【越前朝倉氏】11代(戦国5代)続いた名門家の栄枯盛衰

越前朝倉氏は、但馬国の朝倉谷に生まれた後に越前へ入国した朝倉広景を祖とする国人衆から始まり、以後、朝倉義景まで11代にわたって続いた大名家です。

名門のイメージが強い越前朝倉氏ですが、実際には応仁の乱を契機として下克上で泥臭く成り上がった一族であり、守護に任じられたこともありません。

本稿では、同じ成り上り者の織田信長に滅ぼされるまでの越前朝倉氏の栄枯盛衰について見ていきます。

越前朝倉氏の出自

越前朝倉氏の出自は越前国ではなく、但馬国・養父郡朝倉荘(現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉)です。

平安時代以降、但馬国では、日下部氏(開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝えられます。)が力を持っていたのですが、朝倉氏はその日下部氏の流れをくむ氏族の1つと言われています。

越前国での越前朝倉氏の台頭

但馬朝倉氏から越前朝倉氏に分かれる

越前朝倉氏は、元弘3年(1333年)に斯波高経が足利尊氏の挙兵に従って鎌倉幕府に反旗を翻して但馬国で兵を挙げた際、但馬国で荘園管理を行なっていた但馬朝倉一族の朝倉広景がこれに協力したのが始まりです。

鎌倉幕府を倒した功績で越前守護職を得た斯波高経が、延元2年(1337年)に越前国に赴くこととなったのですが、その際、朝倉広景もこれに従って但馬国から越前国に向かったことから越前朝倉氏が始まります。

越前国で地頭職獲得

鎌倉幕府が滅び成立した室町幕府内において、斯波高経は相当の実力者となったのですが、貞治5年/正平21年(1366年)に勢力争いに敗れ、越前守護を追われて失脚します(貞治の変)。

このとき、越前朝倉氏は2代の朝倉高景の代となっていたのですが、朝倉高景は、斯波氏に敵対する幕府側に寝返り、その功で一乗谷がある宇坂庄を含めた越前の7か所の地頭職に任ぜられます。

その後、越後朝倉氏は3代朝倉氏景の代となった後の天授5年(1379年)、斯波義将が越前守護に任ぜられて斯波氏の越前支配が復活すると、朝倉氏景は、再び斯波氏に臣従します。

このころには、越前朝倉氏は一乗谷から東郷にかけての福井平野の東南端部に及ぶ大勢力となっていたと考えられており、斯波氏としても思うところはあったでしょうが、既に越前に大勢力を築いていた越前朝倉氏を処罰することはできませんでした。

斯波氏の下で守護代となる

越前朝倉氏は、その後も越前国内での勢力を拡大し、4代朝倉貞景を経て5代朝倉教景の代には、ときの室町幕府6代将軍・足利義教から「教」の偏諱を賜る程の勢力となっています。

そして、越前国内で勢力を拡大する越前朝倉氏は、室町期に入ると、甲斐氏・武田氏と共に斯波家守護代(三家老)に任ぜられるまでに至ります。

越前朝倉氏が越前国を平定し戦国大名となる

7代(戦国初代)朝倉孝景の台頭

(1)長禄合戦

6代朝倉家景が早世し、その家督を7代朝倉孝景が継ぐこととなったのですが、このとき朝倉孝景はわずか8歳であったため、祖父の朝倉教景の後見下に服します。

なお、この7代朝倉孝景が、越前守護斯波氏の代官(守護代)から下克上によって越前朝倉氏を戦国大名へとのし上げた傑物です。

朝倉孝景の代の頃、越前国では守護斯波氏と守護代甲斐氏とが対立しており、長禄2年(1458年)、斯波義敏と甲斐常治との武力衝突に発展します(長禄合戦)。

このとき、朝倉孝景は、越前守護代・甲斐常治側に味方して活躍します。

そして、長禄3年(1459)、朝倉孝景は幕府の命により、甲斐氏と共に関東出兵を拒否した斯波義敏を追い落とします。

結果、この戦いは守護代甲斐氏側が勝利し、越前朝倉氏もまた越前での影響力を強め、越前国内で甲斐氏に次ぐ勢力にまで成長します。

(2)文正の政変

永禄合戦に敗れた斯波義敏が没落したことを好機と見た朝倉孝景は、山名宗全と謀略を巡らして斯波義敏の子であった3歳の松王丸(後の斯波義寛)を廃嫡し、斯波義廉に斯波氏の家督を継がせる画策をするなどして恩を売り、越前国での影響力をさらに強めます。

その後、斯波義敏はまきかえしを図り、足利義政から赦免され、京都に戻りました。

他方で、斯波義廉が、文正元年(1466年)7月24日、斯波氏家督を追われら斯波義敏が越前・尾張・遠江3国守護職に復帰しました。

ところが、これに反発した朝倉孝景・山名宗全らは、文正の政変を起こして伊勢貞親・季瓊真蘂・義敏・赤松政則らを京都から追放し、再び義廉が斯波氏惣領となるなど、混乱の極致に至ります。

応仁の乱(1467年)

そんな中、応仁元年(1467年)、足利将軍家や畠山氏の家督相続問題から応仁の乱が勃発し、京が戦乱に包まれます。

この戦に、斯波氏も参戦することとなり、管領職にあり、また越前守護に復帰した斯波義廉は、山名宗全の娘と婚約関係にあったため西軍の山名宗全に味方します。

他方、室町幕府8代将軍・足利義政が越前守護に復帰させようと画策した斯波義敏は、もともと細川勝元に近い存在でしたので、東軍に味方します。

朝倉孝景は、当初は、西軍の主力部隊として京に赴いて参戦し、御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど主要合戦で武功を挙げます。

ところが、応仁2年(1468年)に、足利義政が、斯波義廉の管領職及び越前守護職を解任したことで事態は一変します。

斯波義廉(西軍)の解任によって斯波義敏(東軍)が越前守護となると、朝倉家の勢力基盤である越前国内の朝倉氏の領地が脅かされるからです。

危険を感じた朝倉孝景は、斯波義敏方である東軍に鞍替えした上で、嫡子・朝倉氏景を京に残し、自身は越前国へ下国します。なお、このときに東軍に寝返って斯波義敏に与したことにより、その偏諱を賜って「朝倉敏景」と名乗りを改めたものと考えられるのですが、本稿では便宜上「朝倉孝景」の表記で統一します。

そして、朝倉孝景は、戻った越前国で暗躍します。

朝倉孝景は、越前守護であった斯波義廉とそれを脅かす斯波義敏が京に上っているために越前国内にいないことを好機として、越前国内の有力国人や大寺社を味方に取り込み、勢力を急拡大させます。

この朝倉孝景の勢力拡大を見た将軍足利義昭及び東軍大将の細川勝元は、朝倉孝景を取り込むため、越前守護権行使(守護就任ではない)を条件として東軍への裏切りを提案します。

文明3年(1471年)5月21日、朝倉孝景は、足利義政の提案を聞き、これが越前国全域支配の好機と考えてこれを了承し、突然東軍に寝返ります。なお、このとき、京に残してきた嫡男朝倉氏景は、足利義政に見参した上で越前へ下っています。

この朝倉孝景の裏切りよって戦局が決定づけられ、東軍が圧倒的優位な状況のまま応仁の乱は終息へ向かいます。

また、朝倉孝景も、東軍陣営の権威を背景として越前の実効支配による領国化を進めていくこととなるのです。

これにより、朝倉孝景は、室町幕府から守護職に任命されたわけではないにも関わらず越前国を実質的に支配するに至ったことから、日本初の戦国大名となったと評価されています。

一乗谷に本拠を定める(1471年?)

文明3年(1471年)、朝倉孝景が、越前全域支配を目指し、それまでの本拠であった黒丸館(坂井郡三宅黒丸又は足羽郡北庄黒丸)から一乗谷に越前朝倉氏の本拠を移したとされています(朝倉始末記)。

一乗谷は、東側に詰城である一乗谷山城を配した、東西を高い山で挟まれた間に築かれた南北2kmに亘る戦国城下町であり、その南北も土塁(南側土塁が上城戸、北側土塁と石垣が下城戸と呼ばれます。)で守られた強固な城塞都市でした。

もっとも、一乗谷は無骨な都市ではなく、庶民が住む町屋はほぼ同じ区間(間口約6m、奥行約10m程度)で整然と整えられた上で1軒1軒に井戸と溜桝(トイレ)が設置されるなどのインフラ整備がなされていました。

また、四方に堀を巡らした1万5000㎡の敷地の中に15もの建物を擁する当主館跡があるなど、経済的・文化的にも発展した城下町であったことがわかっています。

なお、「朝倉家伝記」、「朝倉家記」、「親元日記」などによると、南北朝時代には既に越前朝倉氏は一乗谷を本拠にしていたとされており、朝倉孝景が一乗谷に本拠を移したものではないとする説が有力です。

いずれにせよ、朝倉孝景治世の文明年間に、越前朝倉氏の重臣たちが一乗谷に集まり、また応仁の乱により荒廃した京から疎開してきた多くの公家や高僧、文人、学者を受け入れて飛躍的な発展を遂げたことに疑いはなく、最盛期には1万人を超える人口と戦国三大文化の1つとされる雅な京文化を基礎とする朝倉文化で栄えた北ノ京とも呼ばれる一大拠点を造り上げられています。

越前国平定戦

前記のとおり、室町幕府より守護権行使の権限を与えられたとはいえ、越前国には守護の斯波氏や、守護代甲斐氏がいますので、すんなり越前朝倉氏のものとはなりません。

ここから、越前朝倉氏による越前国内平定戦が始まります。

まずは、守護代・甲斐敏光との戦いです。

結果的には、4年間もの長きに亘る戦いの末、文明7年(1475年)、甲斐敏光を遠江国に追い出すことに成功し、一旦越前国の平定を得ます。

ところが、文明11年(1479年)、斯波義敏の子松王丸が元服し斯波義良と名乗り、甲斐氏を率いて攻撃を仕掛けてきたため、斯波氏との戦いが始まります。

この斯波氏との戦いの最中の文明13年(1481年)、朝倉孝景は54歳で死去します。

なお、朝倉孝景は、晩年に朝倉氏の重臣の登用や、質素倹約、近臣の登用、そして目付の配置や合戦の教訓、築城の禁止、国内巡行や訴訟などの内政面などの事項を定めた分国法として有名な朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条や英林壁書とも言われます。)を定めたとされていますが、研究者の中では朝倉孝景の制定とすることについての疑問も多く見受けられています。

越前朝倉氏による越前国平定

朝倉孝景の死により、嫡男朝倉氏景が、越前朝倉氏の8代当主(戦国大名としては2代目当主)となります。

朝倉氏景は、3人の叔父経景・景冬・光玖の助力も得て、3年間の戦いを経て、斯波義敏を京都に送り返して越前国全域の平定を成し遂げます。なお、このとき、室町幕府は、斯波氏3重臣について、朝倉氏を越前の守護代、甲斐氏を遠江守護代、織田氏を尾張守護代に分けることによりさらなる争いを防止しています。

これにより、越前朝倉氏は、守護を補佐する立場から守護に代わって国を支配する立場になります。

名実ともに越前国の戦国大名です。応仁の乱をきっかけとした下克上の達成でもありました。

越前国は、石高が高く(50万石とも言われています)、京と北陸・山陰とをつなぐ交通の要衝であるため交易が盛んであり、さらに京から近いために文化的にも優れた豊かな国となります。

越前朝倉氏の栄華

9代(戦国3代) 朝倉貞景時代

朝倉氏景は、文明18年(1486)に38歳で没し、9代(戦国3代)として朝倉貞景が14歳で朝倉氏の家督を継ぎます。

その後、朝倉貞景は、交渉の結果、斯波氏の陪臣ではなく、足利将軍家の直臣として認められます。

朝倉貞景の代になると、越前支配も安定化してくるようになり、また美濃国の斎藤氏などの近隣の実力者と縁組するなどして、越前・美濃・近江・尾張・若狭という地域的・政治的まとまりが形成されていきます(特に、美濃国とは関係が緊密でした。)。

朝倉宗滴の抜擢

9代(戦国3代)朝倉貞景は、若くして越前朝倉氏の家督を継いだのですが、その後見として大叔父の世代がよくこれを補佐しました。

ところが、この大叔父の世代が没すると、越前朝倉氏で内紛が起こります。

文亀3年(1503)、敦賀郡司・朝倉景冬の息子の朝倉景豊が、初代孝景の四男・朝倉元景(景総)と組んで、当主の朝倉貞景に謀叛を起こしたのです。

このとき、朝倉景豊の義弟である朝倉教景(宗滴)が朝倉貞景の謀反を密告したために謀反を事前に防ぐことができ、この功を理由に朝倉宗滴が抜擢され、ここから越前朝倉氏の飛躍が始まります。

名将・朝倉宗滴の誕生です。

その後、永正3年(1506年)、越前で一向衆や甲斐牢人からなる土一揆が蜂起し、その後も一揆が頻発するようになり、朝倉宗滴がこれに対応するようになります。

10代(戦国4代)朝倉孝景時代

10代(戦国4代)朝倉孝景の時代になると、越前朝倉氏による越前国支配は盤石なものとなり、そればかりか数年ごとに若狭・近江・美濃・加賀などの隣国や丹後、京都などに出兵するようになります。なお、10代(戦国4代)朝倉孝景は、7代(戦国初代)と同じ名でややこしいのですが、当然別の人物です。

また、越前国の経済力増強に伴う幕府や禁裏への大金進上などにより、室町幕府内における朝倉氏の地位も上昇し、守護同格と扱われたり、朝倉孝景は御供衆から御相伴衆に列したりするなど、その権威を高めます。

この10代(戦国4代)朝倉孝景時代に、越前朝倉氏の最盛期を迎えます。

もっとも、朝倉孝景は、病気がちであったために内政・軍事への介入は少なく詳しい能力は不明です。

そんな朝倉孝景は、天文17年(1548年)、波着寺に参詣した帰りに急死します。享年56歳でした。

そして、越前朝倉氏の家督は、運命の11代(戦国5代)朝倉義景に引き継がれます。

越前朝倉氏滅亡へ

11代(戦国5代)朝倉義景の治政

11代(戦国5代)朝倉義景が16歳の若さで越前朝倉氏の家督を継いだ後、暫くは、先代までの栄華の延長線上にあり、戦国時代とは思えない安定的な治政が行われます。朝倉義景は、父祖の遠忌供養や氏神の赤淵神社の顕彰など当主としての務めを見事に果たし、また家臣への知行宛行や寺社領の安堵など内政も充実していたようです。

ところが、後に最後の室町幕府将軍となる足利義昭の越前下向を境として運命がジェットコースターのように動きだします。

足利義昭の越前下京

永禄8年(1565年)、京の二条御所において、ときの13代将軍足利義輝が、三好義継・三好三人衆・松永久通により暗殺されるという大事件が起こります(永禄の変)。

その後、三好長慶亡き後も京を支配する三好家に内紛が起き、三好義継及び三好三人衆方と松永久秀方とで血で血を洗う争いが繰り広げられます。

この内紛は将軍擁立にも影響し、三好三人衆が推す足利義栄と、松永久秀が推す足利義昭(当時は僧籍にあり覚慶と名乗っていました。)との争いとなります。

三好家内の内紛は、三好三人衆が優勢であり、劣勢となった松永久秀側の足利義昭は、上洛のための協力要請のため朝倉義景がいる越前に下ってきます。

朝倉孝景は、越前国で足利義昭を3年に亘って庇護して元服の儀まで行ないますが、一向に足利義昭を擁しての上洛はしませんでした。

業を煮やした足利義昭は、越前国を離れて岐阜の織田信長を頼ります。

織田信長上洛

足利義昭という上洛のための大義名分が転がり込んできた織田信長は、直ちに上洛作戦を敢行します。

織田信長は、岐阜から兵を率いて西進し、永禄11年(1568年)9月12日〜13日の観音寺城の戦い六角義賢・六角義治親子に勝利して南近江を獲得し、その勢いで同年9月28日に入京して、同年10月22日、室町幕府第15代征夷大将軍に任命させます。

上洛を果たした織田信長は、さらにその勢いで畿内ほぼ全域を攻略し、瞬く間に日本の最大勢力に成り上ります。

元亀の争乱

足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、将軍の名を用いて、全国の大名に上洛を命じます。事実上の織田信長への臣従圧力です。

この命は、朝倉義景の下へも届きます。

朝倉義景からすれば、ぽっと出の新人に頭を下げろという通知です。大大名の自負がある朝倉義景が、応じることができるはずがありません。

朝倉義景は、当然にこの要請を無視します。

メンツを潰された織田信長は、越前朝倉氏を敵として天下の儀の成敗権を足利義昭に認めさせ、越前朝倉氏を攻撃します。4年に亘る「元亀の争乱」の始まりです。

元亀元年(1570)4月、織田信長は、若狭国の解放を名目として京を出陣し敦賀を攻略したのですが、ここで朝倉義景が若狭国に対織田の兵を送ったことから織田と朝倉の戦いが始まります。

このとき、後世から振り返ると、朝倉孝景に一世一代のビックチャンスが訪れます。

越前国に進行する織田信長の進行中に、越前朝倉氏の同盟国であった北近江・浅井氏当主の浅井長政が織田信長を裏切ったため挟撃が可能な状態となったためです。

越前国にいた織田軍は、浅井長政の裏切りによって退路を断たれて大混乱となり、池田勝正・明智光秀・木下秀吉を殿に残して、織田信長が命からがら京に撤退するという大敗を喫します(金ヶ崎の退き口)。

もっとも、朝倉義景は、あと一歩のところで織田信長を取り逃がしてしまい、これが越前朝倉氏の滅亡につながっていきます。

京を経て岐阜に戻った織田信長には勢力を整え野洲河原の戦いで六角氏を駆逐した後再度北に向かって進軍し、他方織田信長追撃のために南進してきた浅井・朝倉連合軍は、姉川を挟んで対峙することとなります。

運命の姉川の戦いは、正面衝突だったのか奇襲だったのか、はたまた大戦だったのか小競り合いだったのかなど、戦いの内容についてついては諸説ありますが、いずれにせよこの戦いにより織田信長が再び南近江の支配権に加え岐阜・京都の進軍ルートの確保と琵琶湖水運を獲得します。

その後、越前朝倉氏は、第一次信長包囲網第二次信長包囲網を突破した織田信長に対し、常に劣勢の戦いを強いられます。

天正元年(1573年)4月12日に武田信玄が死去したため、東の憂いがなくなった織田信長は、本格的に浅井・朝倉攻略に取り掛かり、天正元年(1573年)8月8日、浅井長政の本拠地・北近江の小谷城を完全包囲します(小谷城の戦い)。

このとき、朝倉義景は、2万人もの軍を率いて越前国から小谷城救援に向かいますが、同年8月13日に小谷城の近くに築かれた丁野山砦が陥落したために浅井軍と連携が取れなくなった朝倉軍は、織田軍と一戦交えることなく浅井長政を見捨てて越前国への撤退を開始します。

これに対し、織田軍は、撤退する朝倉軍を猛追し、そのままの勢いで越前国になだれ込みます。

越前朝倉氏滅亡(1573年8月)

朝倉義景は、わずかな供回に連れられて何とか一乗谷まで帰還しますが、兵数の乏しい一乗谷では守りきれないと判断し、一族の朝倉景鏡が守る東側の大野城を目指したものの、途中で朝倉景鏡の裏切りにあい、天正元年(1573年)8月20日、自害して果てます。

また、朝倉義景を自害に追い込んだ朝倉景鏡は、朝倉義景の首を土産に織田信長に降伏します。

その後、朝倉義景の母親光徳院と朝倉義景の遺子である愛王丸は朝倉景鏡に生捕りにされ、光徳院と愛王丸の身柄は府中の信長のもとに護送され、織田信長配下の丹羽長秀によって同年8月26日今庄の帰の里で刺し殺されます。

これにより、越前朝倉氏の嫡流は途絶え、11代(戦国5代)続いた越前朝倉氏は滅亡します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA