【篠山城(日本100名城57番)】大坂城の北西を封じるための城

篠山城(ささやまじょう)は、徳川家康の天下普請により、篠山盆地の中央部にある笹山とよばれる小丘陵(現在の兵庫県丹波篠山市北新町)に築かれた平山城です。

関ヶ原の戦いの後も強い影響力を残す豊臣秀頼と大坂城を牽制するため、山陰道上の要衝地とするため小藩の城としてはあり得ない規模と防御力を持つよう築かれました。

天下泰平の世となった後は篠山藩の藩庁となり明治を迎えています。

篠山城築城

篠山の立地

篠山城がある篠山の地(現在の兵庫県丹波篠山市【令和元年5月に篠山市から丹波篠山市に市名変更】)は、加古川水系の上流部にある東西約15km・南北約5kmに亘って広がる篠山盆地のほぼ中央部に位置しています。

この篠山盆地は、京・畿内と山陰諸国の国府とを結ぶ古代山陰道(官道)の要衝地であり、郡家(現在の兵庫県丹波篠山市郡家)付近に延喜式の長柄駅も設けられていました。

この篠山盆地を含めた丹波国は、戦国時代後期までは、篠山城ではなく、そのほぼ中央南部寄りにある標高約462mの高城山に築かれた八上城を支配する波多野家により治められ、その後の豊臣政権下では前田茂勝(前田玄以の三男)が入っていました。

その後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、大坂城にいる豊臣秀頼と西国に散らばる豊臣恩顧の大名を牽制するため、大坂城を取り囲むように大名の配置転換や新城築城・旧城改築を進めていきます。

このとき、徳川家康によって大坂城の包囲のために彦根城築城や丹波亀山城の大改修などが行われていったのですが、山陰道沿いも整備がなされることとなりました。

徳川家康は、新たに京から丹波国を通過して周防国に至る山陰街道(近世山陰道・丹波街道)を整備し、この山陰街道をを押さえるためには標高の高い山城である八上城を廃して標高を下げて街道沿いに防衛拠点の構築を計画します。

そして、慶長13年(1609年)、関ヶ原の戦い後も前田茂勝に安堵されていた篠山領を改易して召し上げ、同年、親藩格であった譜代大名の松平康重を常陸国笠間城から篠山領に移封させます。

篠山城の選地

その上で、徳川家康は、大坂城包囲網の一角を担わせるため、八上城に入った松平康重に対して八上城を廃して、天下普請により篠山城を築城させるよう命じます。

なお、このとき山陰道を牛耳ることが出来る場所として、現在の王地山公園、東岡屋の飛の山などが新城候補地に挙げられましたのですが、議論の結果、四方(南側を篠山川・北側を春日山・西側を飛の山・東側を王地山と付け替えた黒岡川)を天然の要害で守ることができる防御にすぐれた場所であるとして丹波篠山盆地内にある小山(笹山)が選ばれました。

篠山城築城(1609年)

そして、篠山城の縄張りが藤堂高虎に委ねられた上で、普請総奉行を池田輝政として、来るべき豊臣秀頼との戦いに備えて以下の人選により急ピッチで篠山城の築城を進められます。

その後、15国20家の大名から夫役総勢8万人が動員されてわずか6ヶ月で篠山城が完成します。

(1)総奉行普請総奉行:池田輝政

(2)縄張奉行:藤堂高虎・渡辺勘兵衛

(3)助役大名:松平康重(丹波八上)、有馬豊氏(丹波福知山)、織田信包(丹波柏原)、谷衛友(丹波山家)、別所吉治(丹波北由良)、京極高知(丹後宮津)、池田輝政(播磨姫路) 池田忠雄(備前岡山)、森忠政(美作津山)、戸川逵安(備中庭瀬)、木下勝俊(備中足守)、福島正則(備後・安芸広島)、毛利秀就(周防・長門萩)、浅野幸長(紀伊和歌山)、蜂須賀至鎮(阿波徳島)、生駒一正(讃岐高松)、山内康豊(土佐高知)、加藤嘉明(伊予松山)、富田信高(伊予宇和島)、藤堂高吉(伊予今治)

篠山城の縄張り

前記のとおり、笹山と呼ばれる岩山の上に築かれた平山城であり、階段状に設けららた本丸・二の丸の周囲に三の丸が配された輪郭式の城であるため、篠山城の城郭構造は輪郭式平山城といえます。

また、本丸と二の丸を囲む内堀と、三の丸を囲む外堀が、それぞれ方形構造をしており、このころの徳川家を代表する城郭構造の1つです。

なお、築城当時は、現在本丸とされている曲輪が殿主丸、ニの丸とされている曲輪が本丸、三の丸とされている曲輪が二の丸とされていたようですが、享保 3年(1718年)作成の「丹波国篠山城絵図」では、現在の呼び名となっていますので、本稿でも現在の表記に従って説明します。

外堀

篠山城の外堀は、その名のとおり篠山城の内曲輪の外周に張り巡らされた堀であり、1辺約400mのほぼ正方形の構造となっています。

この外堀の東・北・南の門にはそれぞれ馬出を設置し、攻防双方の役割が果たせる構造となっていました。

なお、現在は外堀沿いに桜が約1000本植えられています(大正4年/1915年に大正天皇即位を記念して篠山町青年会が東堀に植樹した事に始まるものです。)。

① 大手馬出(北門・大手門前)

大手馬出は、大手門の前(北側)に設けららた馬出(虎口を守りつつ兵馬を繰り出して打ち出すことができる攻撃拠点でもある防衛施設)です。

大正10年(1921年)に堀が埋められ、現在はその名残として土塁の一部が残るのみとなっています。

② 南馬出(外堀南門前)

南馬出は、外堀南門前に堀と土塁で設けられた馬出です。

現在まで土塁と堀がほぼ完全な状態で残されており、昭和31年(1956年)12月28日に国の史跡に指定されています。

③ 東馬出(外堀東門前)

東馬出は、外堀東門前に堀と石垣で設けられた馬出です。

現在は、その跡地が公園として整備されています。

三の丸(旧二の丸)

三の丸は、本丸と二の丸を取り囲むように配置された曲輪であり、周囲に三層の隅櫓1棟と二層の隅櫓3棟が配され、これらを屏風折れの土塀で繋げた防衛構造となっています。

そして、北(大手)・東・南の3箇所の虎口にはそれぞれ内枡形で櫓門が配置され、その内部は、北側に諸役所や対面所が、南側には馬場が、東側と西側には家老屋敷(上級武家屋敷)がそれぞれ配置されました。

廃藩後は、石垣・櫓・土塁・土塀・屋敷などが次々に取り壊され、教育施設や民家などが建てられたり太平洋戦争中は畑として利用されたりした後、現在は東側を笹山小学校として、その他を広場や駐車場として利用されています。

① 大手門(北門)

近世城郭は、門で敵を足止めし、そこに櫓から射撃を加えることで防衛する構造となっています。

そのため、篠山城内には多くの門と櫓が配置されています。

このうち、篠山城の北側に配され、最初の入口となったのが大手門(櫓門)です。

② 外堀東門

③ 外堀南門

④ 隅櫓

⑤ 太鼓櫓

⑥ 米蔵

内堀

内堀は、本丸・二の丸と三ノ丸とを隔てる堀であり、本丸・二の丸を方形に取り囲んでいます。

二の丸(旧本丸)

篠山城の二の丸は、元々は本丸と言われた曲輪であり、これと元々は殿守丸と言われた本丸とで最奥の曲輪群を構成しています。

この本丸・二の丸は高石垣で遮断し、要所に隅櫓を設けた上で全方位の多聞櫓を巡らしていました。

また、二の丸内部には城内最大の建物である大書院があり、その東に小書院、西に大広間が続き、南には台所や諸役人の詰め所、最奥には城主の居館や奥御殿が配置されていました。

① 高石垣・犬走

本丸及び二の丸石垣部には、犬走と呼ばれる周堤帯が存在します。

犬走りは、敵進入の足場となるため防御構造という見地から見ると非常に不利なものですが、石垣が崩れるのを防ぐためなどにこのような構造をとることがあります。

② 廊下門

③ 表門

廊下門に続いて二の丸表虎口があり、左右の石垣の間を櫓門で固められていました。

④ 桝形

表門を突破するとそこから二の丸に入ることとなるのですが、その先には中門があり、表門と中門の間は桝形を構成していました。なお、中門と鉄門との間も桝形となっていました。

⑤ 中門(なかのもん)

⑥ 鉄門(くろがねもん)

鉄門は、大手門から三の丸を突破した後、二の丸へ至る最後の門です。

高さ4mの東側石垣と高さ4.5mの西側石垣との間に設けられており、その東西幅は約5m・奥行約4.5mでした。

絵図によると櫓門形式の門であることがわかり、門扉にはその名のとおり鉄板が張られていたと考えられています。

⑦ 埋門(うずみもん)

二の丸南側にある裏門は、左右の石垣に架けた渡櫓に隠された門となっています。

埋門は、非常時には埋めて遮断できる構造となっています。

埋門周辺石垣には多くの符号・刻印が残る石が多く見られます。

特に、埋門を出てすぐ右側の石垣には普請総奉行を務めた池田輝政(池田三左衛門輝政の意味である「三左之内」)の刻印が残っています。

⑧ 大書院(おおしょいん)

大書院は、城主の居館や公式行事に使用される目的で篠山城築城と同時に建てられたとされる東西28m・南北26m規模の書院造の建物であり、二条城の二の丸御殿を参考にして建築されたと伝えられています。

大屋根の反り具合や高さと幅の釣合いなど、均整のとれた建物で、上段の間、孔雀の間、葡萄の間、虎の間、源氏の間など多くの部屋があり、内部は障壁画で飾られるなどした豪華な建築でした。

明治6年(1873年)から篠山城の城郭建造物が取り壊しが始まったのですが、二の丸大書院は、取り壊しに多くの費用が必要なことや旧藩士の安藤直紀の働きかけがあったことにより取り壊しを免れます。

その後、明治8年(1875年)から明治43年(1910年)までは丹波篠山市立篠山小学校(当時:篠山尋常小学校)の校舎として、また明治43年(1910年)からは多紀郡公会堂として利用されていたのですが、昭和19年(1944年)の失火により大書院が焼失しています。

その後、城周辺の整備に伴い、平成12年(2000年)4月には二の丸御殿の中心的建物だった大書院が復元され一般公開されています。

もっとも、大書院に続く御殿建物群については、古写真等の資料が乏しいためあえて立体復元の方法はとらず、平面表示の方法による整備がなされています。

⑨ 二の丸御殿庭園井戸

本丸(旧殿主丸)

本丸は、言うまでもなく篠山城の最重要曲輪であり、二の丸の東側に、二の丸より一段高い場所となるような構造で設置されています。

本丸の周囲には塀が巡り、角には隅櫓が設置され,隅櫓の間は多聞櫓でつなげられていました。

もっとも、本丸内にはその他の防衛施設は設けらず、篠山城の廃城後の明治 15 年(1882年)に旧篠山藩士の有志によって青山家の遠祖を祀る青山神社が創建されて現在に至っています。

① 隅櫓

② 多聞櫓

③ 井戸

④ 天守台

篠山城には、本丸南東部に本丸より約4m高い位置に設けられた約380㎡(東西19m・南北20m)の天守台はあるものの、築城当初より天守は建設されませんでした。

この理由については、篠山城に高い防御力を持たせるために工期が伸び次に天下普請を予定していた名古屋城に助役大名のほとんどを移らせたために人が足りなくなったこと、天守を建てると大砲の的になるおそれがあること、篠山城が堅固過ぎる造りとなるのを徳川家康が嫌ったことなどが挙げられています。

そこで、天守が建つことがなかった天守台には、その南西隅部に二間四方(4m四方)の平櫓が建てられるにとどまりました。

城下町

篠山城完成に続き、その翌年の慶長 15 年(1610年)から篠山城城下町の建設が始まります。

城下町は、篠山城を中心とし、これを取り囲むように外堀沿いに中級武士屋敷が、さらにその外周に下級武士屋敷が配され、さらに大外南側には足軽長屋が配置されました。

その上で、篠山城の西側・北側・東側を「コ」の字型に通る篠山街道沿いに町屋区間が配置され、篠山街道の外側には防衛施設を兼ねた神社が配置されました。

なお、余談ですが、明和3年(1766年)に、南側馬出隣接場所に藩校「振徳堂」が建設され、後に多紀郡の旧制中学・篠山鳳鳴高校へと繋がっています。

篠山城廃城

篠山城明渡し(1868年)

明治元年(1868年)の明治維新に際し、笹山藩は、山陰道の平定を進める山陰道鎮撫総督・西園寺公望率いる明治新政府軍に対して篠山城を明け渡します。

この後、同年の版籍奉還によって、領地領民は朝廷に返上され、篠山城は官有となります。

なお、篠山城は、所在する山が「笹山」という名を由来として命名されていたために築城後「篠山」と「笹山」の両方が使用されていたのですが、明治3年(1870年)に新政府から「篠山」を使用するよう指示があったためにその表記が「篠山」で統一されて現代に至っています。

篠山城廃城(1873年)

そして、明治3年(1870年)、 大手馬出の東にあった地方役所が増改築されて篠山藩庁舎となり、その後明治6年(1873年)の城郭取払令により城内の建物や土塁はほとんど取り壊されることとなりました。

このとき、城内最大の建物であった大書院も取壊される予定となったのですが、その大きさから取り壊しに多大な費用を要するとして放置された後、旧篠山藩士安藤直紀の努力により保存されることになりました。

篠山城跡地

その後、篠山城跡地には、篠山中年学舎(篠山鳳鳴高校の前身)・多紀郡立高等女学校(後の県立高等女学校)・篠山幼稚園、篠山中学校などの教育施設が次々と建てられていきました。

また、残された大書院は、明治8年に小学校(篠山小学校、篠山尋常小学校、後に三の丸東に移転)として、明治43 年(1910年)に多紀郡の公会堂として利用されることとなったのですが、昭和 19 年(1944年)1月に発生した火災により焼失しています。

なお、現在の篠山城には堀や石垣などの遺構が残されていますが、特に馬出の遺構がよく残されており、必見の観光スポットとなっています。

また、場内のいずれの門であったのかはわかっていませんが、篠山市内にある金照寺の山門は、篠山城から移築された門として現存しています。

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