【徳川家康の西三河平定戦】国衆調略と吉良義昭討伐戦

桶狭間の戦いの前哨戦として大高城兵糧入れを成功させた徳川家康(このときは松平元康と名乗っていましたが、便宜上本稿では、徳川家康の表記で統一します。)は、大高城で桶狭間の戦いの結果を聞かされます。

その後、大高城から決死の退き口を成功させて岡崎城に戻った徳川家康は、当初は今川家の将として織田軍と戦い、しばらくした後は、今川家から独立して一国衆として三河国平定を目指して今川軍と戦っていくようになります。

そして、岡崎城に入った後、西三河平定→三河一向一揆鎮圧→東三河・奥三河平定の順で三河国平定戦を戦い、苦労を重ねた後に約5年の歳月をかけて永禄8年(1565年)にようやく三河国平定を達成しています。

本稿では、この三河国平定戦のうち、もっとも初期の一連の戦いである西三河平定戦について、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。

西三河平定戦に至る経緯

岡崎城入り(1560年5月23日)

松平広忠の嫡男として生まれながら、織田弾正忠家と今川家との軍拡競争に巻き込まれて、織田弾正忠家で2年、今川家で11年もの人質生活を強いられた徳川家康は、永禄3年(1560年)5月23日、桶狭間の戦いで今川義元が討死したどさくさに紛れて岡崎城入城を果たします。

徳川家康としても、駿府に戻って今川家の将として戦うという選択と、岡崎城に入って松平家を再興するという選択に悩んだのだろうと思いますが、最終的には織田家の脅威にさらされたとしてもお家再興の可能性がある方を選んだというのが実態です。

岡崎城入城当時の状況

かつての居城に戻った徳川家康でしたが、戻ったとはいえ13年ぶりですので勝手がわかりません。

ましてや、一門衆や周囲の国衆などとの連携も万全ではありません。

また、家臣団の統率や、金銭・年貢・武具の蓄えも十分ではない状態です。

このような状況下において、徳川家康は、今川義元の首を取って勢いに乗る織田軍との最前線で織田方と戦わなければならない立場に立たされることとなったのです。

苦しい状態の徳川家康としては、周囲の親今川勢力と協力しながら織田軍と対峙することを強いられます。

織田方の諸城を攻撃

ここで、徳川家康は、座して死を待つような日和見的態度を取りませんでした。

徳川家康は、織田方に取り込まれつつあった西三河の広瀬・梅坪・挙母・沓掛などに攻撃を仕掛け、加茂郡挙母城、梅が坪城を攻略します。

他方、織田方の水野信元(徳川家康の伯父)が治める碧海郡にも進出し十八丁畷で戦いますが敗れます。

また、徳川家康は、永禄3年(1560年)8月には、今川家の本家筋として今川方に与する西三河の吉良義昭と共に尾張国・石ケ瀬に侵攻したのですが、これにも大敗しています。

徳川家康が今川家からの独立を決意

以上のとおり、織田軍の侵攻を防ぐべく織田方と戦い続けていた徳川家康でしたが、岡崎城に入ったばかりの徳川家康に単独で織田家と戦える国力があるはずがありません。三河国の国衆達の勢力を集めても結果に違いはありません。

そのため、苦しい戦局を続ける徳川家康は、再三、駿府に使者を送って今川氏真に援軍要請を願い出ます。

ところが、永禄4年頃は越後の上杉謙信が関東平野を南進して北条氏康が守る小田原城に攻撃を仕掛けていた時期であり、北条家と同盟関係にあった今川氏真はその後詰のために東に軍を派遣していたことから西の三河国に割ける兵が存在していなかったため、今川氏真は徳川家康からの救援要請を黙殺します。

こうなると徳川家康としては苦しくなります。当然、家臣団からも不満の声が上がったものと考えられます。

徳川家康は、正確な時期は不明ですが、後詰を出さない主君に尽くす義理はないと考えて今川氏真を見かぎり、三河国で独り立ちする決意を固めてその準備に取り掛かります。

東三河国衆の調略(1561年上半期ころ)

徳川家康は、独立のための準備として、まずは三河国内の反今川の意向を持つ勢力に調略を仕掛けます。

このとき、最初に徳川家康の調略に従ったのは、今川家支配に不満を募らせていた東三河の国衆達であり、具体的には、菅沼定盈・西郷正勝・設楽貞通の3家でした。

なお、余談ですが、江戸幕府第2代将軍である徳川秀忠の母は、このとき調略に応じた西郷家の出である於愛の方(西郷局・徳川家康側室)です。

西三河平定戦

牛久保城攻撃(1561年4月11日)

東三河の有力国衆であった設楽氏・菅沼氏・西郷氏の協力を取り付けた徳川家康は、一気にそのまま東三河における今川方の重要拠点である牛久保城攻略を図ります。

このときの牛久保城には、今川方の宿老である稲垣重宗及び真木定安が入っていたのですが(城主である牧野成定は蟄居中)、稲垣重宗が自領の牛久保領賀茂(豊橋市賀茂町)に帰っていたこと、牛久保衆の主力が西尾城・野田城に配転されていたことから牛久保城の守りが手薄な状態となっていました。

そこで、徳川家康は、牛久保衆の稲垣林四郎・牧野弥次右兵衛尉・牧野平左衛門尉父子などの有力家臣を調略した上で、永禄4年(1561年)4月11日夜、牛久保城へ奇襲攻撃をしかけます(牛久保城の戦い)。

もっとも、牛久保城に残っていた真木定安らは必死に奮戦したこと、賀茂から稲垣重宗が戻ってきたことなどから、徳川家康による牛久保城奇襲は失敗に終わります。

そして、この牛久保城攻撃により、徳川家康の離反が今川氏真に知られることとなりました。

徳川家康が今川氏真に対して明確な離反意思を示したのがいつであるかについては正確にはわかりませんが、今川方としては永禄4年(1561年)4月12日と考えていたようです。

なぜなら、今川氏真が鈴木重時と近藤康用に宛てた手紙(永禄10年8月5日付)に「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」と記しているからです。

この「去酉年」は「永禄4年」のことであり、永禄4年4月12日とは、徳川家康が今川方の東三河の最重要拠点であった牛久保城を攻撃した日にあたります。

すなわち、今川方の拠点を攻撃した日=徳川家康が離反した日と考え、今川家では、永禄4年(1561)4月12日に徳川家康が今川家から離反したと考えていました。

なお、徳川家康にとっては、今川家からの離反は、駿府に残してきた築山殿・竹千代(後の松平信康)・亀姫が処断される可能性がある苦しい決断でしたが、築山殿が今川一門衆の娘であったこともあり、命までは奪われないと考えた一種の賭けでもあった決断でした。

田峯菅沼家を調略(1561年4月15日)

その後、徳川家康の調略により、永禄4年(1561年)4月15日、奥三河・田峯菅沼家の菅沼定忠が所領安堵を約束されて徳川家に従属します。

この結果、三河国では、東三河の菅沼定盈・西郷正勝・元正・設楽貞通、奥三河の菅沼定忠らが徳川家康に与し、他方西三河の吉良義昭、東三河の鵜殿長照、奥三河の奥平定能、遠江国の井伊谷三人衆などが今川方に与することとなり、三河国を二分する戦いに発展していくこととなりました。

西三河・吉良家制圧(1561年9月)

以上の状況下において、徳川家康は、三河国内の今川方勢力の駆逐を目指して三河国内各地に侵攻を開始します。

このとき、西三河での最大の対抗勢力となったのが西尾城を治める吉良義昭でした。

吉良義昭が、対徳川家康のために西尾城を出て東条城に入ったことから、永禄4年(1561年)2月頃から東条城に取りついて攻撃を開始した徳川軍でしたが、東条城は容易に陥落せず、一旦は徳川軍が攻略した東条領中島城までも同年4月の善明堤の戦いで吉良方に奪回されるなどしており戦局は思うようにいきませんでした。

そこで、徳川家康は、東条城の力攻めをあきらめ、津平(吉良町大字津平)・小牧(吉良町大字小牧)・糟塚(西尾市平原町城山)に陣城としての砦を配置し、これによる東条城包囲網を構築します。

その後、同年9月13日、徳川・吉良両軍が藤浪畷で激突し、敗れた吉良義昭が徳川家康に降伏して東条城が徳川方に落ちたことにより、徳川家康が西三河の大部分を手にします。

織田信長と和睦(1561年9月)

前記のとおり、今川家に対しての敵対意思を明確にした徳川家康でしたが、この結果、織田家のみならず今川家までもが敵対関係に立つようになりました。

もっとも、当然の話ですが、西三河の一国衆にすぎない徳川家康に、北西(織田家)と東(今川家)とを同時に相手にするほどの国力はありません。

そこで、徳川家康としても、このときまでに美濃国斎藤家との戦いに手こずっていた織田信長からの和睦提案を受け入れ永禄4年(1561年)9月、双方誓紙を取り替わしの上で織田信長・徳川家康の和睦が整います(三河後風土記)。

こうして、旧敵であった織田家・松平家(徳川家)間に和睦が成立したことにより、織田信長は北(斎藤家)に、徳川家康は東(今川家)への侵攻に専念できるようになり、一気に楽になります。

徳川家康の妻子が岡崎へ(1562年2月)

今川家の目を誤魔化しながら三河国の統一戦を進める徳川家康でしたが、徳川家康が徐々に勢力を伸ばして行くのに比例して、今川家の勢いが低下していきます。

その結果、三河国内では、さらに今川方を離れて徳川方に転向する勢力が出始めます。

勢いにのる徳川家康は、永禄5年(1562年)2月4日に東三河国・上ノ郷城を攻略して城主・鵜殿長照らを殺害し、その子である鵜殿氏長・鵜殿氏次兄弟を捕縛します。

鵜殿一族が今川家の一門衆であったため鵜殿氏長・鵜殿氏次を捨て置かないと判断した徳川家康は、今川氏真に対し、鵜殿兄弟と築山殿らとの人質交換を持ちかけます。

そして、今川氏真が、この人質交換に応じたため、築山殿・竹千代・亀姫が徳川家康のいる岡崎に移ることが許されたのです。

清洲同盟締結(1562年1月?3月?)

妻子を奪還してしまえば徳川家康を縛るものはありません。

この頃から、徳川方(松平家)は石川数正を、織田方は水野信元をそれぞれ交渉役として同盟交渉を進めます。

そして、織田・徳川両家の調整の結果、永禄5年(1562年)正月15日、徳川家康が織田信長の居城であった清洲城を訪問して、織田信長・徳川家康の会見がなされ、その席上にて軍事同盟が締結されます。なお、この同盟が清州城で締結されたことから清洲同盟と呼ばれるのが通説ですが、他方で、信用性の高いとされている「信長公記」・「三河物語」・「松平記」などの資料には清洲会議の記録が存在していないことから、清洲会見の存否については否定的見解も有力です。

織田信長は北に、徳川家康は東に向かうための軍事同盟です(また、もう1人の織田信長との同盟者である水野信元は南に向かうため。)。

これにより、徳川家康が、正式に今川家からの独立を果たしたこととなります。

西三河平定後の混乱

以上の経過を経て西三河を概ね支配下に置いた徳川家康でしたが、ここでさらに東三河・奥三河に侵攻するために西三河での勢力を高めようとして、西三河における浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことから、西三河一帯で徳川家康に反発して大規模な一向一揆が勃発します(三河一向一揆)。

この結果、苦労の末切り取った西三河において、大規模な内乱となってしまいます(基本的な対立関係は、概ね上図のとおりです。)。

この三河一向一揆は、徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いであり、三方ヶ原の戦い神君伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています

もっとも、三河一向一揆まで紹介するとあまりに長くなってしましますので、その紹介は別稿に委ねたいと思います。

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