【安土城(日本100名城51番)】織田信長の最後の城

全国統一を目前にして夢破れた織田信長の最後に拠点が安土城です。

山城であるにもかかわらず石垣を巡らしたり、最初に石垣の上に天守を乗せたりと革新的な技術も数々見受けられます。

また、整備・発掘調査により歴史の解明も進み、観光のために訪れるにも最適な城かもしれません。

本稿では、そんな安土城について、できるだけ簡単にその歴史・縄張り等について説明したいと思います。

安土城築城

安土城築城の経緯

織田信長は、天正3年(1575年)11月28日、岩村城の攻略などで目覚ましい活躍ぶりを見せた嫡男・織田信忠に織田弾正忠家の家督を譲り、当時の織田家本拠地であった岐阜城を与え、自身はより京に近い近江国の安土山に新城を築いて本拠とすることに決めます。

このとき、織田信長がなぜ安土山を選んだのかを記した文献が存在しないためその本意についての正確なところは不明ですが、京に近い上、周囲に置いた支城と合わせて琵琶湖水運を牛耳ることが可能となり、またその後の上杉謙信との戦いのための行軍準備の際の北国街道・東山道の起点となりうるといった様々な観点から選地がなされたのではないかと推測されます。

場所としては、すでに近くの繖山(きぬがさやま、標高432.9m)に観音寺城があったため新城を築く必要はなかっなのではないかとも考えられるのですが、織田家では、この前後に明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、津田信澄の大溝城など立て続けに琵琶湖畔に新城が築かれていますので、安土城築城もそのトレンドの一環だったのかもしれません。

安土城の完成(1579年5月)

天正4年(1576年)正月、織田信長は、当時琵琶湖の内湖に接していた現在の安土山に安土城の築城を開始します。

総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次(石垣普請は、坂本の穴太衆。)、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたり、11ヵ国から労働者が集められて工事が始まります。

そして、天正7年(1579年)5月、天守完成により、織田信長が岐阜城から安土城に移り住みます。

安土城の歴史的位置付け

安土城は近くにあったかつての六角氏の居城であった観音寺城(滋賀県近江八幡市)を模範として、山城であるにもかかわらず総石垣で築かれました。

安土城は、石積みの技術の発展により城郭の主流が山城から平山城・平城に移行する過渡的な時期に築かれた城で、初めて石垣に天守を乗せる形で造られた当時としては画期的な城でもありました。

石垣の普請については、滋賀県坂本村穴太の石垣職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって行われたと言われています。

言われているのですが、実際には、織田信長は安土城の前の岐阜城などでも石垣を築いていますので、実際には穴太衆だけでなく、むしろ主力は岐阜・尾張の石工ではなかったかと思われます(当時の資料には、穴太衆の名は出てきません。)。

もっとも、安土城の石垣の完成度は極めて高く、この石垣よって、それまでの「城=土造り」から、「城=石垣造り」となるに至るきっかけとなったという点でも極めて重要な転換期の城です。

安土城の縄張り等

安土城は、当時琵琶湖に突き出る形で存在した標高199mの安土山全体を曲輪として利用し、北側・東側・西側の三方を琵琶湖で守る梯郭式山城です(現在は、安土山の北側は平地となっていますが、当時は内湖が及んでいました。)。

昭和21年(1946年)から始まった干拓工事により北・東・西の湖と共に埋め立てられてしまったために現在は残っていませんが、南側にも堀を巡らして防衛していました。

そして、安土城は山城ですので、当然ですが安土山の起伏に従って曲輪が配置されています。

具体的には、安土山の山頂部に天守(安土城では「天主」といいました。)が築かれ、その西側に二の丸、東側に三の丸を配して内曲輪とし、その他の山腹を利用して外曲輪として家臣の屋敷を配置する城郭構造としています(もっとも、家臣の屋敷配置は全て後世の推測である「伝」ですので、参考程度にとどめて下さい。)。

なお、山腹にあった家臣の屋敷は、1つ1つが独立した曲輪構造をしてそれぞれが単独の防衛拠点となり得ました。

外曲輪

(1)大手口

安土城南側には、東西約110mに亘って石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁が設けられた上で、このわずか110mの間に4箇所もの出入口が設けられています。

通常の城郭では、1方面の出入口は通常1つであるのが一般的ですが、複数設置された安土城は一般的な城郭構造と比べて大きな違いがあります。

一説には、織田信長が、安土城への天皇の行幸を計画していたことから、南側に設置された4つの門のうち、最西にある西枡形虎口以外の3つの門は行幸などの公的使用のためのものとして京の内裏の南側三門を模したものとも言われています(公的行事のためのものであるため、日常は使用しない。)。

その結果、安土城の南側の門のうち、城門として使用されていたのは最西にあった西枡形虎口のみと考えられています。

(2)大手道

大手道は、大手口から内曲輪に通じる道です。

安土城築城当時は、大手道は6mもの幅を持って広く真っすぐに伸びるように造られ、その両側に作られた曲輪群に屋敷が立ち並んでいました(左が当時のイメージ、右が現在の姿です。)。

防衛上の役割が弱いこのような道が作られた目的は明らかではありませんが、一般人の通行が禁止されていたことなどから特別な賓客を迎えるための道であったとも考えられています。

滋賀県により平成元年(1989年)から20年にわたって行われた発掘調査により大手道の当時の状況が明らかとなったため、その後石垣・石段の修復が行われ、現在に至っています。

なお、他の城と同様、大手道・石垣には石仏等の多くの転用石が見られ、大手道登城道中にいくつか紹介されています。

(3)百々橋口道

百々橋口道は、大手道の南西側にある道で、信長公記の記載からすると、この百々橋口道が当時城に入ろうとする一般の者が使用する道だったと推測されています。

現在、安土城の観光ルートは、大手道を通って内曲輪を巡り、百々橋口道を通って帰るように指定されていますので、観光の際には帰り道に通るルートとなります。

また、百々橋口道から内曲輪への通り道が摠見寺の境内になっていたため、当時は、安土城に入るためには必ず摠見寺の境内を通らなければならない構造となっていました。

(4)搦手道(非公開)

搦手道は、北東側から内曲輪に入るための道ですが、公開されていないため、詳細を確認することはできませんでした。

(5)摠見寺

摠見寺は、百々橋口道の中央辺りにあります。

現在は、境内に当時の建築物である仁王門と三重塔が残り、当時の面影を残しています。

なお、持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られますが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは安土城のみです。

(6)伝羽柴秀吉屋敷

大手口から大手道を登り始めたすぐ左手に、伝羽柴秀吉邸があります。

発掘調査により、5棟の建物跡や櫓門跡が見つかっています。

(7)伝前田利家屋敷

大手口から大手道を登り始めたすぐ右手(伝羽柴秀吉邸の道路向かい)があります。

発掘調査により、4棟の建物と木樋暗渠跡が見つかっています。

内曲輪(主曲輪)

(1)黒金門

城下町・外曲輪から、百々橋口道・七曲口道から登ってきた場合に、安土城内曲輪へ入るための入り口にあった門です。 最も重要な出入口であったため城内の他の石垣と比べ圧倒的に巨大な石が使用されています。 また、高石垣の裾を幅2~6mの外周路が巡り、外周路の要所には隅櫓が設置され、防衛されていました。 天正10年(1585年)6月に起きた火災により、黒金門付近も類焼し、多量の焼けた瓦が出土しています。

(2)伝長谷川秀一邸跡

二の丸西側(黒金門のすぐ北側)には、織田信長の小姓として支えて寵愛された長谷川秀一邸跡と伝えられる曲輪があります。

現在、この伝長谷川秀一邸跡には、織田信長の子の中で唯一江戸時代に大名家として残った織田信雄とその後3代の供養塔が置かれています(5代織田信休以降は丹波市に置かれています。)。

安土城に火を放ったとの疑いがある織田信雄の供養塔が安土城内にあるというのもなんだか微妙な感じがします。

(3)三の丸(伝名坂邸跡・非公開)

(4)二の丸

二の丸は、本丸の西側に置かれた曲輪で、現在は織田信長の霊廟が置かれています。

(5)本丸

①曲輪構造

天守台を眼前に仰ぐ位置にある東西50m・南北34mの曲輪で、千畳敷とも言われます。 三方を天守台・本丸・帯曲輪・三の丸の各石垣で囲まれ唯一南側のみ開けています。

②本丸御殿

本丸のうち、東西34m・南北24mの範囲で、7尺2寸(約2.18m)間隔で整然と碁盤目状に配置された建物礎石が発見されています(一辺約1尺2寸の柱跡が残るもののあります。)。

この点、武家建築物の柱の間隔は、通常6尺5寸(約1.97m)であり、この建物が武家のための建築物ではないことを示しています。

また、礎石の配列から、中庭を挟んだ「コ」の字型に配置された3棟の構造物が立っていたと考えられ、天皇が居住していた京の内裏清涼殿と酷似していることがわかっています。

太田牛一が記した信長公記に、安土城天守近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、その中に「皇居の間」が設けられたと記載されていますので、おそらくこの本丸に天皇を迎えるための施設として本丸御殿が準備されていたものと考えられています(ちなみに、本丸御殿は上の写真の上段の建築物です。)。

天守

地下1階地上6階建ての7重構造、高さが約32mあり、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城だったそうです。

天守台石垣も残存はしていますが、往時のままで残っているわけではありませんので、想像を掻き立てる一因ともなっています。

天守の具体的な姿についても長年研究が続けられ、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいますが、信長公記や安土日記に基づいてイエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているものの解釈をめぐっては意見が分かれており未だその結論は出ていません。

中央に礎石がない 高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴ですが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けており(他の礎石は全て現存してています。)、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認されまたそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土しています。発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されています。

一般の城の通常の天守は日常的な居住空間としては使用されなかったのですが、織田信長は安土城天守で生活していたと推測されています。

城下町

安土城は、琵琶湖水運の要衝地であるばかりでなく、山麓には東山道(中山道)の脇道である下街道が通っており、陸運上も重要な地でした。

天正5年(1577年)6月、織田信長は城下町安土を新しい商業、交通の拠点とするため、安土城下に「13ヵ条の掟書」を発布します。

これは、織田信長の経済政策を示すもので、いわゆる楽市楽座令の典型です。

安土城の防衛上の問題点

安土城単体の防衛力

城郭とは、侵入してくる敵を撃退するための防御施設です。

そのため、城郭においては、侵入者を矢や鉄砲で撃退するため、侵入者の侵入速度を遅くさせる工夫が随所に散りばめられているのが通常です。

具体的には、道を狭くして少数でしか通れないようにし、何度も曲がり角を曲がらせて勢いをそぐと共に先が見えないようにし、階段の高さをバラバラにして下を見ながらでないと登れないようにするなどの構造となります。

ところが、安土城は、南側にある大手門から伸びる大手道が道幅が6mもある上100m以上も一直線に登って行けるようになっているなど、防衛上極めて脆弱な構造となっています。

その他にも、安土城には井戸や武者走り・石落としといった設備も乏しく、籠城するには不安事項の多い城となっています。

これらの防衛面の脆弱性に鑑みると、織田信長は、安土城を軍事拠点としてではなく、邸宅の延長として政治的な機能を優先させて作られたものと考えられています。

誤りを恐れずに言うと、見た人に強烈なイメージを持たせるために作ったテーマパークと言えるかもしれません。

支城群との複合防衛構造

織田信長は、琵琶湖南東に築いた安土城に自らが入り、北東の長浜城(羽柴秀吉)、北西大溝城津田信澄)、南西の坂本城(明智光秀)で一大ネットワークを構築して琵琶湖の水上水運を牛耳るとともに、琵琶湖周囲の支城ネットワークによって相互の後詰めを可能とすることで安土城単体での防衛力の弱さを補っていたと考えられます。

安土城の廃城

明智軍による安土城占拠(1582年6月)

天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において、明智光秀の謀反により織田信長が横死します(本能寺の変)。

このとき、京にいる織田信長に代わって、蒲生賢秀が留守居役として安土城に在城していたのですが、蒲生賢秀・氏郷父子は本能寺の変の報を聞き、直ちに織田信長の妻子を連れて安土城を退去し本拠地日野城に戻っています。

同年6月5日、明智光秀配下の明智光満が、空城となっていた安土城に入城します。

同年6月14日、前日の山崎の戦いで明智方が敗れたため、支え切れないと判断した明智光満が安土城から退城します。なお、同年6月15日、原因不明の出火により、安土城天守・本丸等が消失しています。

三法師入城(1582年12月)

天守・本丸焼失後も、安土城は二の丸を中心に織田家の主要城郭として機能し、天正10年(1582年)12月、三法師(織田信忠の嫡男・後の織田秀信)が安土城に入城します。

もっとも、三法師が、翌年岐阜に移ったため安土城は空城となります。

安土城廃城(1585年8月)

天正13年(1585年)8月、豊臣秀次が、八幡山城を築城して城下町ごとその機能が八幡山城に移されたため、これに伴って安土城が廃城となっています。

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