徳川家康は、同年4月7日、西国諸大名に大坂攻めのための出陣命令を発し、自身は同年4月10日そのまま名古屋に城に入ります。また、同日、江戸から2代将軍・徳川秀忠の軍も大坂城に向かって出陣をします。

その後、徳川家康は同年4月18日二条城に、徳川秀忠は同年4月21日伏見城にそれぞれ入ります。

そして、同年4月22日、二条城にて軍議が行われ、徳川方は、軍を二手に分け、1軍を河内口から、もう1軍を大和口から侵攻させ、道明寺にて再集結した上で大坂城を南部から攻撃するとの作戦が決定されます。

(1)徳川・大和方面軍

この軍議に従い、同年4月28日、徳川家康の六男・松平忠輝を総大将とする3万4300人が京を発ち、大和路方面に向かって進軍していきます。なお、徳川・大和方面軍の将は以下のとおりです。

①先鋒大将:水野勝成(堀直寄、松倉重政、奥田忠次 、丹羽氏信、桑山元晴、桑山一直、本多利長、神保相茂)

②二番手:本多忠政(稲葉紀通、古田重治、菅沼定芳、分部光信、織田信重)

③三番手:松平忠明(徳永昌重、一柳直盛、西尾嘉教、遠山友政、堀利重)

④四番手:伊達政宗

⑤五番手:松平忠輝

(2)徳川・河内方面軍

徳川・大和方面軍が出陣した1週間後の同年5月5日、徳川家康・徳川秀忠率いる12万人が京を発ち河内路へ入っていきます。

豊臣軍の初動対応

大坂冬の陣の講和とその後の徳川家康の策略により、堀の全てを埋められてしまった大坂城はその防御機能を失って籠城戦をすることができない状態であったため、豊臣方は大坂夏の陣では城を出て夜戦で徳川軍を迎え撃たざるをえない状況になっていました。

そこで、徳川軍の侵攻を見た豊臣方では、戦局を少しでも有利とすべく、作戦行動を行います。

① 徳川・大和方面軍に対する対応

まず、徳川・大和方面軍への対応として、慶長20年(1615年)4月26日、大野治房が、2000人の兵を率いて大和郡山城に攻め込み、これを奪取します。なお、大野治房は、奪った大和郡山城からさらに奈良に進出しようとしたのですが、徳川・大和方面軍が迫るとの情報を聞くと、支えきれないと判断して大和郡山城に火を放って大坂城へ撤退しています。

② 紀州・浅野家に対する対応

また、豊臣方の加勢要請に応じない浅野家を討つべく、大野治房(先鋒)・大野治胤(後続)らが2万人の兵を率いて紀州へ向かって南進を開始します(浅野家は、大坂城近辺では最大の動員兵力を有しますので、豊臣方としては徳川本軍と戦う前に絶対に処理しておかなければならない相手だったのです。)。

大軍の豊臣方に対し、5000人の浅野長晟軍は、狭隘地である樫井まで進軍してこれを待ち受けます。

大坂から紀州に向かって南進していく後続隊である大野治胤は、慶長20年(1615年)4月28日、道中で徳川方に協力するを焼き討ちにします。

そして、同年4月29日、豊臣方先遣隊の大野治房隊が、樫井の地で徳川方・浅野長晟軍に攻撃を仕掛けて戦いが始まります。

この戦いで、豊臣方の塙団右衛門が戦死、岡部則綱が負傷したため、大野治房隊が参戦しようとしたのですが、そのときには浅野長晟軍は既に撤退していたため、豊臣方は成果を挙げることなく戦いが終了します(樫井の戦い)。

豊臣方の軍議

大和方面・紀州方面の戦いを終えた大野治房が大坂城に戻ったため、慶長20年(1615年)4月30日、大坂城にて再度軍議が行われます。

軍議の結果、先行してくる徳川・大和方面軍を撃破し、その勢いのまま続いて徳川・河内方面軍を攻撃するとの策が決まります。

先行攻撃対象となった徳川・大和方面軍は、大和川沿いに長尾街道を西進し、生駒山地と金剛山地の間を抜けて大坂城に向かってくることが予想されましたが、大軍の徳川軍に対し、大坂方は半分程度の兵数しか準備できませんので、河内平野の開けた場所で野戦を挑むと勝ち目はありません。

そこで、長尾街道を西進してくる徳川・大和方面軍に対し、生駒山地・金剛山地によって隘路となる場所で待ち受け、河内平野に進入しようとする徳川軍を順次撃破するという作戦が採用されました。

豊臣・対徳川軍出陣

① 対徳川・大和方面軍

慶長20年(1615年)5月1日、豊臣軍は、徳川・大和方面軍に対応するために1万8400人を割り当て、まずは後藤又兵衛率いる先遣隊6400人を、その後毛利勝永・真田信繁ら率いる後続隊1万2000人を順に大坂城から出発させます。

大坂城を出た豊臣・河内方面軍は、同年5月5日、河内国・平野に到着して宿営し、最後の軍議を行います。

この軍議で、後藤又兵衛、毛利勝永、真田信繁らが、同日夜半に順に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結した上で「国分村」の狭隘地で徳川・大和方面軍を迎え撃つことに決めます(豊臣方による当初の予定防衛ラインは国分村)。

② 対徳川・河内方面軍

なお、徳川・河内方面軍に対しては、徳川・大和方面軍を打ち破った部隊が到着するまでの足止めとして大軍の機動が困難となる低湿地で迎撃するべく、慶長20年(1615年)5月2日、木村重成率いる6000人が出陣し今福方面を経て若江に向かい、続いて長宗我部盛親・増田盛次率いる5300人が八尾に向かっています。

道明寺の戦い(1615年5月6日午前)

豊臣軍が道明寺村へ向かう

豊臣方の対徳川・大和方面軍の部隊は、軍議の結果、慶長20年(1615年)5月6日深夜、まず後藤又兵衛が2800人の兵を率いて道明寺村付近・国分村へ向かうべく平野を出発します。

また、少し遅れて、先行する後藤又兵衛隊と道明寺村付近で落ち合うべく真田信繁隊・毛利勝永隊も出発していきます。

後藤又兵衛隊が道明寺村に到着

先行した後藤又兵衛隊は、夜明け前に道明寺に到着したのですが、道明寺村付近まで来た後藤又兵衛は、斥候からの報告により、既に豊臣方の軍議が破綻していることを知らされます。

後藤又兵衛隊が到着した時点で、既に徳川・大和方面軍が予定攻撃地点(防衛ライン)としていた国分村に到達し布陣済みだったからです。

この時点で、国分村の狭隘地に誘い込んで徳川方の大軍を順次撃破するという作戦が失敗に終わります。

後藤又兵衛は、やむなく少しでも有利に戦いを展開させ、後から来る豊臣方の援軍を迎えるべく、道明寺村から軍を少し進め、石川を渡って小松山(現在の玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。

他方、徳川・大和方面軍も、後藤又兵衛隊が小松山に布陣したことを知り、これを攻撃するために動きだします。

小松山の戦い

後藤又兵衛隊の布陣する小松山にたどり着いた徳川・大和方面軍は、これを包囲し始めます。

周囲に徳川軍が展開し始めたのを見た後藤又兵衛は、慶長20年(1615年)5月6日午前4時、徳川方の松倉重政、奥田忠次隊に対し攻撃を仕掛けます。

突然の攻撃を受けた徳川軍は混乱し、この後藤又兵衛隊の攻撃により奥田忠次が戦死し、松倉重政隊も崩れかかります。

もっとも、ここで徳川方の水野勝成、堀直寄が援軍として到着し、かろうじて徳川・大和方面軍の戦線は維持されます。

その後、数に勝る徳川方は、小松山を包囲し、伊達政宗、松平忠明らを中心として小松山に銃撃を繰り返しつつ、小松山への攻撃を開始します。

小松山に陣を敷く後藤又兵衛隊は、次々と新手を繰り出してくる徳川・大和方面軍を迎撃し、何度も撃退しますが、遅れてくるはずの豊臣方の軍が一向に到着しなかったため、単隊で寡兵である後藤又兵衛隊に限界が訪れます。

なお、後藤又兵衛のみが道明寺村に到着し、その他の全ての豊臣軍が半日もの遅参をした理由については、濃霧で出立時刻を誤った、寄せ集めの部隊だったため濃霧中や夜間では兵が分散してしまい行軍が上手く行えなかった、もともと後藤勢が後続が布陣するまでの遅滞戦術を行う作戦だったなど諸説あり、正確なところはわかりません。

後藤又兵衛戦死

多勢に無勢の状態で数時間に亘って戦い続けた後藤又兵衛隊の兵は疲弊の極みに達します。

そのため、もはや限界であると悟った後藤又兵衛は、負傷者を後方に下げた後で供廻りを率いて小松山を駆け降り、徳川軍に最後の突撃を敢行します。

突撃する豊臣軍の先頭に立って奮戦した後藤又兵衛でしたが、同日正午ごろ、徳川方の丹羽氏信隊に側面を衝かれて立ち往生したところを銃撃を受けて戦死します(なお、伊達家では片倉重長の鉄砲隊が射殺した、武功雑記では松平忠明配下の山田十郎兵衛が討ち取った、難波戦記では腰を撃たれて歩けなくなったため配下の吉村武右衛門に介錯させたとされており、実際の後藤又兵衛の死因は不明です。)。

そして、後藤又兵衛の戦死により後藤又兵衛隊も壊滅します。

誉田の戦い(1615年5月6日午後)

薄田兼相戦死

小松山で後藤又兵衛隊を壊滅させた徳川・大和方面軍は、徳川・河内方面軍との合流予定地点であった道明寺方面である西に向かって進軍していきます。

ところが、ここで、豊臣方の後発隊がようやく道明寺村付近に到着したため、豊臣方・後発隊先陣の薄田兼相・明石全登、山川賢信らと、徳川・大和方面軍とが対陣することとなります。

もっとも、多勢の徳川・大和方面軍に対し、後発隊の先陣の薄田兼相隊はわずか400人程度の寡兵であったために、豊臣軍はたちまち徳川・大和方面軍の大軍に飲み込まれて壊滅し薄田兼相が戦死します。

誉田の戦い(真田対伊達)

また、さらに遅れて真田信繁・毛利勝永らが、誉田村に到着するのですが、そこで道明寺方面から敗残兵が逃れてくるのを見て、当初の軍議の策が既に破綻していることを知ります。

そこで、真田信繁・毛利勝永らは、誉田村にて敗残兵を急襲しつつ体制を整えることとします。

もっとも、誉田村に集まってくる敗残兵を吸収しつつ布陣を整えようと急ぐ豊臣方に対し、徳川方が次々と石川を越えて攻撃を仕掛けてきます。

このとき、南端(位置関係としては、現在の近鉄・古市駅の辺り)から石川を渡河した伊達政宗隊が豊臣方が集まる誉田方面に向かって行ったのですが、ここで伊達政宗隊の片倉重長(重綱)が、応神天皇陵付近に布陣した真田信繁隊3000人を発見します。

片倉重長は、率いる伊達軍の部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて真田信繁隊に攻めかかりますが、逆に伏兵を置いていた真田信繁隊の返り討ちに遭い、伊達政宗本隊まで800m亘って押し戻されます。

片倉重長隊を迎撃した真田信繁でしたが、この迎撃により真田信繁隊にも大きな損害が出ため、真田信繁隊もさらなる追撃を行うことなく藤井寺まで後退して毛利勝永隊と合流します。

戦線の膠着

その後、豊臣方は藤井寺から羽曳野近辺に兵の布陣を完了させ、他方徳川方が道明寺から誉田近辺にて陣を立て直したことから、態勢を整えた両軍が誉田辺りを境として対峙し、膠着状態となります。

豊臣方の撤退

もっとも、慶長20年(1615年)5月6日午後2時半頃、本格的な戦いが起こる前に、真田信繁・毛利勝永ら宛に八尾・若江での豊臣軍の敗報が伝えられます。

この結果、このまま豊臣方が藤井寺から羽曳野近辺に布陣を続けると、東側の徳川・大和方面軍と、北側からの徳川・河内方面軍とで挟撃されることとなりますので、豊臣方は、やむなく同日午後4時ころから、順次天王寺方面へ撤退を開始します。

なお、この撤退に際して真田信繁が殿を務めたのですが、徳川方は兵の疲労を理由として追撃をしなかったため、「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候(関東の兵はものすごい数だが、その中に男は1人もいない、北川覚書)」と述べたと言われています。

道明寺の戦い・誉田の戦いの後

誉田では本格的な戦闘は行われなかったのですが、翌慶長20年(1615年)5月7日、摂津国東成郡大坂城南方(現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて)において、本格的な野戦が行われることとなります(天王寺・岡山の戦い)。

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