【壇ノ浦の戦い】平家滅亡に至った治承寿永の乱のクライマックス

長きに亘って繰り広げられた源氏と平氏の戦い(治承・寿永の乱)のクライマックスは誰もが知っている壇ノ浦の戦いです。

数年前まで平家にあらずんば人にあらずと唄うほど栄華を極めた平家が、屋島を追われて海上に追い込まれ、遂には次々に海に飛び込んで死んでいった悲しい最期を迎えた戦いでもあります。

本稿では、この平家が滅亡することとなった壇ノ浦の戦いについて見ていきましょう。

壇ノ浦の戦いに至る経緯

源氏水軍屋島を出発(1185年2月22日)

元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日の屋島の戦いで平家の本拠地であった屋島を攻略し、同年2月21日の志度合戦によって四国から平家を追い出した源義経は、同年4年(1185年)2月22日に梶原景時の水軍本隊到着を待ち、いよいよ平家の最後の拠点・彦島攻略に向かいます。

孤立する平家の拠点・彦島

また、このときには、山陽道は、土肥実平・梶原景時が総追捕使に任命されたことにより源氏方に押さえられており、また源範頼の山陽道・九州遠征の結果として九州に上陸した源範頼軍が大宰府に入った上で北九州を制圧していました。

以上の結果、平家は彦島に孤立した状態となり、もはや逃げ場はありません。

平家滅亡の危機が迫ります。

源氏水軍による瀬戸内海制圧と兵の鍛錬

彦島は関門海峡に浮かぶ小島ですので、彦島攻略戦は当然海戦になります。

この点、平家方は水上戦に長けていますが、元々水軍を持っていなかった源氏方は水上戦は素人同然です。

そこで、屋島を発った源義経軍は、途中で周防国に立ち寄り、河野通信や船所正利などの瀬戸内水軍勢力を味方に引き入れ、瀬戸内海を掌握していきます。

また、率いてきた摂津国・渡辺水軍、伊予国・河野水軍、紀伊国・熊野水軍の指導の下、全兵の水上戦の鍛練と船と兵装の整備を行います(なお、2月22日に屋島を発ち壇ノ浦の戦いが3月24日ですので、移動時間を考えると鍛錬期間は1か月弱であったと考えられます。)。

壇ノ浦の戦いの開戦準備

(1)源氏方の陣営

① 水上軍

源氏水軍の一応の鍛錬が済んだところで、ようやく開戦のめどが立ちます。

周防国を出発して彦島に向かって進んでいく源氏水軍は、源義経率いる840艘(摂津国・渡辺水軍、伊予国・河野水軍、紀伊国・熊野水軍の連合軍)でした(平家物語・吾妻鏡)。

先頭は、大将源義経です。

なお、開戦に際して、源義経軍で軍議が行われたのですが、このときに屋島の戦い前に続いてまたも源義経と梶原景時が対立します。

軍議において、梶原景時が先陣を希望したのですが、源義経は自身が先陣を務めるとしてこれを却下します。

これに対し、梶原景時が大将が先陣など聞いたことがない、大将は後方でじっくり腰を据えているべきだと反論します。

ところが、源義経は、源氏の大将は源頼朝であり源義経ではないからその理屈は成立しないと述べ、梶原景時を押さえつけます。

これに怒った梶原景時が、源義経に対して将の器ではないと愚弄したために、あわや源義経と梶原景時との斬り合い寸前に至ったとのエピソードが残されています。

② 陸上軍

また、九州北部には源範頼率いる陸戦隊が待機し、平家方の退路を封じています。

(2)平家方の陣営と作戦

これに対する平家方は、平知盛率いる500艘(松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘)でした(平家物語)。

数に劣る平家方は、平家の本陣が置かれ安徳天皇が乗ると想定される大型船に兵を潜ませて源氏方をひきつけ、大型船に取りついた源氏船を包囲・殲滅する作戦を立案します(この作戦の結果、安徳天皇と三種の神器は小型船に乗せられました。)。

壇ノ浦の戦い(潮流説)

では、以下壇ノ浦の戦いの合戦経過を見ていきましょう。

もっとも、歴史書「吾妻鏡」には、長門国・赤間関壇ノ浦の海上で、3手に分かれた平家方500艘と源氏方が戦い、午の刻に平氏敗北に傾き終わったと記載されているだけで、詳細な経過記録はありません。

そこで、以下は、信用性に疑問があるものの、より詳細に記録されている軍記物語である「平家物語」や「源平盛衰記」などを基にしています。

開戦(1185年3月24日正午)

元暦2年/寿永4年(1185年)3月22日に源義経率いる源氏水軍840艘が周防国から出撃し、同年3月24日に壇ノ浦の北東沖合に布陣します。

他方、源氏水軍出撃を聞いた平家方は、源氏水軍を迎え撃つため、平知盛率いる平氏水軍500艘が彦島を出撃します。

こうして両軍は、同日午の刻(正午)ころ、関門海峡壇ノ浦にて対峙し、源平クライマックスの海戦が始まります(玉葉、なお、吾妻鏡では午前に始まり正午に終わったと記録しているため、正確な開始時刻は不明です。)。

このとき、源範頼軍3万騎も陸地に布陣して平家方の退路を塞ぐとともに、そこから平家方に矢を放ち、源氏水軍を援護します。なお、このとき、和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたとされています(平家物語)。

平家優勢に進んだ前半戦

開戦当初、関門海峡の潮の流れが平家方から源氏方へ(南西から北東へ)流れていたため、土地勘があり水軍の運用に長けた平家方がは、この潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけつつ源氏水軍を押し込んでいきます。

源氏水軍は、潮の流れを巧みに利用する平家水軍に対応できず、干珠島・満珠島の近辺まで追い込まれていきます。

源氏に戦局が傾いた後半戦

(1)平家方の物資の不足

開戦直後は、優位に戦いを進めていた平家水軍でしたが、開戦前から源氏方に彦島を包囲されていたために兵糧や兵器の補充が十分ではなかったことから、一旦矢を射尽すと補充ができず、水上からは源義経軍に、陸上からは源範頼軍に射かけられるままとなってしまいます。

こうなると、戦局は一気に源氏方に傾きます。

平家方では、飛んで来る源氏方が放った大量の矢により、防御装備の貧弱な水手・梶取(漕ぎ手)たちから犠牲となっていきます。

なお、テレビドラマなどでは、このとき不利を悟った源義経が、当時の海戦のタブーであった敵船の水手、梶取(非戦闘員)を射るよう命じたと描かれることが多いのですが平家物語などではこの時点で源義経が水手・梶取を射るよう命じる場面は存在せず、真偽不明です。

(2)潮流の変化

水手・梶取(漕ぎ手)を失った平家水軍の操船が難しくなり、組織的な動きができなくなります。

ここで、さらに平家方に不幸が襲います。

関門海峡は潮の流れの変化が激しいことが有名ですが、ここで潮の流れが源氏方から平家方へ(北東から南西へ)と変わったのです。

水手・梶取(漕ぎ手)が失われた上、潮の流れも逆向きとなったことにより、平家方の船は身動きが取れなくなります(なお、吾妻鏡には潮流変化の記述がなく、平家物語にも反転したとまでの記載はないことから真偽は不明です。)。

こうなっては平家に勝ち目はありません。

身動きが取れなくなった平家水軍に対して源氏水軍が総攻撃をかけたため、平家方の武将が次々に討ち取られていき、またその光景を見た平家方の諸将が次々と源氏方へ寝返り・投降を始めます。

(3)平家作戦の筒抜け

また、平家方の田口重能が、率いる300艘と共に源氏方に寝返って平家の軍略を源氏方に伝えたため、おとりの唐船に源氏水軍をおびき寄せて殲滅するという平家の作戦も失敗に終わってしまいます(もっとも、吾妻鏡では田口重能が合戦後の捕虜として記録されていますので、この点の真偽も不明です。)。

こうして、平家水軍は壊滅し、平家の敗北が決定します。

戦の趨勢が見えた源義経は、至上命題であった三種の神器と安徳天皇の確保のため、平家の船に乗り移って、残った水手や船頭を皆殺しにして逃げられないようにした後、船から船へと動き回り三種の神器と安徳天皇を探します。

安徳天皇・三種の神器入水

敗北を悟った平家方では、迎撃軍の総大将を務めた平知盛が、建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移り、「見苦しいものを取り清め給え」とみずから掃除をして清めます。

その上で、平知盛は、女官たちに対し、このまま生き延びれば源氏の兵たちの慰み者にされるので急ぎ自害するようにと勧め、これを聞いた女官たちが次々に海に身を投げていきます。

この光景を見た二位尼もまた、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣(天叢雲剣)を腰にさし神璽(八尺瓊勾玉)を抱えて立ち上がります。

抱えられた安徳天皇がどこへ行くのかと聞くと、二位尼は海の底の浄土へと答え、安徳天皇と共に海に身を投じました(なお、吾妻鏡では、安徳天皇を抱いて入水したのは、平時子・建春門院・建礼門院らに仕えた按察使局伊勢であるとされており、二位尼は宝剣と神璽を持って入水とされています。)。

さらに、続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げて行きます。

源義経の「八艘飛び」

このとき、平氏随一の猛将として知られた平教経は、少しでも源氏兵を道連れにしようと激闘を続けますが、平家水軍総大将の平知盛から既に勝敗は決したから死ぬ前に雑兵を斬るという罪作りなことはするなと注意されます。

これを聞いた平教経は、それならば源氏水軍の大将である源義経を道連れにしようと考え、源義経の乗る船を探し出し、その船に乗り移ります。

源義経の船に乗り込んだ平教経は、源義経に組みかかろうとしたのですが、源義経は平教経から逃れるべく、身体の身軽さを生かしてゆらりと飛び上がり、他の船へ、またその他の船へと次々に飛び移り逃れてしまいました。

有名な、源義経の「八艘飛び」のエピソードです。

源義経を取り逃がし呆然とする平教経に向かって、手柄を挙げようと考えた源氏方の安芸太郎がその他2人と合わせて3人で組みかかります。

平教経は、この3人のうちの1人を海に蹴り落とし、他の2人を組み抱え、この2人を道連れに海に飛び込み、壮絶な最期を遂げます(平家物語、もっとも、吾妻鏡によると平教経は一ノ谷の戦いで戦死したとされていますので、本当のところは不明です。)。

平家一門の入水

女官達の入水を見届け、それを追うように平家一門の平経盛・平資盛・平有盛・平行盛らが次々に入水し死亡していきます。

これらの平家一門の最期を見届けた平家水軍の総大将の平知盛は、同日午後4時ころ(玉葉、ただし吾妻鏡だと正午ころ)、「見届けねばならぬ事は見届けた」と言い、確実に死ねるようにと鎧を2領着込んで乳兄弟の平家長と共に入水します。

その後、平家総帥・平宗盛と、その嫡男の平清宗も一旦海に飛び込んだものの、命を惜しんで浮かび上がって泳ぎ回っていたところを源氏の兵に捕らえられるという醜態をさらします。

こうして平家一門は、その多くが死ぬか捕らえられ、長かった源平の戦いが終結します。

壇ノ浦の戦い後

安徳天皇崩御と三種の神器の行方

入水した安徳天皇は崩御します。

このとき、三種の神器を探し回っていた源氏方は、運良く内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収できたのですが、二位尼が腰に差していた宝剣(天叢雲剣)は海の底に沈んでしまい回収ができませんでした(なお、このときに水没した天叢雲剣は、宮中の儀式に使われる模造品であり、本物は熱田神宮に保管されていたために失われていないという説もありますが、真実はわかりません。)。

他方、安徳天皇の異母弟の守貞親王、安徳天皇の母である建礼門院、平家総帥の平宗盛・その息子平清宗、平氏武将の平時忠(二位尼の弟)・平時実・平信基・平盛国・平盛澄・源季貞、、廷臣である藤原尹明、、僧侶である能円・全真・良弘・忠快・行命、女房である大納言典侍・帥典侍・治部卿局・按察使局らは助けられ捕虜となっています。

源義経と源頼朝の対立

平家を滅ぼした源氏方は、源範頼が九州に残って戦後の仕置きを行い、源義経が建礼門院・守貞親王・平家の捕虜を連れて京へ戻ります。

京に凱旋した源義経は、後白河法皇から称賛され、源義経自身とその配下の御家人たちが源頼朝に無断で任官します。

ところが、源義経らの無断任官を聞いた源頼朝は激怒し、任官者たちの東国帰還を禁じます。

さらに、源頼朝の下へ、九州に残っていた梶原景時から平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届いたこと、源義経が平時忠の娘を娶ったことを聞き、さらに源頼朝の怒りを増大させます。

結局、源義経は、元暦2年(1185年)5月、源頼朝の禁に反して平宗盛・平清宗父子を護送するという名目で鎌倉へ向かおうとするも、腰越で止められ、ここから源頼朝による源義経討伐に進んでいくこととなります。

なお、源義経は鎌倉入りを果たせませんでしたが、源義経が連れてきた平宗盛・平清宗父子は鎌倉へ送られて頼朝と対面した後、同年6月に京へ追い返され、その帰還途上の近江国で斬首されて平家が滅亡します。

余談

壇ノ浦の戦いの後、安徳天皇が入水した地である関門海峡沿いに立つ赤間神宮に安徳天皇が祀られます。

入水した安徳天皇を慰めるため、海の底にある竜宮城を模した形をに造られ、安徳天皇の御領である阿弥陀寺領も建てられました。

安徳天皇領のすぐ傍には、安徳天皇を守って死んでいった平家一門の墓もあります(なお、壇ノ浦の戦いで死なずに後に斬首された平家総統・平宗盛の墓はここには存在していません。)。

また、後に、この悲しい戦いは琵琶法師により語り継がれていき、今日の我々にまで伝えられています(様々な派生伝説も生まれ、耳なし芳一の話などが有名です。)。

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