【第一次高天神城の戦い】武田勝頼と徳川家康との間の遠州争奪戦の初戦

第一次高天神城の戦い(だいいちじたかてんじんじょうのたたかい)は、天正2年(1574年)に、武田勝頼率いる武田軍が、徳川方の最東端拠点であった遠江国・高天神城を攻略した戦いです。

元亀3年(1572年)10月に始まった武田信玄の西上作戦によって領内が蹂躙された徳川家と、その後に武田信玄が死去したことにより家督相続での家内統制に苦慮した武田家との間で繰り広げられた一進一退の攻防戦の1つです。

戦術的に見ると、武田勝頼が大軍を動員して高天神城を攻撃したのに対し、後詰を出せなかった徳川家康・織田信長の威信を大きく下げるという結果をもたらしました。

他方で、戦略的に見ると、遠江国内に拠点を得てしまったがために、この後、高天神城を防衛するために相当の戦力を費やす必要が生じたため、武田家を大きく疲弊させる結果をもたらしています。

本稿は、このように後の武田・徳川・織田の勢力関係に大きな影響をもたらした戦いとなった第一次高天神城の戦いについて、そこに至る経緯から順に見ていきたいと思います。

第一次高天神城の戦いに至る経緯

高天神城が徳川家康に下る

高天神城の戦いの舞台となった高天神城は、元々は遠江国を支配した今川家の支城だったのですが、永禄11年(1568年)に徳川家康が遠江国に進出してくると、高天神城主であった小笠原氏興が徳川家康に下る決断をしたため、以降徳川方の対武田最前線拠点となりました。

その後、小笠原氏興が死去し、その子である小笠原信興が後を継いだのですが父同様に徳川家康に与したため、高天神城は、掛川城と共に遠江国支配の重要拠点として機能していました。

武田信玄の西上作戦

永禄11年(1568年)3月に今川氏真の祖母・寿桂尼が死亡すると、武田信玄が駿河国への野望を顕在化させていき、今川家臣の調略や三河国を治める徳川家康へ接近していきます。

そして、武田信玄は、徳川家康との間で、大井川を境にして東部を武田信玄が、西部を徳川家康がそれぞれ攻め取るという内容の今川領分割の密約を締結し、この密約に従って、三河国から徳川家康が遠江国へ、甲斐国から武田信玄が駿河国へ侵攻を開始します。

ところが、永禄11年(1568年)12月、武田信玄が徳川家康との密約を反故にして大井川を超え、徳川家康が切り取るはずであった西側(遠江国)への侵攻を開始し、このとき小山城が建っていた場所に建っていた山崎の砦(築年不明)を武田信玄が攻め取ってしまいます。

これに怒った徳川家康と武田信玄との関係が険悪になります。

その後、武田信玄と徳川家康との間で遠江国を巡るいさかいが続いたのですが、元亀3年(1572年)10月、織田信長・徳川家康と対決するために自ら軍を率いて遠江国・三河国方面に向かって出陣するという本格的な作戦行動が始まります(武田信玄による西上作戦)。

このとき、武田信玄は、伊那盆地から西に向かい東美濃に入るルート、伊那盆地から西に進んだ後に南下して北側から三河国に入るルート、伊那盆地から南下して北側から遠江国に入るルートの3つのルートからの同時侵攻作戦を展開します。

破竹の勢いで侵攻して来る武田軍は、浜松城の北側に位置する信濃国伊那郡からの出入口でもあった二俣城を陥落させ、遠江東部の掛川城や高天神城に手を出すことなく徳川家の本拠地である浜松城に迫ります(なお、このとき武田軍が小山城から西進し、高天神城を陥落させた上で浜松城に迫ったとする異説もありますが、本稿では通説を採用します。)。

その後の三方ヶ原の戦いで大敗し、存亡の危機に立たされた徳川家でしたが、その後に武田信玄が病に倒れたことにより武田軍が本拠地甲斐国への撤退を開始したため、徳川家は当面の危機を脱します(なお、武田信玄は、甲斐国にたどり着くことなく、元亀4年【1573年】4月12日に信濃国伊那郡駒場にて死去したため、その四男であった武田勝頼が武田家の家督を相続します。)。

この結果、高天神城もまた徳川方の城としてその機能が維持されます。

徳川家の失地回復政策(1573年5月~)

武田軍の撤退後、武田信玄の西上作戦によって領内を蹂躙された徳川家康は、急いで領内の安定化と軍備の再整備を進めた上で、奪われた旧領の奪還のために動き始めます。

特に、武田領との最前線となる自領の城の防衛網を強化すると共に、元亀4年(1573年)5月には駿河国に、同年7月には奥三河への侵攻を行った上で、武田方になびいた各勢力に調略を仕掛けていきます。

同年7月に奥三河に入った徳川軍は、武田方の城となっていた長篠城への攻撃を行い(三河物語)、対する武田軍も長篠城に後詰を送って徳川軍と対峙します。

ところが、ここで武田勝頼が失態を犯します。

長篠城攻防戦の最中の同年6月、奥三河の有力国衆であった「山家三方衆」のうちの作手の奥平家と田峰の菅沼家との間で東三河の牛久保領をめぐる諍いが起こったために奥平定能が甲府に使者を遣わして武田勝頼にこの問題を訴えたのですが、武田勝頼が山家三方衆で相談して配分すると述べた上、奥平定能に譲歩まで求めたのです。

当然ですが、武田勝頼の回答に納得できない奥平定能としては、武田勝頼に対する大きな不満が募ります。

徳川家康は、このチャンスを逃さず、奥平定能に対して、①亀姫(徳川家康の長女)と奥平信昌(奥平定能の嫡男)との婚約、②領地加増、③奥平定能の娘を本多重純に入嫁させるという条件を提示して、同年9月、奥平家の調略を成功させ、奥三河の勢力回復を果たしたのです。

他方、徳川家康は、同年6月に、武田信玄の西上作戦によって奪われた二俣城にも軍を派遣したのですが、攻略できずに撤退しています。

なお、このころ畿内方面の織田信長もまた反転攻勢を強め、同年7月には足利義昭を畿内から追放して室町幕府を滅亡させ、同年8月には越前国の朝倉義景、北近江の浅井長政を相次いで滅ぼし、戦局を有利に進めていきました。

武田勝頼による徳川領侵攻準備

他方、武田家の家督を継いだ武田勝頼も、これらの徳川・織田の作戦行動を座視していたわけではありませんでした。

武田勝頼もまた、父・武田信玄がやり残した徳川領(遠江国)への侵攻を成功させるための準備を行っていました。

まず、天正元年(1573年)、築城の名手であった馬場信春に命じて、駿遠国境に位置し、武田領から徳川領への主要進軍ルートとなる牧之原台地上に諏訪原城を築き、遠江国への兵站を確保します。

また、武田勝頼は、織田信長が第二次長島侵攻に失敗して天正元年(1573年)10月25日に岐阜への撤退を余儀なくされたことを見て、天正2年(1574年)1月27日に東美濃へ侵攻し、同年2月6日に明知城を攻略しています。

これに対し、同年4月には、犬居城奪還を目指して同城を囲んだ徳川家康でしたが、城主の天野景貫の奇襲を受けて浜松に退却しています(犬居城の戦い・三河物語)。

以上の結果、武田方と、徳川・織田方とが一進一退のせめぎ合いを続ける中(天正2年/1574年には、人質交換によって徳川方に戻った菅沼定盈によって野田城が奪還されるなどしています。)、武田勝頼が徳川方の遠江国東部の最前線拠点となっていた高天神城攻略を目指して勃発したのが、第一次高天神城の戦いです。

第一次高天神城の戦い

武田勝頼出陣(1574年5月)

天正2年(1574年)4月3日、石山本願寺が対織田信長の兵を挙げたため、織田信長が畿内戦線への対応に忙殺されることとなります。

この結果、織田方から徳川方への援軍が出ることはないと判断した武田勝頼は、石山本願寺挙兵に呼応して動きはじめます。

武田勝頼は、すぐさま領内から2万5000人もの兵を動員し、天正2年(1574年)5月、諏訪原城を経由して、徳川方の遠州東部における最前線拠点である高天神城に向かいます。

徳川家康による後詰見送り

このとき高天神城を守っていたのは、城将である小笠原長忠率いる僅か1000人の兵でした。

天神城主であった小笠原長忠は、僅か1000人の兵で2万5000人の攻撃を防げるはずはないと考え、直ちに浜松の徳川家康に対して後詰を求める使者を出します。

ところが、このときの徳川家の国力では領内から総動員しても1万人程度しか集められない上、武田信玄の西上作戦のときのように武田軍別働隊が岡崎・奥三河・浜松に侵攻してくる可能性があったため、徳川領から高天神城に兵を回すのは困難な状況でした。

困った徳川家康は、徳川領からの後詰を諦め、織田信長に後詰を求めます。

織田信長による形だけの後詰

天正2年(1574年)6月5日、岐阜に戻っていた織田信長の下に、徳川家康からの高天神城への後詰要請の使者が訪れます。

もっとも、このときの織田軍は、散々に煮え湯を飲まされた長島一向宗門徒を殲滅するため第三次長島侵攻の準備をしていた時期でした。

そのため、織田信長としても、長島決戦前の大事な時期に、わざわざ遠江国東端まで遠征して損耗するわけにはいかない状況でした。

かといって、ここで徳川家康からの後詰要請を無視すれば、徳川家が織田家との同盟関係を破棄して武田方に付いてしまう可能性があったために徳川家康からの後詰要請を無視するわけにもいきません。

織田信長としても、難しい判断を迫られます。

織田信長は、やむなく同年6月14日に後詰の軍を編成して岐阜を出陣し、高天神城のある東に向かって進軍を開始します。

もっとも、武田軍との戦いを避けたい織田軍の進軍は遅く、同年6月17日になってようやく東三河の吉田城に到着したような状況でした。

高天神城開城

その頃、必死の抵抗を続けていた高天神城でしたが、武田軍による猛攻撃によって本間氏清・丸尾義清・高梨秀政らが討死し、主郭を除く全ての曲輪が陥落します。

また、城内の兵糧・武具が底をつきかけたこともあって落城の危機を迎えていました。

そこで、高天神城内では軍議が開かれ、城を枕にして玉砕するか、後詰を出さない徳川家康を見限って武田方に下って開城するかの議論が繰り広げられます。

このとき、国衆の小笠原氏助(信興)が武田に下ることを主張し、徹底抗戦を主張した城将・小笠原長忠を追放して城兵の命と引き換えに高天神城を差し出す旨の使者を武田勝頼に送ります(なお、小笠原氏助・小笠原長忠とされる人物は小笠原信興という同一人物という説もあり【信長公記】、当事者については必ずしも定かではありません。)。

この和睦の使者に対し、武田勝頼が降将・城兵の助命を約束したため、高天神城が武田方の手に落ちます。

第一次高天神城の戦いの後

織田援軍の撤退(1574年6月19日)

高天神城陥落の報は、直ちに織田信長や徳川家康の下に送られます。

天正2年(1574年)6月19日、織田信長の下に使者が到着します。

今切の渡しを渡ろうとしていた際に高天神城陥落を知った織田信長は、すぐさま来た道を引き返して再び東三河・吉田城に入ります。

このとき、同じく高天神城陥落を知った徳川家康は、後詰進軍の儀礼的な礼を言うために浜松城を出て、吉田城に入った織田信長の下に赴きます。

徳川家康から礼を言われた織田信長は、高天神城の後詰に間に合わなかったことを心苦しく思い、徳川家康に対して2人がかりでようやく持ち上げることができるほどの大量の黄金を兵糧代(慰謝料)として贈った後、吉田城を後にして同年6月21日に岐阜に帰還しています。

高天神城将兵の処遇

高天神城を接収した武田勝頼は、開城の際の約定のとおり、寛大な措置をします。

将兵については誰一人処分せず、その上で身柄を拘束することもなく、それぞれに武田に下るか徳川に戻るかの選択権を与えます。

このとき、降伏を主張した小笠原信興をはじめとして、渡辺信重・伊達与兵衛宗春・伏木久内・中山是非助・吉原又兵衛・林平六・松下範久らは武田に下るという選択をします(多くの将が武田に下っていることから、高天神城を見捨てた徳川家康が将兵に見限られたことがわかります。)。

他方、大須賀康高・渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣・門奈俊武らは徳川に戻るという選択をしたため、武田勝頼は、これらの将が徳川家康の下に戻ることを許します。

なお、高天神城開城に強く反対した軍目付であった大河内源三郎(大河内政局)は、武田勝頼の方針に抗い、開城と同時に高天神城内の石牢に幽閉されました。

この後、大河内源三郎は、天正9年(1581年)に徳川家により高天神城が奪還されるまでの約9年間もの長きに亘って幽閉されており、大河内源三郎が幽閉されたとされる石牢は現在も残されていますので、興味がある方は是非。

父・武田信玄が落とせなかった高天神城を攻略したこと、攻略後に城兵に寛大な処置をしたことなどから、武田勝頼は大いに名声を高めます。

他方、高天神城を見殺しにした徳川家康(及び織田信長)は、遠江国衆の信頼を失います。

高天神陥落後の戦局

高天神城を獲得した武田勝頼は、同城を遠江国侵攻の橋頭堡するため、大改修を施します(武田勝頼は、鶴翁山の尾根伝いに曲輪を設け、東峰と西峰に分かれてそれぞれが独自の防衛拠点となるような構造に仕上げます(一城別郭))。

また、高天神城には、今川旧臣であり、徳川家康をよく知る猛将・岡部元信を入れ、これに横田尹松・栗田寛久などを付けて備えさせます。

他方、高天神城を失った徳川家は、遠江国の最前線拠点を馬伏塚城に下げ、同城に高天神城から帰還した大須賀康高を入れ、これに渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らの高天神城からの帰還組を与力として付けて備えさせます。

もっとも、長篠設楽原決戦に敗れて戦力を落とした武田軍の隙をつき、徳川軍が天正3年(1575年)6月に諏訪原城を陥落させると遠江における勢力関係が一変します。

徳川領内で孤立した高天神城への兵站を繋ぐため、武田勝頼は、天正4年(1576年)に高天神城と小山城の中間に位置する遠江国榛原郡(現在の静岡県牧之原市)に相良古城を築城したため、これにより武田軍は大きく疲弊していくことなるのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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