【大溝城と大溝陣屋】近江国高島に築かれた戦国水城と江戸陣屋

大溝城(おおみぞじょう)は、近江国高島郡大溝(現在の滋賀県高島市)にあった戦国時代の平城・水城であり、同じく琵琶湖湖畔に築城された安土城・坂本城・長浜城と共に、織田家の琵琶湖水運掌握の拠点となった城です。高島城・鴻溝城(こうこうじょう)・鴻湖城(こうこじょう)などとも称されました。

その立地の重要性から織田信長の甥・津田信澄(織田信長の弟である織田信行の子)が入ったのですが、本能寺の変後に謀反を疑われて誅殺され城主を失い、その後、次々と城主が代わった後、江戸時代を迎える前に破却されるという短命に終わった悲運の城でもあります。

大溝城築城

大溝城の立地

大溝城は、比良山系の山によって南側に位置する近江国志賀郡と分けられた近江国高島郡の大溝(現在の滋賀県高島市勝野)に位置しています。

大溝の地は、古くから、京から若狭国・越前国など北陸諸国へと通じる古代北陸道(西近江路)沿いの陸上交通の要衝地でした。

また、城のすぐ北側にあった勝野津(大溝湊)は、琵琶湖北端の塩津(海路11里・約43km)と琵琶湖南端の大津(海路10里・約40km)とのほぼ中間に位置する琵琶湖西岸にある琵琶湖水運の要港でもありました。

大溝城築城(1578年)

戦国時代後期頃まで、近江国高島郡の拠点は清水山城(現在の滋賀県高島市新旭町)や打下城(大溝古城)にあったのですが、織田信長が元亀年間にこれらを攻略し、近江国高島郡を平定します。

その後、織田信長は、天正4年(1576年)に安土城(現在の近江八幡市安土町)を築城すると、琵琶湖南西の明智光秀の坂本城(元亀2年/1571年築)、琵琶湖東の羽柴秀吉の長浜城(天正2年/1874年築)に加え、琵琶湖の北側に新城を配して琵琶湖水運を掌握しようと考えます。

そのため、織田信長は、天正6年(1578年)、安土城の北西対岸約18kmに位置する大溝(現在の滋賀県高島市)に明智光秀の縄張りによって新城を築城させ、織田信長の叱責を受けて高野山へ出奔した磯野員昌に代わり、天正6年(1578年)2月3日、甥の津田信澄(弟・織田信行の長男)に近江国高島郡を与えて入城させ、一帯の水運を完全に牛耳ってしまいます。

本能寺の変以降の大溝城

ところが、天正10年(1582年)6月2日、津田信澄の舅である明智光秀が、本能寺にいた織田信長と妙覚寺にいた織田信忠を襲撃しこれを殺害するという大事件を起こすと(本能寺の変)、津田信澄が、謀反人明智光秀の娘婿であったこと、さらに織田信長に誅殺された織田信行の子であったことなどから、本能寺の変が明智光秀と津田信澄の共謀により起こったとする噂が蔓延し、実際には津田信澄が謀反に荷担した様子はなくまた明智光秀に助力しようとした素振りもさえも窺えなかったにもかかわらず、疑心暗鬼に囚われた織田信孝丹羽長秀が、同年6月5日、津田信澄のいた大坂城・二の丸千貫櫓を攻撃し、津田信澄を討ち取ってしまいます。

この結果、大溝城主が不在となります。

その後、山崎の戦いの後に行われた清洲会議により、大溝城は丹羽長秀に与えられることとなり、丹羽長秀は植田(上田)重安を代官として入城させました。

その後、賤ヶ岳の戦いの後に高島郡の一部が羽柴秀吉の直轄領になると、加藤光泰(天正10年/1582年)、生駒親正(天正13年/1585年)、京極高次(天正15年/1587年)、織田三四郎(天正18年/1590年)、岩崎掃部佐(文禄4年/1595年)らが順に城主となって大溝城に入っています。

大溝城の縄張り

大溝城は、琵琶湖西岸に位置する内湖に囲まれた場所に内曲輪を配し、これを天然の内堀と見立てた洞海(現在の乙女ヶ池)と天然の外堀と見立てた琵琶湖で守る梯郭式平城(水城)です。

今日までに内曲輪の本丸天守台を除いた部分の遺構が破却・埋立てにより消失しているために正確なところはわかっていませんが、古地図などから内曲輪については、本丸の南側に二ノ丸、西側には三ノ丸と「の」の字の状態に配置されていていたことはわかっています(古代北陸道のある西側から進軍してくる敵を想定していますので、必然的に西側に注力した曲輪配置となっています。)。

そして、さらにこの内曲輪の外側にある勝野津と琵琶湖を外堀として利用し、水路によって琵琶湖に出れるような構造となっていました。

なお、以下は、「織田城郭絵図面」(滋賀県立安土城考古博物館寄託)、寛文4年(1664年)の「大溝城下古図」(高島歴史民俗資料館寄託)、「大溝古城郭之絵図」(磯野家蔵)、享保17年(1732年)の「大溝旧図」(個人蔵)などによる推定です。

三ノ丸

大溝城の三ノ丸は、内曲輪の西側に位置し、東西46間(約82.2m)、南北60間(約108m)の大きさでした。

戦国期の使用態様は必ずしも明らかではありません。

江戸時代に入ると、三ノ丸跡地に大溝藩庁である陣屋(御殿)が設けられて藩政の中心地となり、その後、明治11年(1878年)9月に旧陣屋(大溝藩庁前庭)跡に分部歴代藩主を祀る分部神社が建立され現在に至っています。

二ノ丸

大溝城の二ノ丸は、本丸の南側に位置し、東西92間(約165.6m)、南北29間(約52.2m)の大きさでした。

昭和58年(1983年)の調査により、二ノ丸南東隅で石垣の基底部も検出され、また、平成30年(2018年)3月の発掘調査により、本丸の南側より二ノ丸を繋ぐ幅約7mの土橋と共に、その東西両側に堀を遮る石垣があったことが確認されています。

本丸

大溝城の本丸は、東西30間(約52m~58m)、南北33間(約57m~60m)、面積約3300㎡の正方形型の曲輪です。

本丸南東隅部には天守台が、その他三隅には隅櫓が設置され(大溝古城郭之絵図・磯野家蔵)、外郭部には沈下を防ぐ胴木の上に高さ1~1.5m・幅2~3mの石塁が築かれていました。

また、本丸北端部にて直角に曲がる階段状の石垣が見られたことから、本丸から直接琵琶湖に通じる船着場が設置されていたと考えられています。

なお、平成30年(2018年)3月の発掘調査により、本丸の北部・南西部6か所から外郭の石垣跡が確認され、その規模が推定されるとともに石垣の構築方法を知る手掛かりが示されました。

天守

① 天守台

大溝城天守台は、本丸の南東部に位置しする東西24m、南北29m、高さ(比高)約5m(最高部6.5m)の花崗岩を野面積みの方法により積んだ石垣づくりの台です。

天守台の隅部は算木積みにより補強されており、織田家の築城技術の高さが伺えますが、時代的に石の加工等は行われていない単純な造りとなっています。

② 天守

絵図などの記載や周辺から安土城と同じ文様(同笵)の軒丸瓦・軒平瓦が検出されていることから、大溝城の天守台の上には何らかの天守建造物天守建築物が存在していたと考えられています。

もっとも、そこにどのような構造の建物が建っていたのかについては等明らかになっていません。

大溝城廃城

大溝城は、文禄4年(1595年)頃に解体され、建築物や石垣の多くは水口岡山城に移築されたといわれています。なお、解体時期については、天正13年(1585年)頃や慶長8年(1603年)頃とする説もあります。

そして、その後、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城とされ、徹底的に破却されてしまいました。

参考(江戸時代の大溝陣屋)

大溝藩成立(1619年8月)

元和5年(1619年)8月27日.分部光信が、伊勢国上野(三重県津市河芸町)から近江国・高島郡と野洲郡2万石に加増され、初代大溝藩主として大溝に入ります。

大溝の再整備

① 陣屋

大溝に入った分部光信は、廃城後の取り壊しによって荒廃していた大溝城三ノ丸跡地に陣屋(大溝陣屋)を構えて藩の中心部とします。

そして、陣屋の周囲に堀を巡らせてその内側を郭内と呼び、そこに藩庁・藩主屋敷・練兵堂・米管理所などの建物を整備しました。なお、本丸跡は射的場に使用されたようです。

なお、前記のとおり、この陣屋跡(三ノ丸跡)地には、明治11年(1878年)9月に旧陣屋(大溝藩庁前庭)跡に分部歴代藩主を祀る分部神社が建立され現在に至っています。

② 武家屋敷

その上で、陣屋の西側一帯に武家屋敷地を配して土塀で囲んで区分し、この土塀の北側に総門(惣門・摠門)・不浄門を、西側に西門、南側に南門が置かれました。なお、宝暦5年(1755年)に大修理がなされた総門が現存しており、市指定文化財となっています。

また、陣屋との出入口となる東側には正門が置かれています。

そして、これら東西4町余り(約440m)・南北2町余り(約220m)の地域をあわせて惣郭内(総じて郭内とも)と呼び、陣屋とあわせて藩の中心地となりました。

③ 町人町

江戸時代になると、この辺りの陸上交通路が、それまでの古代北陸道から近世の北国街道に変わったため、この北国街道沿いとなる武家屋敷地の北側には町人町を配置されました。

そして、この町人町は、総門によって武家屋敷地と分画されました。

総門北側の町人地は、東西約3~4町(約330m~440m)・南北11町(約1280m)に及び、少なくとも20町名が付され、現在においても長刀町・江戸屋町・蝋燭町・職人町・紺屋町などの町名が残っています。

大溝陣屋破却(1871年)

その後、大溝藩では、11代藩主である分部光貞の時代に明治維新を迎え、明治2年(1869年)6月23日に版籍奉還に従って分部光貞が初代大溝藩知事(知藩事)となりました。

もっとも、分部光貞が、明治3年(1870年)4月に病死ししたために、同年7月に分部光謙が7歳でこれを相続して2代藩知事となるが、翌明治4年(1871年)6月23日に藩知事を辞任して解藩して大溝藩は大津県に編入され、陣屋(御殿)の建物は払い下げられて取り壊されました。

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