【芥川山城(続日本100名城159番)】最初の天下人三好長慶の居城

芥川山城は、大阪府高槻市内の三島平野の最奥部にある三好山の山頂部東西・南北約450mに広がる中世の山城です。

畿内をほぼ制圧した最初の天下人・三好長慶が、京にほど近く淀川水系を押さえることができる交通の要衝として選んだ場所にあります。

山中に建てられていたこともあって宅地開発による破壊から免れていることから遺構の保存状態も比較的良好で、すぐ西側には摂津峡がありファミリーで遊ぶついでにアクセスするにもうってつけです。

なお、当時の呼称は「芥川城」なのですが、近くに同じ名である芥川城が存在することから混同を避けるために芥川山城と呼ばれることが一般的であるため、本稿においても芥川山城と標記します。

芥川山城築城

芥川山城の立地

芥川山城は、現在の高槻市北部に位置する標高182.6mの三好山山頂に築かれた当時の典型的な造りの山城です。

三好山のすぐ東側には標高192.3mの帯仕山が存在していますが、帯仕山は山頂部がなだらかである上、川による防衛機能に劣ると判断され、帯仕山ではなく三好山が選ばれました。

この芥川山城は、北側・西側・南側を芥川とその外側の山で囲まれている上、急峻な摂津峡の切り立った断崖を天然の堀として利用した天然の要害となっています。

芥川山城築城(1516年)

芥川山城は、細川京兆家15代当主として摂津国・丹波国・山城国・讃岐国・土佐国の守護であり、室町幕府31代管領でもあった細川高国が、敵対する細川澄元に対抗するため、永正12年(1515年)に築城を開始したと伝えられます。

昼夜を問わず300人~500人もの人間を1年間も動員する大工事を経て、永正13年(1516年)に芥川山城が完成させると、細川高国は、家臣である能勢頼則に芥川山城を守らせます。

永正13年(1516年)8月、初代城主であった能勢頼則が没して能勢頼明がこれを継ぎ、さらに大永3年(1523年)に能勢国頼がこれを継いでいたと考えられています。

なお、芥川山城の文献上の初見は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将で細川家の家臣でもあった瓦林正頼により記された瓦林正頼記であり、永正7年(1520年)10月に「芥川ノ北二当リ可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘ」という記載が残されています。

その後、大永6年(1526年)、波多野元清・柳本賢治らが細川高国に対して反乱を起こして丹波から京都へ進軍してくるに際し、能勢国頼が道中にあった芥川山城から逃亡しています。

細川晴元時代(1533年4月)

その後、天文2年(1533年)4月、淡路国に追われていた細川晴元(細川澄元の子)が軍勢を引き連れて畿内にとって返した後、芥川山城に入城します。

そして、細川晴元は、芥川山城を本拠に据え、その拡充を行います。

また、細川晴元は、天文5年(1535年)に室町幕府34代管領職について京に移り住みますが、芥川山城にもたびたび戻っています。

そんな細川晴元も、天文8年(1539年)8月、三好長慶によって京を追われ、芥川山城も三好長慶に奪われます。

もっとも、同年9月13日に細川晴元と三好長慶との間に和議が成立し、三好長慶が芥川山城から退城し、その代わりに細川晴元方の薬師寺与一が入城します。

その後、天文16年(1547年)6月26日、再度細川晴元らを下して芥川山城を獲得した三好長慶は、父・三好元長の従弟である芥川孫十郎を城主とします。

三好長慶時代(1553年8月)

ところが、その後、芥川孫十郎に謀反の疑いありと判断した三好長慶は、天文22年(1553年)7月に芥川山城を包囲し、同年8月12日に芥川孫十郎を退去させ、再度芥川山城を接収します。

天下人となった三好長慶は、芥川山城を自らの拠点とすることとし、さらなる整備・拡張工事を行います。

ここで三好長慶は、それまでの室町幕府やその実権を握った管領細川氏が京に上って政治を行っていたやり方を一新し、畿内の政治の中枢を芥川山城に集中させてしまいます。

これは、芥川山城を中心とする三好政権の成立を意味しました。

芥川山城の縄張り

曲輪配置

前記のとおり、芥川山城は、城自体が三好山の山頂部にありますが、その周囲も山に囲まれています。

具体的には、芥川山城の北側・西側・南側に芥川が流れ、同川と同川が削った丘陵により守られています。

そのため、仮に芥川山城が攻められる場合、敵は東側(帯仕山)または南東側からやってきます。

そこで、芥川山城は、主郭部(西曲輪群)を西端に配し、その東側に2段階に及ぶ曲輪群(中央曲輪群・東曲輪群)を配して防衛する構造となっています。

また、開けた南側には、勝竜寺城(岩成友通)・山崎城・淀古城(傀儡の管領・細川氏綱)・高槻城(入江春継)・茨木城などを配して防衛にあたらせています。

また、芥川山城自体も、この敵予想進軍経路である南東から最も遠い北西部に本丸(とそれを守る曲輪群・あわせて西曲輪群といいます。)を置き、その東側にある中央曲輪群とさらにその東側の東曲輪群で守る構造となっています。

以上のように芥川山城は、西から順に西曲輪群・中央曲輪群・東曲輪群という3つの曲輪群が並んだ構造となっているため、連郭式山城に位置づけられます(北・西・南を川で守っているので、梯郭式構造も有しています。)。

東曲輪群

以下、主郭部から最も遠い東曲輪群から順に紹介して行きます。

(1)搦手道

芥川山城の大手道は中央曲輪群につながっているのですが急勾配となっていて登りはきついため、現在は、搦手道となる東曲輪群に入る東側の山道ルートから入るのが楽です。

道が細く滑りやすいのですが、足元に気を付けて頑張って登っていきましょう。

(2)東曲輪群

・曲輪㉗

・曲輪㉖

・曲輪㉕

㉕曲輪には墓石が並んでいました。

・曲輪㉔

・曲輪㉓

・曲輪㉒

㉒曲輪にも墓石がありました。

(3)竪土塁

堅土塁はいわばバリケードの役割であり、主に敵が壁を登って曲輪内に侵入してくるのを防ぐ防衛設備です。

(4)土橋

土橋は、東曲輪群と中央曲輪群の境に位置する、土で道を細く盛って一本橋のような道路形状をした中央曲輪群に入る直前の防衛設備です。

土橋の両側が堀切となっています。

堀切の中央部分に細い土橋をかけ、この土橋に対して両端の張り出した部分によって横矢をかけて守る構造です(イメージは,上図のとおりです。)。

土橋を越えるとS字状となった切通し構造の虎口(東虎口)があり、この虎口から中央曲輪群に入ります。

中央曲輪群

中央曲輪群へは、前記の東曲輪群から土橋を通って入るか、または大手道を通って大手門から入って行くこととなります。

(1)大手道

大手道は中央曲輪群の西側を登っていく構造となっており、登って行くと中央曲輪群の虎口に到達します。

なお、大手門登城口付近の石垣の組み方は、三好長慶時代の技術ではない方法によっているため、その設置時期について争いがあります(三好長慶のもう一つ居城飯盛山城にも同様な石垣があるために三好長慶時代に構築された可能性も否定できない一方で、後の城主である高山友照・重友親子時代に築かれたという説もあります。)。

大手道の途中には鳥獣移動防止のための柵が設けられ、また出入りのための扉が設置されていますので、出入りする場合は鍵を開けて扉を通り、通った後はまたちゃんと鍵をかけていきましょう。

(2)虎口(大手門石垣)

この中央曲輪群南側虎口にある大手門跡には当時の山城としては珍しく石垣が組まれています。

山城に石垣を使用し始めたのは六角義賢の観音寺城・織田信長の安土城からと考えられており、芥川山城の時代の山城の大手道には通常石垣が積まれていないはずなのですが、芥川山城の大手門虎口にはこの時代の城としては珍しく石垣で組まれていました。

これは、防衛のためというより、登城する者に対して城主の威光を見せつけるという意味があったのではないかと考えられています。

芥川山城で最も有名なスポットであり、続100名城スタンプにもなっている場所です。

(3)中央曲輪群

・曲輪㉑

・曲輪⑳

出丸(曲輪⑲)

中央曲輪群の最南端部に築かれた出丸には櫓が構えられていた可能性があると考えられています。

・曲輪⑱

・曲輪⑰

・曲輪⑯

西曲輪群(主郭部)

(1)西曲輪群

・曲輪⑮

・曲輪⑭

・曲輪⑬

・出丸・田ノ丸(曲輪⑫)

・曲輪⑪

曲輪⑪は西曲輪群の南側にせり出した部分にある曲輪で、高槻市内が一望できるビューポイントでもあります。

天気がいい日であれば右側に大阪梅田のビル群、あべのハルカスが見えます。

ここから先に進むといよいよ主郭部です。

・曲輪⑩

・曲輪⑨

・曲輪⑧

・曲輪⑦

・曲輪⑥

・曲輪④・曲輪⑤

曲輪④・曲輪⑤への経路が封鎖されており、これらを確認することはできませんでした。

・曲輪②

主郭すぐ南の曲輪②は、その位置から重要拠点であったことが想定されます。

また、その見晴らしのよさから、現在は登ってきた人の山頂部休憩ポイントとなっています。

(2)曲輪③

令和2年11月から曲輪③の発掘調査が行われ、三好長慶時代に、ここ(上の写真のシート部分・下の写真がシートをめくったところ。)に塼列建物(東西4.2m×南北4.2m)や礎石建物(東西7.5m以上×南北6.0m以上)などの大型建物があったことが確認されました。

なお、塼列建物とは、建物の柱や土台の基礎となる礎石の周囲に四角い瓦質の板である「塼(せん)」を廻らせた建物であり、ここにあった塼列建物は、土蔵のような建物であったと考えられ、蔵の機能を持つ櫓であった可能性が指摘されています。

(3)主郭(本丸、曲輪①)

芥川山城の主郭跡は三好山の山頂部に位置します。

(4)主郭御殿?

高槻市教育委員会によって行われた主郭部の発掘調査により御殿様の施設の礎石が発見され、その規模から東西約6.6m・南北約3.9m程度の建物が建っていたものと考えられています。なお、調査により、この御殿様の建物には4つの部屋があり、その建物に周囲に縁側が巡らされていたことがわかっています。

山城では、居館は山麓部に建ててそこを生活の拠点とし、山頂部には倉庫程度の簡単な施設が建設されるにとどまるのが通常と言えますので、この時代の山城の山頂部に住居空間が建設されているというのは極めて珍しいものといえます。

(5)三好長慶を祀る祠

主郭部には、三好長慶を祀る祠があり、江戸時代の絵図にも「三好長慶社」という記載が見受けられることから、古くから代々引き継がれてきた祠であると考えられています。

芥川山城廃城

三好義興時代(1560年)

三好長慶は、永禄3年(1560年)、家督と芥川山城を嫡男・三好義興に譲り、自身は河内国・飯盛山城へ移ります。

もっとも、永禄6年(1563年)8月、三好義興が22歳の若さで急死し、また三好長慶自身も永禄7年(1564年)7月に飯盛山城で没します。

そのため、以後、芥川山城には、三好長逸が城主となって入ります。

織田信長の芥川山城接収(1568年9月)

元禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長は、足利義昭を京に届け、自らは京に入ることなく摂津国に侵攻します。

このときまでに三好政権の中枢は飯盛城に移っていたのですが、いまだに三好政権の政治の中枢的機能が芥川山城に残っていたため、将軍権力を取り戻すために芥川山城の制圧を進める必要があったからです。

そして、織田信長は、永禄11年(1568年)9月28日(または30日)、高槻・天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに攻略します。なお、このとき三好長逸は細川昭元を連れて阿波国へ逃れました。

織田信長は、一旦足利義昭と共に芥川山城に入って畿内の情勢を見定め、その安全を確保した後自身もようやく入京します。

和田惟政時代

織田信長は、入京に際して、足利義昭の配下であり「摂津三守護」でもあった和田惟政に芥川山城を与えます。

その後、永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆が将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こしたのですが、このとき和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たしたため、この功により和田惟政には高槻城も与えられます。

高山友照・高山右近時代

芥川山城と高槻城を得た和田惟政は、自身は高槻城に入ることとし、芥川山城には家臣の高山飛騨守友照を城代として入れます。

ところが、その後、和田惟政は、元亀2年(1571年)8月に起こった白井河原の戦いで荒木村重方の中川清秀に討ち取られます。

芥川山城廃城 (1573年ころ?)

和田惟政の死により、息子の和田惟長が家督を継いだのですが、これを好機と見た高山友照・高山重友(高山右近)父子により元亀4年(1573年)4月追放されます。

そして、高山友照・重友(右近)父子は、居城を高槻城と定めて芥川山城を廃したため、このころに役目を終えた芥川山城は60年の歴史を閉じています。

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