【第1次上田合戦】徳川の大軍を追い返した真田昌幸の軍略

長野県上田市の観光名所ともなっている上田城。

歴史ファンはもちろんですが、絶対に落ちない城とし受験生に人気です。絶対に落ちないというご利益にあやかろうと、城内にある真田神社でお守りをいただく受験生も多いとのこと。

では、なぜ上田城は絶対に落ちないと言われているのか。

その理由は、徳川軍の侵攻を跳ね返した2度の防衛戦にあります。

2度目の合戦(第2次上田合戦)は別稿に委ねることとし、本稿では1度目の合戦、すなわち第1次上田合戦について、それに至る経緯から順に説明します。

上田城築城の経緯

真田昌幸による沼田獲得

真田家は、信濃国小県郡真田郷(現在の長野県上田市真田町)を拠点とする国衆の1つでした。なお、国衆とは、その地域の領主を意味し、その力は大名には遠く及びません。現在で例えると、大名が知事又は市長、国衆が村長位のイメージです。

そんな真田家ですが、一時期に真田郷を失いますが、武田信玄率いる武田家が信濃に進出する際に武田家に臣従し、その後武田家重臣として、数々の戦に従軍して武功を挙げて小県郡を再獲得して同所での勢力を高めていきます。

なお、真田家は、生まれてくる男子皆が超優秀という、とんでもないチート一族です。

1579年(天正7年)9月、真田家当主であった真田昌幸は、武田家当主であった武田勝頼の名を受け、叔父の矢沢頼綱と共に北条領であった沼田に侵攻します。

沼田は、越後と関東を結ぶ交通の要衝であり、上杉と北条がいずれもが欲する争いが絶えない場所でしたが、武田勝頼が上杉家と甲越同盟を結んで上杉家当主上杉景勝から沼田切り取りの許可を得て、侵攻のきっかけができたためです。

真田昌幸は、調略等を駆使し、わずか半年で沼田城を無血で攻略します。これにより、真田領が、信濃国小県郡真田郷に加え、山を挟んだ上野国沼田までに広がります。

相次ぐ主家の滅亡

ところが、そんな真田家に激震が走ります。1582年(天正10年)3月に、主家である武田家が織田信長によって滅亡させられたのです。真田家は、真田領が武田家の本拠地から遠かったために織田に攻められることはありませんでしたが、遠くから主家の滅亡を目にすることになります。

武田家が滅亡したことにより、自家を守ってくれる存在がなくなったため、このままでは織田につぶされると悟った真田昌幸は、獲得したばかりの沼田を織田方に差し出し、真田家の存続と信濃国小県郡真田郷の領有権を願い、これを許されます。

そして、武田家の滅亡により、その旧領は、論功行賞によって織田信長麾下の各武将に与えられたのですが、論功行賞によって沼田は滝川一益に与えられ、また真田家は滝川一益の与力に組み入れられることになりました。

ところが、真田家に更なる激震が走ります。武田家が滅亡したわずか3か月後である1582年(天正10年)6月、今度は新たに主家となった織田家のトップ2人、織田信長と織田信忠が明智光秀に打たれたというのです。 本能寺の変です。

旧武田領は、織田家による征服直後の時期であったためにいまだ織田の支配が及んでいない場所が多く、本能寺の変を聞きつけた北条氏、甲斐信濃の国人衆、武田遺臣らが、旧武田領内で一斉に織田に反旗を翻します。

これに危険を感じた滝川一益は領地を捨てて逃亡します。同じように、旧武田領を得た織田家臣団は、一斉に逃げるか討たれるかして、領地を失っています。

天正壬午の乱

その結果、旧武田領であった甲斐・信濃・上野の一部は統治者のいない権力空白地帯となります。

この隙を狙って、勢力を伸ばそうとする上杉、北条、徳川が旧武田領に侵攻し、三つ巴の戦いが始まります。世にいう天正壬午の乱です。

これに便乗して真田昌幸も動きます。

真田家を支配するはずであった滝川一益がいなくなったのをいいことに、自らが奪取した沼田に再度侵攻し、これを再度領有したのです。

3つの超大国の狭間で

もっとも、統治者不在に付け込んで沼田をかすめ取った真田昌幸に対し、上杉、北条、徳川がいい顔をしません。3ヶ国それぞれが、自分に臣従するようにと真田に圧力をかけてきます。

真田昌幸は、3大国の力関係に悩んだ末、まずは最初に真田領に侵攻してきた上杉景勝の傘下に下ります。もっとも、その後、上野の国衆が北条家に下るのを見て、意を翻し、上杉景勝から北条氏直に乗り換えています。

北信濃の領有権をめぐって争っていた上杉と北条が和睦して決着を見ましたのですが、今度は、南信濃と甲斐の領有権をめぐって北条と徳川が対決し、このとき、徳川家康から厚遇条件を出されたので、真田昌幸は、今度は北条氏直から徳川家康に乗り換えます。

真田昌幸は、短い間に(武田→織田→)上杉→北条→徳川と主君を転々としたことになります。

それにもかかわらず、真田昌幸は、上手に立ち回って、結論的には当初の領地を失っていないのです。

真田昌幸は、「表裏比興(ひょうりひきょう)」の者として高い評価を得ることとなります。現在の言葉でひきょうと言うと悪口ですが、当時はずる賢くうまく立ち回ったことに対する賛辞です。

その後1582年(天正10年)10月、織田信雄の仲介により、北条と徳川が和睦したのですが、このとき和睦の条件として、徳川家康が、北条氏直に対して、真田昌幸に無断で、真田が領有する沼田の割譲を約束してしまいました。

真田昌幸は、この話を聞いて激怒。沼田は、徳川家康から与えられたものではなく、自身で勝ち取ったものであるため、徳川家康の命で割譲することなどできないと、これを拒否します。

これにより、徳川と真田の関係が悪化しますが、上杉との境に位置する真田を敵に回すわけにはいかない徳川家康は、真田に強く出ることはできませんでした。

このことが、後に徳川・北条・真田の間で一大問題となります(この沼田問題が、徳川とでは上田合戦に、北条とで小田原征伐に繋がっていきます。)。

上田城築城

1583年(天正11年)、表向きはいまだ徳川家の傘下にいる真田昌幸は、徳川家康に対し、上杉に対するため備えの城を築城したいと提案します。

徳川家康は、北条氏との沼田割譲の約束を果たすために真田昌幸にへそを曲げられては困ると考え、真田昌幸の提案を了承し、徳川家康が建築資金を出して上田城を築城して真田昌幸に提供します。

城がある程度出来上がり、上田城に入城した真田昌幸は、同じく信濃国小県郡の国衆で千曲川以南を領していた室賀正武(むろがまさたけ)を上田城内に呼び寄せて殺害し、小県郡の完全掌握を果たします。

その上で、真田昌幸は、1584年(天正13年)に、徳川方から再び上杉に寝返ります。

城を造らされた上で裏切られるという仕打ちを受け、完全にコケにされた徳川家康は激怒。

北条と示し合わせて、1585年(天正14年)閏8月、徳川軍上田に、北条が沼田に侵攻します。

第1次上田合戦の始まりです。

なお、上田城は、元々上杉対策のために北面の防御を重視して造られていたのですが、真田昌幸は、徳川家康との対決前にして、徳川軍が攻めてくるであろう東側に、突貫工事で堀を掘らせています。

第1次上田合戦の概要

合戦準備

上田城は徳川家康が費用を出して建てた城ですので、当然徳川方がその縄張りを完全に熟知しています(これは、普通の攻城戦ではあり得ない攻め手に有利な条件です。)。

また、上田城自体完成をみておらず、その防御力に欠陥がありました。

さらに、国衆に過ぎない真田の動員兵力は限られており、大大名である徳川軍とは兵力に圧倒的な違いがありすぎます。

そのため、徳川方は、相当お気楽な攻城戦と考えていたようです。

攻撃側武将には精鋭ではなく、言ってはなんですが二番手武将が揃えられました。

真田を舐めてますので、徳川四天王の出陣は当然ありません。

徳川家康は大大名ですので常時他方面作戦を展開しており、いちいち田舎の小領主相手の戦に最精鋭を派遣してられないからです。

総大将は鳥居元忠で、その麾下に大久保忠世、平岩親吉ら、信濃の諸将があり、兵数は8000人が集められました。

他方、対する真田軍は、上田城に真田昌幸1000人、砥石城に真田信之400人、矢沢城に矢沢頼康300人、図からは外れますが南側の丸子城に丸子三左衛門300人で、合計兵数は2000人でした。

真田方にとっては相当苦しい状況ですので、徳川軍の進軍確認後、直ちに上杉景勝に援軍の依頼をしています。その上で,真田昌幸は,籠城戦ではなく野戦を選択します。

徳川軍の進軍

徳川軍は、南側から上田城に向かって行ったのですが、丸子城・砥石城・矢沢城といった支城には目もくれず、丸子城の真横を北上して千曲川を渡って西を向き、本隊を残して、先遣隊をそのまま上田城に向かわせます。

後詰の可能性がある支城を素通りしていきなり本拠を攻めるという戦略をとっている点からも、徳川軍が、いかに真田を舐めていたかがわかります。

後世の我々は真田の戦上手を知っていますが、歴史を知らない徳川軍は真田昌幸の怖さをまだ知りませんので、この段階では田舎者をとっちめにいく位のイメージだったのだと思われます。

これに対して、真田昌幸は、200〜300の兵を迎撃に向かわせます。

そして、1585年(天正13年)閏8月2日早朝、国分寺周辺にて開戦の火ぶたが切って落とされました。

徳川軍に対して真田軍は圧倒的寡兵のため、合戦開始後すぐに真田軍は押され始めます。

開始後すぐに真田軍は徐々に押されていき、一気に上田城二の丸まで下がります。

そして、上田城二の丸がそのまま徳川軍先遣隊に制圧され、徳川軍の先遣隊がいよいよ本丸大手門に迫ります。

ところが、これが真田昌幸の戦略でした。

真田軍の反撃

徳川軍が上田城本丸大手門に迫ったまさにそのとき、本丸や北側から真田軍の鉄砲・弓が、徳川軍の先遣隊先鋒部隊に向かって一斉に発射されます。

狭い二の丸で一斉攻撃を受けた徳川軍先遣隊先鋒は大混乱に陥ります。

ところが、先遣隊先鋒が執拗な攻撃をうけているにもかかわらず、大軍である徳川軍は最前線の状況がわからず、後から後から後続がやってきます。

そのため、二の丸に入ってしまった兵は退去もままならず、なすがままに、前から順にやられていきます。

さらに悪いことに、このとき城下町に潜んでいた真田兵が、町に火を放ち、先行していた徳川軍先遣隊と徳川軍本体を分断して後詰を封じるとともに、先遣隊の退路を塞ぎますます。

その上で、砥石城をでた真田信之の部隊が、徳川軍先遣隊の横腹に奇襲をかけます。

徳川軍の退却と真田軍の追撃

奇襲を受けて大混乱に陥った徳川先遣隊の残兵は、各々散り散りになって鳥居元忠率いる本体の方向に向かって退却を開始します。

ところが、真田方は事前に神川上流をせき止めており、退却を開始した先遣隊が、神川のほとりに達した際、神川上流で待機していた真田兵がこの堰を切ります。

そのため、勢いよく流れてくる濁流が神川を渡ろうとしていた徳川軍を飲み込み、多くの溺死者を出します。

徳川軍は総崩れとなってさらに退却しますが、この機を見て、真田軍が一気に徳川軍を追い打ちをかけ、数に勝るはずの徳川軍が背後から追いに追われます。

そして、徳川軍はそのまま千曲川を南に亘り、八重原まで退いて軍の立て直しを強いられることとなりました。

この日の戦いでの死傷者は、真田軍40人に対し、徳川軍1300人とも言われており、徳川軍が一方的敗北を喫します。

徳川軍による丸子城攻めと戦線の膠着

初戦で敗北を喫した徳川軍は、真田手ごわしと考え、今更ながら支城から落としていく作戦に変更します。

そして、まずは手始めに、陣のある八重原の地の西側に位置する丸子城を攻めることとしたのですが、丸子城主丸子三左衛門の奮闘によりなかなか城が陥ちず、またそうこうしている間に上杉方の援軍が真田方に合流したために戦線が膠着、持久戦の要を呈します。

徳川軍の退却

その後、1ヶ月程睨み合いを続けていたのですが、真田の怖さを知った徳川家康が後詰によこした井伊直政率いる援軍5000が徳川方の援軍として到着し、再度戦局が動き始めます。

ところが、その矢先の1585年9月、突如徳川軍が退却を始めます。

徳川家の重臣である石川数正が出奔して豊臣秀吉に寝返ったため、徳川がたが上田城攻略どころではなくなってしまったからです。

こうして、第1次上田合戦は、真田軍の大勝利のまま終わります。

その結果、寡兵で大軍を押し返したこの戦によって真田家の武勇が全国に轟くこととなります。

その後(第2次上田合戦へ)

なお、このときから15年後、関ケ原の戦いの際、再度ここで真田と徳川との戦いが起こります。第2次上田合戦です。

もっとも、長くなりますので、第2次上田合戦は別稿で紹介したいと思います。

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