【第二次上田合戦】真田昌幸が徳川秀忠を下した戦略的大勝利

第二次上田合戦(だいにじうえだかっせん)は、上田城主・真田昌幸が、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠率いる徳川主力軍を上田城で足止めし、関ヶ原の戦いに参加させないという大戦果を挙げた戦いです。第二次上田城の戦いとも言われます。

徳川家康が、主力軍なしに関ヶ原の戦いを勝利してしまったためにその評価が埋もれがちですが、この第二次上田合戦は、その後の歴史を大きく変えてしまう可能性を有していた歴史の転換点となるはずの戦いでした。

本稿では、そんな第二次上田合戦について、発生の経緯から順に見ていきたいと思います。

第二次上田合戦に至る経緯

徳川家康による会津征伐

慶長3年(1598年)8月18日、天下人となった豊臣秀吉が死亡したことにより、一旦泰平の世となった世界が、織田信長・豊臣秀吉の下でひたすら耐え忍んでいた徳川家康が動き始めたことをきっかけとして動き始めます。

徳川家康は、各大名と縁戚関係を結ぶなどして味方となりそうな各大名の取り込みを始めます。

他方、敵対する大名に対しては、豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼の後見と称して武力で脅し、服従を強いていきます。徳川家康は、同じく豊臣政権では五大老の一員を担っていた上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形式で、徳川家康への臣従を迫りました。

これに対して、上杉方は、有名な「直江状」を送り付け、徳川家康の提案をはねつけます。

そして、直江状を見た徳川家康は激怒し、会津征伐の兵を興し、大坂を離れます。

石田三成挙兵(1600年7月)

大坂を離れた徳川家康と入れ替わる形で、慶長5年(1600年)7月17日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の要請を受けた毛利輝元が大坂に到着し、同年7月19日に大坂城に入ります。

毛利の助力を得た石田三成は、三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(内府ちがいの条々)を記し、諸大名に発送します。

こうして、毛利輝元を総大将・石田三成を実質的指揮官とする対徳川家康連合軍が組織されます。

そして、石田三成は、このとき集まった兵を率いて挙兵し、東に向かって進軍していきます(最初の目的地は、鳥居元忠が守る伏見城でした。)。

犬伏の別れ(1600年7月21日)

会津征伐軍に合流するために徳川先遣隊が集まる予定となっていた宇都宮城に向かっていた真田昌幸は、慶長5年(1600年)7月21日、下野国・犬伏に着いた際、石田三成の密使が到着し、三奉行の連署入りの密書を受け取ります。

密書には、豊臣家の為に徳川家康を討つべく挙兵するため協力してほしい旨、石田三成に味方した場合、信濃国・甲斐国を与え旨が記されていました。

密書を見た真田昌幸は、天下を二分した戦いになることが明らかとなったため、徳川家康について上杉と戦うか、石田三成について徳川家康と戦うかという判断に迫られます。

この判断を誤れば真田家滅亡に繋がる可能性もあるため、究極の決断です。

真田昌幸は、人払いをした上で、真田信之、真田信繫を交え、3人で協議を始めます。

この協議では、石田三成と義兄弟である真田昌幸(三成・昌幸とも宇田頼忠の娘を娶っている)と、豊臣恩顧の大谷刑部小輔吉継の娘(竹林院)を室とする真田信繁は、石田三成方を推します。

他方、徳川家重臣の本多忠勝の娘(小松殿)を室とする真田信之は、徳川家康を推します。

意見が割れたため、喧々諤々激論を重ねましたがどちらも譲らなかったため、最終的には、石田三成と徳川家康のどちらかが勝利しても真田家が残るという判断の結果、真田昌幸・真田信繫は石田三成方に、真田信之は徳川家康方に付くこととして袂を分かつ決断をします(犬伏の別れ)。

そして、真田昌幸・真田信繁は軍を引き返して上田に戻り、真田真之はそのまま進軍して徳川軍に合流します。

真田昌幸らが上田城に引き返す

石田三成方につくことを決めた真田昌幸・真田信繁は、下野国・犬伏から本拠地・上田に引き返すこととします。

真田昌幸は、軍を引き返す途中で、徳川方につくこととなった真田信幸(このときは、真田信幸が小山に向かっていましたので、その妻・小松姫が留守を預かっていました。)が守る沼田城に立ち寄ります。

このとき、真田昌幸は、小松姫に対して、孫の顔を見たいので沼田城に入れて欲しいと申し出たのですが、甲冑を身にまとった小松姫が現れ、敵となった以上は舅であっても城に通すことはできないとしてこれを拒否します。

真田昌幸は、この小松姫の態度を見て、さすがは本多忠勝の子であると感心したと言われています。

もっとも、小松姫は、密かに侍女を真田昌幸の下に遣わして真田昌幸らを正覚寺へと案内し、真田昌幸とその孫(真田信幸と小松姫の子)との最後の対面をさせています。

こうして、孫との最後の対面を果たした真田昌幸は、本拠地・上田城に帰りつき、徳川軍との戦の準備を進めていきます。

小山評定(1600年7月25日)

徳川家康は、慶長5年(1600年)7月24日、会津征伐に向かう途上で滞陣していた下野国・小山で石田三成挙兵の報を聞きます。

この報を聞いて、徳川家康は焦ります。

このとき徳川家康が引き連れていた諸将のほとんどが豊臣家譜代の武将であり、その妻子が大坂残されていたこともあって、これら諸将の去就が徳川家康の興亡の境目だったからです。

そこで、徳川家康は、同年7月25日、急遽本陣に諸将を招集して軍議を開き、諸将の意見を質します。

このとき、尾張国・清洲城主の福島正則、遠江国・掛川城主の山内一豊が、立て続けに徳川家康の意に従う旨述べたことから、徳川家譜代の武将が徳川家康支持で固まりました。

そして、軍議の結果、徳川家康率いる軍は、会津征伐を取りやめ、石田三成を討伐するため西上することに決まりました。

徳川家康軍が西へ

西へ向かう徳川家康軍は、徳川家康本隊・豊臣恩顧大名らを率いて一旦江戸に戻った後に東海道を、徳川秀忠率いる徳川家臣団3万8000人は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後に中山道を、それぞれ西に向かって進んでいきます。

徳川秀忠が徳川家臣団を率いたのは、後継である徳川秀忠に天下を担うに足る武功を立てさせること、若い徳川秀忠では豊臣恩顧の大名達を御せないことなどがその理由と考えられています。

第二次上田合戦

真田昌幸による時間稼ぎ

徳川家臣団を率いて中山道を進む徳川秀忠は、慶長5年(1600年)8月24日に宇都宮の陣を引き払います。

その後、中山道を西進し、同年9月1日に碓氷峠を通過して軽井沢に至り、同年9月2日に上田城の約20km東にある小諸城に入ります。

3万8000人もの大軍が上田城に迫ってきたため、真田昌幸は、5000人の兵で上田城に籠ります。

まともに戦うと真田方に勝ち目はありません。

もっとも、真田昌幸としては、徳川秀忠軍を打ち破る必要はなく、徳川秀忠軍を足止めして、徳川家康軍と石田三成軍との決戦に間に合わないようにすればよいため、ひたすら時間稼ぎに終始します。

真田昌幸は、まず同年9月3日、徳川秀忠の下に使者を送り、降伏と助命嘆願を申し出ます。

これに対して、徳川秀忠は受諾する旨を述べたため、信濃国分寺で真田昌幸と徳川方の使者との間で和平会談が行われることとなったのですが、同年9月4日の会談の際に真田昌幸が態度を豹変させて徹底抗戦すると言い出したため、怒った徳川秀忠による本格的な上田城攻めが始まることとなりました(これは、時間稼ぎであるとともに、徳川秀忠の目を上田城に向けせるための真田昌幸の策略でした。)。

時間稼ぎをして準備を整えた真田昌幸は、さらにゲリラ作戦で徳川軍に対応します。

まず、神川の水を上流で堰き止めておき、さらに近隣の山や上田城側面の林に伏兵を配置するなどして、徳川秀忠軍を削る策を講じ、次に、配下の武士だけでなく領内の百姓や町人らの士気を高めるため、敵将の首1つにつき、知行100石を与える約束をするなどして万全の準備を整えます。

前哨戦(1600年9月6日)

他方、真田昌幸に挑発されて頭に血が昇った徳川秀忠は、直ちに上田城攻めをする決断をします。

そこで、まず挟撃されるのを防ぐため、真田信幸に命じて、その弟である真田信繁の守る上田城の支城・砥石城を攻撃させます。

真田同士の戦いを避けるため、慶長5年(1600年)9月5日、真田信繁が戦わずして砥石城から撤退したため、真田信幸はそのまま砥石城を接収します。

これにより、上田城攻撃の準備が整ったと判断した徳川秀忠は、同年9月6日、上田城近くの染谷台にまで進んで陣を敷き、真田軍を挑発するために牧野康成・忠成父子に命じて上田城下の刈田(稲の刈り取り)を始めます。

上田城下で苅田を始めた徳川軍に対し、これを阻止するために、上田城から数百人が打って出て戦闘が始まります。

もっとも、これ以降の戦闘経過については、大規模な合戦が行われ秀忠軍が大敗したとする説(我が軍大いに敗れ、死傷算なし『烈祖成績』)や、小競り合いが起こったのみとする説(家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されるのみであり、大規模戦闘を裏付ける資料がない)があり、詳しいことはわかっていません。

上田城の戦い?

真偽は不明ですが、以下は、最も劇的な展開な上田城攻めがあったとする説からの第二次上田城の戦いの経過です。

刈田を防ぐべく上田城から打って出た兵でしたが、多勢に無勢であったため、すぐに徳川軍の反撃にあって上田城に撤退します。

ところが、これは徳川軍を上田城内に引き込む真田昌幸の策でした。

撤退する真田軍を追って徳川軍も上田城の大手門まで迫ったのですが、ここで上田城内に紛れた伏兵から鉄砲・弓による反撃があり、逆に徳川軍が撤退に追い込まれます。

混乱した徳川軍は、本隊と合流するために退却していったのですが、ここで真田昌幸の命により神川の上流に築いていた人口堰が切られたため、一気に流れ下った濁流によって多くの徳川本陣が飲み込まれるという大損害を喫します。

徳川秀忠が西に向かう(1600年9月8日)

徳川秀忠は、簡単に攻略できると考えていた上田城の守りが予想外に堅かったことに驚き、新たな攻城策を検討します。

ところが、慶長5年(1600年)9月8日、上田城を攻めあぐねる徳川秀忠の下に、「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」とする徳川家康からの文書が届きます。

同年9月8日に、翌日に美濃国に来るようにという文書を受け取った徳川秀忠は焦り、押さえのために兵を残して上田城を離れ、急ぎ西に向かいます。

ところが、中山道は道幅が狭く隘路であったこと豪雨による川の氾濫していたことなどから大軍の行軍には向かなかったため、徳川秀忠軍の進軍は思うように進みませんでした。

第二次上田合戦の戦略的評価

徳川秀忠が率いる3万8000人の軍は徳川軍の主力だったのですが、関ヶ原で徳川家康軍と石田三成が対峙するに至った時点では、徳川家康軍に合流することが出来ず、慶長5年(1600年)9月15日に起きた関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

第二次上田合戦は、戦術的な面(戦闘の規模)は不明ですが、徳川秀忠率いる主力軍を足止めして決戦に間に合わせなかったという大戦果を残した、真田昌幸の戦略的大勝利に終わります。

第二次上田合戦後

関ヶ原の戦い(1600年9月15日)

慶長5年(1600年)9月14日、徳川家康率いる東海道方面軍が、赤坂(現在の岐阜県大垣市)に着陣します。

他方、徳川軍の動きを聞いた石田三成も夜半に進軍し、関ヶ原に布陣して徳川軍を待ち受けます。

そして、石田三成の動きをみた徳川家康もまた関ヶ原に陣を敷いたことから、同年9月15日、関ヶ原の地で両軍が対峙することとなりました。

なお、このとき、徳川秀忠が率いる徳川譜代大名を中心とする主力軍が間に合わなかったため、徳川家康は、関ヶ原の戦いにおいて、外様大名を率いて戦わざるを得なくなります。

これは、戦いの最中に常に裏切りの危機にさらされるという極めて危険な状況でした。

もっとも、小早川秀秋らの裏切りもあって、関ヶ原の戦いは、最終的には徳川家康の勝利に終わります。

第二次上田合戦が徳川家に及ぼした影響

徳川方が勝利した関ヶ原の戦いですが、その勝利の要因は外様大名の活躍であったため、戦後の論功行賞も必然的に外様大名に手厚いものとなります。

そこで、徳川家康は、関ヶ原の戦い後、強大化した外様大名の力を常に意識し、常にこれらを監視し、これらを弱体化する施策を強いられ続けるという立場に追い込まれます。

これは、徳川秀忠率いる譜代大名に活躍させ、譜代大名を巨大化させて、その力で徳川家を守ろうとした徳川家康の意にそぐわない結果だったのです。

そのため、徳川家康は、関ヶ原の戦いの5日後である慶長5年(1600年)9月20日、ようやく大津に到着した徳川秀忠に対して強く叱責をしています(ただし、このときの叱責は、遅参を理由とするものではなく、急な行軍で軍を疲弊させたことを理由とするものでした。)。

関ヶ原の戦い後の真田家

他方、徳川主力軍を足止めしたため、関ヶ原の戦い自体や、その後の統治戦略をも難しくした真田家に対しても処分が下されます。

真田昌幸・真田信繫に対しては、厳しい処罰も検討されましたが、真田信幸の義父・本多忠勝の働きかけもあって、九度山(現在の和歌山県)に配流処分にとどめられます。

そして、当主が配流処分となった真田家は、徳川方についた真田信幸が、父から引き継いだ「幸」の名を改めて、真田信之に名を変えた後、これを引き継ぎます。

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