【多治比猿掛城(多治比城)】毛利元就が幼少期を過ごした城

多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、毛利家の本城であった吉田郡山城の支城として同城の北西部の防衛を担っていた山城です。

戦国大名・毛利元就が幼少期を過ごした城として有名です。

現在は、「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として、吉田郡山城と共に国の史跡に指定されています。

多治比猿掛城築城

多治比猿掛城の立地

多治比猿掛城は、毛利家の本城である吉田郡山城から多治比川を約4km上った同城の北西部にあった多治比川南岸の標高432mの猿掛山に築城された山城です。

応仁の乱発生の前後頃に多治比を獲得したために毛利家でしたが、新たに取得した多治比が領地の西端部に位置することとなったため、ここを北側にあった石見高橋家や西側にあった山県家などから防衛するために選地が行われたと考えられています。

すなわち、多治比猿掛城は、吉田郡山城の支城として毛利家の西側防衛拠点としての役割を担うための城だったのです。

多治比猿掛城築城(築城年不明)

多治比猿掛城が歴史上明らかとなっている最初は、明応9年(1500年)、毛利元就の父である毛利弘元が長男の毛利興元に毛利家の家督を譲って隠居した後、当時3歳であった次男の松寿丸(後の毛利元就)を伴って入ったときです。

このときより前の記録ごありませんので、毛利弘元によって築かれたのか、その前から存在していたのかすらわかっておらず、築城年は不明です。

その後、永正3年(1506年)に毛利弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となり、この城で成長した松寿丸は、元服後、多治比元就と名を改めて毛利分家の多治比毛利氏として活動しています(このころの毛利元就は「多治比殿」と呼ばれていました。)。

また、猿掛城という名称は江戸時代以降の呼び方であり、毛利家が使用していた当時は、多治比御城や多治比城と呼ばれていました。

毛利元就が吉田郡山城に入る(1523年)

大永3年(1523年)、多治比猿掛城であった毛利元就が、毛利家の家督を相続して毛利家12代目当主となると、毛利元就は、多治比猿掛城を出て吉田郡山城に入城します。

多治比猿掛城の縄張り

多治比猿掛城は、猿掛山北東部(中腹)に設けられた本丸を中心として、南北に伸びる尾根沿いに曲輪を配置した連郭式山城です。

出丸

多治比猿掛城の出丸は、猿掛山から北に半島状に突き出した標高296m、麓からの比高50mに位置する南北に細長く伸びる曲輪群です。

麓から近い曲輪群であるため、平時の生活を重視した居館として使用された曲輪群であったと考えられます。

なお、現在においては、土塁状の起伏や大きく窪んだ虎口様の地形が見られるものの、風化が激しいためにかつての遺構を見い出すことが困難な状態となっています。

悦叟院跡曲輪?

悦叟院跡曲輪?は、出丸と寺屋敷曲輪群との間にある場所であり、現在は天文5年(1536年)創建とされる猿掛山教善寺の境内となっています。

この場所も含めて寺屋敷曲輪群を形成していたとも考え得るのですが、そもそも曲輪を形成していたのかすらわかっておらず、正確なところは不明です。

この平坦部の南端には、かつては毛利弘元の菩提寺であったは悦叟院が建っていたとされ、その跡地には、明応9年(1500年)に多治比猿掛城に入り永正3年(1506年)に39歳の若さで亡くなった毛利弘元墓所が置かれています。

また、毛利弘元墓所の横には、その妻(毛利元就の母)である福原広俊娘の墓も建てられています。

なお、福原広俊娘は、亡くなった後、なぜか実家のあった福原城内の福原家墓所に葬られたのですが、大正10年(1921年)に夫の隣に移葬されたものです。

寺屋敷曲輪群

寺屋敷曲輪群は、急斜面を整地して平坦地を形成して寺屋敷が配置されていた曲輪群です。

麓から階段状の4段の曲輪と8段の帯曲輪を越えた先に、面積約860㎡とい大きな寺屋敷曲輪があり、これを中心として、その上段の3段曲輪という構造で構成されていました。

寺屋敷曲輪群は、各曲輪のみならず、寺屋敷自体を防衛施設として守る曲輪群であったと考えられます。

この寺屋敷曲輪群を越えると、その後、幅6〜7m・深さ2m・長さ130mもの長大な竪堀を進んで約60m高く登ると、ようやく多治比猿掛城の本丸に到達します。

本丸

多治比猿掛城の本丸は猿掛山北東部(中腹)の標高376m・比高120m一帯を整備して築かれた南北に長く広い曲輪です。

本丸北端高台に五角形の櫓台を設けており、また南端には土塁が設けられています。

本丸が急斜面を開いて造られているため、北側・西側・東側の三方が急峻な崖で守られている攻めるに難い構造となっています。

他方、急峻な崖で守られた北側・西側・東側とは異なり、本丸の南側には尾根筋が伸びていますので、必然的に守りが薄くなります。

そこで、本丸から物見丸に向かって伸びる尾根筋には深い2条の堀切と、その2条の堀切の間の鞍部から東西両側に張り巡らされた無数の連続畝条竪堀を設けることにより防衛力を高める構造となっています。

物見丸

物見丸は、本丸から尾根筋を南側に400m進んだ尾根先に築かれた出城曲輪群です。

本丸よりも約50m高い猿掛山山頂(標高432m・比高170m)に位置し、約15m四方に造成されています。

物見丸という名称は当時のものではなく、後世に付されたものですので、当時どのような名を付され、どのように使用されていたのかは必ずしも明らかではありません。

もっとも、西側に帯曲輪を北側に堀切を挟んで小曲輪を持つ簡単な造りの曲輪群となっており、城内の最も高い場所にあるにもかかわらずそのシンプルな構造となっていることから、物見や戦時の避難場所として使用されていた曲輪である可能性が高いと考えられています。

多治比猿掛城廃城

毛利元就が吉田郡山城に移る(1523年)

前記のとおり、大永3年(1523年)に毛利元就が毛利宗家の家督を継いで吉田郡山城に移ったことから多治比猿掛城は城主不在の城となりました。

毛利元就が城を出た後の多治比猿掛城についての明確な資料が存在しないことから、その後の詳細は不明です。

多治比猿掛城廃城

永禄6年(1563年)に毛利隆元が出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊し、その際に息子の毛利輝元が来城したことがわかっているため、このときまで多治比猿掛城が存在したことはわかっているのですが、その後の記録はなく、いつ廃城となったのかについても明らかとなっておりません。

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