【第二次上月城の戦い】尼子家再興の夢が潰えた戦い

第二次上月城の戦いは、織田軍の中国方面司令官として西播磨に入った羽柴秀吉が、織田方に従わなかった東播磨・上月城を攻略したところ、毛利軍がこれを奪還するために天正6年(1578年)4月18日から約2カ月半に亘って行われた攻城戦です。

調略と軍事力を駆使して一旦は播磨国全域を支配下に治めることに成功した羽柴秀吉でしたが、西播磨・三木城の別所長治の裏切りが起こったことにより孤立し、泣く泣く上月城を見捨てる決断を下したことから毛利軍勝利に終わった戦いです。

羽柴秀吉による中国戦線での大敗北でもあるのですが、かつての中国地方の雄・尼子家が再興を図って失敗し滅亡した戦いとしても有名です。

本稿では、この第二次上月城の戦いについて、その発生に至る経緯から順に説明していきます。

第二次上月城の戦いに至る経緯

羽柴秀吉の播磨国入り(1577年10月)

全国統一戦を進めていた織田家中において、羽柴秀吉が、中国方面を任されて播磨国に入ります。

羽柴秀吉が播磨国入りした天正五年(1577年)10月の時点での毛利家の東側の勢力範囲は美作国・備前国までであり、他方織田家の西側の勢力範囲は摂津国まででしたので、播磨国が両家の緩衝地帯となっていました。

羽柴秀吉による播磨国制圧戦開始

播磨国を制圧するために東側から同国に入った羽柴秀吉は、天正5年(1577年)10月23日、まずはこの時点で織田家に与する播磨国国衆たちから人質を取り、その支配下に組み入れます。

他方、播磨国内では、羽柴秀吉が播磨国に入った際に人質を差し出して羽柴秀吉に下った国衆がいた一方で、人質の差し出しを拒否して羽柴秀吉と敵対する道を選んだ国衆も多くいました。

そこで、羽柴秀吉は、自ら(織田方)になびかない勢力に対しては強硬策をとり、力攻めで屈服させていくこととしました。

中国方面侵攻を任された羽柴軍では、羽柴秀吉自身が山陽方面を、弟・羽柴秀長が山陰方面を担当することとなったため、羽柴秀吉が山陽方面に位置する上月城を攻撃する流れとなりました。

第一次上月城の戦い

北上する羽柴秀長隊を見送った後、羽柴秀吉は、天正5年(1577年)11月、兵を率いて姫路城を出陣し、自らは西に向かって進んで行きます。

このときの主目標は、備前・美作・播磨三ケ国の境(備作撫之堺目)にある上月城(現在の兵庫県佐用郡佐用町)でした。

上月城は、対毛利戦線の最前線に位置するだけでなく、交通の要衝に位置する極めて重要な城でした。

西播磨における赤松七条家の居城となっていたところ、城将の赤松政範が、羽柴秀吉の調略を拒否し、毛利方の宇喜多直家から援軍を借り受けて羽柴秀吉と戦うことを選択したため、羽柴秀吉の攻撃対象となったのです。

羽柴秀吉隊が佐用郡へ侵入した時点で、佐用郡内で羽柴方に抵抗する城は上月城・福原城・利神城の3城であったため、羽柴秀吉は、同年11月27日、竹中半兵衛と黒田官兵衛に福原城を攻撃させて攻め落とし、翌同年11月28日に上月城に取り付きます。

上月城に取り付いた羽柴秀吉は、上月城の東側にある高倉山に本陣を置いた上で、上月城の周囲に三重の柵を巡らせることにより、上月城を外部から遮断してしまいます。

兵站の道が絶たれ、毛利方からの援軍も間に合わないと判断した上月城側は、羽柴秀吉に対して降伏の申し入れをしたのですが、羽柴秀吉はこれを拒否します。

そして、羽柴秀吉は、上月城に対する総攻撃を開始し、天正5年(1577年)12月3日、江原親次の謀反もあって上月城が陥落寸前となります。

後がなくなった上月城では、城将の首をとって羽柴秀吉に差し出し、城兵の助命嘆願を行いました。

この嘆願に対し、羽柴秀吉は、受け取った城将の首を安土城にいた織田信長の下へ送り届けて指示を仰いだのですが、織田信長は、城兵の助命は認めず皆殺しにするよう回答します(信長公記)。

織田信長としては、今後の戦局を有利に進めるために、織田方に抵抗した場合にはどのような目に遭うのかを周知させる必要があると考えたからです。

皆殺しの命を受けた羽柴秀吉は、上月城に籠った城兵を皆殺しにする形で上月城を攻め落とし、第一次上月城の戦いが終わります。

そして、この後に更なる凄惨な殺戮劇が行われます。

羽柴秀吉は、毛利方になびく者を減らす目的で、城に入っていた200人以上と言われる女子供までも虐殺し、女性は磔・子供は串刺しにして、城兵の首と共に国境地帯に並べ置いたのです(下村文書)。

尼子勝久に上月城を預ける

上月城を獲得した羽柴秀吉は、尼子家復興を目指す尼子勝久を上月城代に任じ、その家臣である山中幸盛ら尼子党に城の守りを任せて自らは姫路城へ引き上げました。

尼子勝久・山中鹿之助らを上月城に入れた理由は、同人らは、尼子家を滅亡させた毛利家に強い恨みを持っているため毛利方に裏切る可能性の低く、また出雲の雄であった尼子家の名で周囲の国衆の調略が期待でき、さらには新参者であるため討ち取られても大勢に影響しないことなどメリットが多く最前線の城を任せるのに最適の人選だったからです。

そして、この後、上月城が織田軍の対毛利最前線拠点として機能することとなりました(なお、この後一時的に宇喜多家の反攻によって毛利方に奪還されたのですが、すぐに織田方に取り戻されています)。

加古川評定(1578年2月)

上月城を攻略して勢力圏が播磨国西端に到達したことにより名目上は播磨国全域を制圧することに成功したはずの羽柴秀吉ですが、実際には播磨国国衆達の懐柔に手を焼きます。

そこで、羽柴秀吉は、毛利方の最前線となる宇喜多領の備前国侵攻準備のため、天正6年(1578年)2月に加古川城で傘下に下った播磨国の国衆達と評定を行うこととしたのですが、ここで事件が起こります。

播磨国三木城主・別所長治の代理として、その叔父の別所吉親が評定に出席していたのですが、この評定の場で羽柴秀吉と別所吉親が口論となり、怒った別所吉親が途中で帰ってしまったのです。

羽柴秀吉としては、播磨国の統治が進んでいないことを思い知ることとなったのですが、さらに備前国侵攻に東播磨勢の加勢が得られない結果となり、手痛い失敗となります。

しかも、これが更なる事態を引き起こします。

別所長治離反(1578年2月)

天正6年(1578年)2月、東播磨の三木城主・別所長治が離反して毛利氏側についたのです。

このとき別所長治が離反した理由としては、前記加古川評定の争いだけでなく、毛利の庇護下にいた足利義昭から織田信長討伐の御内書が届いていたこと、姻戚関係にあった丹波の波多野氏が織田氏から離反したこと、赤松氏の一族という別所氏の名門意識から百姓上がりの羽柴秀吉の命令に反目したこと、第一次上月城時の虐殺への義憤などがあったなどと言われていますが、詳しいことはわかりません。

いずれにせよ、別所長治が織田方から離反したことにより、その影響下にあった東播磨の諸勢力もまたこれに同調し、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や東播磨の宇野氏などがこれを支援したため、播磨国の情勢が一変して反織田に染まります。

その結果、姫路城の羽柴秀吉と上月城の尼子勝久が、西に宇喜多、東に別所、南の瀬戸内に毛利水軍という三方を囲まれることとなり、最前線にて孤立してしまうことになりました。

もっとも、反織田の意思を表明した別所長治でしたが、単独で羽柴秀吉軍と一戦交える戦力はありません。

そこで、別所長治は、居城の三木城とその支城群に籠城し、毛利家からの援軍を待って羽柴秀吉を挟撃する作戦をとります。

そのため、別所長治は、三木城に東播磨一帯から、同調する国人衆、織田方に対抗する一向宗門徒など約7500人を籠らせます。

そして、籠城兵のための食糧や武器などの兵站は、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏を通じた海上輸送に委ねられました(海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げし、加古川や陸路を通って三木城などに運び込まれました。)。

他方、羽柴方は、西国街道を失ったことによる補給線の遮断が問題となりました。

この結果、羽柴軍としては、毛利領侵攻どころの話ではなくなり、上月城の戦略的価値もまた大きく低下することとなったのです。

三木城包囲準備(1578年3月29日)

羽柴秀吉としては、まず三木城攻略に取り掛かる必要が生じたのですが、三木城は東播磨の重要拠点の堅城であり、ここを力攻めすれば損害が大きくなり過ぎます。

この先に待ち受けている毛利本軍との決戦を考えると、いたずらに兵を失う力攻めは得策ではありません。

そこで、羽柴秀吉は、三木城に心理的圧力をかけて下らせることを目標と定め、三木城の包囲した上で三木城の支城群攻略作戦を展開します(三木合戦)。

そして、羽柴秀吉は、天正6年(1578年)3月29日に三木城の包囲を開始した上、周辺の支城を攻略していきました。

他方、以上のように、羽柴軍の主力が東播磨に移ったことで、西播磨の守りが手薄となります。

第二次上月城の戦い

毛利軍出陣(1578年4月)

このタイミングで、宇喜多直家が、毛利家に対して上月城の奪還のための派兵を求めたことから西播磨の動きがあわただしくなります。

宇喜多直家の要請を受けた毛利家は、家を挙げて上月城奪還を進めることします。

天正6年(1578年)4月、総大将の毛利輝元を総大将とする上月城攻撃軍が吉田郡山城を出陣し、これに呼応して山陽方面から小早川隆景軍が、山陰方面から吉川元春軍が、さらには海上から村上水軍がそれぞれ出陣して上月城に向かっていきました。

なお、宇喜多家からは宇喜多忠家が出陣し、上月城に向かう毛利軍は計3万人にのぼりました。

毛利軍による上月城包囲(1578年4月18日)

三木城攻略のためにその支城である野口城を陥落させるなどしていた羽柴秀吉でしたが、毛利家動くの報を聞き、三木城包囲に兵を残し、自らは荒木村重と共に1万人の兵を率いて上月城の後詰に向かいました。

また、羽柴秀吉は、これに加えて、織田信長に援軍要請を行います。

上月城に向かった毛利軍は、総大将である毛利輝元が備中高松城に入って本陣とし、吉川元春・小早川隆景ら主力が上月城へ進軍することにより天正6年(1578年)4月18日、3万人での上月城包囲が完了します。

他方、上月城に籠るのは、総大将・尼子勝久と、山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通ら諸将率いる2300〜3000人の兵であり、城側からすると絶望的な戦局でした。

上月城包囲戦

この後、上月城の後詰に駆け付けた羽柴秀吉軍(1万人)でしたが、毛利軍(3万人)が余りに大軍であったことからこれと一戦交える余裕はなく、高倉山に上って戦局をうかがうこととなりました。

他方、圧倒的大軍で包囲する毛利軍でしたが、先の織田軍との戦いを見据えて損害を減らすために積極的に攻撃に出ようとはせず、上月城の周囲に陣城を構築した上で、そこを空堀・塀や柵・逆茂木で防衛するだけで城兵の戦意を喪失を待ち続けました。

見捨てられる上月城

苦しくなった中国戦線に織田本家から織田信忠を総大将とする滝川一益・佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀細川藤孝ら諸将が派遣されて来たのですが、これらの各将の目的は東播磨の三木城攻めのための支城(神吉城・志方城・高砂城など)攻略とされたため、兵が西播磨まで軍がまわされることはありませんでした(しかも、織田信忠らはこれらの支城陥落後に畿内に引き上げています。)

西播磨に援軍が回されてこない状況だったため、羽柴秀吉としては、上月城を囲む毛利軍に手を出すことさえできませんでした。

そこで、羽柴秀吉は、天正6年(1578年)6月16日、自ら京に上って織田信長に謁見し、なんとか西播磨へも兵を回してもらえないかと願い出ます。

これに対し、織田信長は、東播磨(上月城)よりも西播磨(三木城)への対応を優先すると述べ、上月城への援軍派遣を認めませんでした。

そればかりか、織田信長は、上月城近くに布陣する羽柴秀吉軍の撤退を命じました。

これは、上月城を見捨てろとの命令です。

織田信長の命令には逆らえない羽柴秀吉は、高倉山に戻って陣を引き払う決断をします。

織田本体から援軍が来ないばかりか、羽柴軍まで引き上げてしまうと、上月城維持は絶望的です。

そこで、羽柴秀吉は、上月城に使者を送り、尼子勝久らに城を放棄して脱出するよう促します。

もっとも、尼子家再興のためにようやく城を手に入れた尼子勝久らに城を捨てるという選択はできませんでした。

そこで、尼子家一同は、羽柴秀吉からの脱出指示を見送り、毛利方との徹底抗戦を選択してしまいます。

羽柴軍撤退(1578年6月25日)

尼子勝久らが城と共に討死する決断をしたことを見届けた羽柴秀吉は、ついに上月城を見捨て、羽柴軍を西播磨に戻す決断を下します。

天正6年(1578年)6月25日、羽柴軍が、高倉山の陣を引き払って撤退を開始します(目的地は書写山圓教寺)。

ところが、羽柴軍撤退の動きを見た毛利軍は、これをチャンスと見て、羽柴軍を猛追します。

そして、追いかける毛利軍が、熊見川(現在の佐用川)で逃げる羽柴軍に追いつき、そこで羽柴軍を散々に打ち負かしました(熊見川の戦い)。

上月城陥落(1578年7月1日)

羽柴軍の撤退により後詰の全てを失った上月城の敗戦が決定します。

そこで、天正6年(1578年)7月1日、城方から、城兵の助命を条件する降伏・開城申し入れがなされ、上月城が陥落します。

その後、同年7月3日、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久・尼子豊若丸(尼子勝久の嫡男)らが自刃し、中国地方の雄・尼子家が完全に滅亡しました。

また、尼子再興軍に尽力した山中幸盛も捕虜となって毛利本国に送られることとなったのですが、その道中の備中国成羽で毛利家の手の者に殺害されています。

第二次上月城の戦い後

荒木村重離反

上月城を見捨ててまで西播磨(三木城)への対応に注力をしたのですが、ここでまたもや一大事件が起こります。

摂津国を治める有岡城主・荒木村重が織田信長に反旗を翻したのです(また、続けて東播磨の小寺政職もこれに続きます。)。

これにより、羽柴秀吉は、またもや西国街道を押さえられて兵站が閉ざされます。

また、摂津国が三木城から六甲山地を挟んで南側に位置するために摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹生山方面を通って三木城へ行く新たな補給路ができることとなり、三木城包囲網に穴が開きます。

一気に苦しくなった羽柴秀吉方では、翻意を求めるべく黒田孝高が有岡城にいる荒木村重の説得に向かったのですが、逆に荒木村重に捕らえられて有岡城に幽閉されてしまいます。

播磨への兵站回復(1578年11月16日)

苦しい状態が続いていた羽柴軍でしたが、天正6年(1578年)11月6日に起こった第二次木津川口の戦いで織田水軍が毛利水軍を撃破したことにより、織田方が瀬戸内海での制海権を得たため、物資の補給も容易となった羽柴秀吉方は一気に勢い付きます。

宇喜多直家調略(1579年10月)

その後、天正7年(1579年)10月には、備前・美作を治める宇喜多直家が、羽柴秀吉の調略に応じて毛利方から離反したため、三木城に対する毛利からの援軍の可能性もなくなります。

こうして、羽柴秀吉による中国戦線は一気に息を盛り返していくのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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