【現存四御殿】現存十二天守よりも貴重な本丸御殿と二の丸御殿

これまでに日本国内に2万とも3万とも言われる城が築かれました。

そのうち、現在、城址としてその名残が残っているのは僅かであり、さらに一般人が見学して楽しめるのは数百城程度しかありません。

特に、江戸時代以前に建てられ現存している御殿は僅か4つしかありません(現存十二天守よりも数が少なくとても貴重です。)。

そこで、本稿では、この現存する貴重な4つの御殿(本丸御殿2つ、二の丸御殿2つ)を簡単に紹介します。

現存する2つの本丸御殿

川越城・本丸御殿

現存本丸御殿の1つは、武蔵国・川越城のものです。

川越城は、武蔵野台地の北東端に位置する平山城で、川越藩の藩庁が置かれた城です。なお、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されるのが一般的です。

川越城・本丸御殿の建築時期は、嘉永元年(1848年)であり、16棟、1025坪(約3400㎡)の入母屋造りの御殿として松平斉典によって建てられました。

その後、明治維新の廃城令を経て、川越城内の建物も少しずつ解体されていき、現在では、玄関・大広間部分と家老詰所(移築復元)のみが残されています。

① 玄関

玄関は、川越城・本丸御殿の入り口となる銅板葺の唐破風屋根と霧除けを持つ建物です。

間口19間・奥行5間で車寄せを持ち、金色の葵の御紋が目を引きます。

② 大広間

大広間は、玄関から本丸御殿に入ってすぐの場所にある36畳の広さの部屋であり、9尺の廊下(3種類の木材が使われています。)で四方を囲まれ、板間で玄関と区切られた部屋です。

大広間は、来客があった際に城主が現れるまでの待機のために使われました。

さおべり天井で奥行3間の座敷があり、引き戸に描かれた「杉戸絵」が残っています。

玄関・大広間部分は、入間県県庁・入間郡公会所・煙草専売局淀橋支局川越分工場・川越武道奨励会修練道場に転用された後、川越市立第二中学校(現在の初雁中学校)の校舎や屋内運動場として使用されていました。

そのため、大広間の天井には、バレーボールが当たってついた黒い痕跡が残っているのが特徴的です。

③ 家老詰所(移築復元)

家老詰所は、 川越藩の幕政を司る家老達が常駐した場所であり、現在は家老の人形が展示してあります。

家老詰所については、一旦解体されて明治6年(1873年)に上福岡市の福田屋の分家に移築され昭和62年まで母屋として使用されていたのですが、その後に再度川越城内に移築されたものです。

光西寺に残された「川越城本丸御殿平面図」によると、元々は本丸御殿の奥に位置していたのですが、再築の際に往時より約90m東側に置かれましたので、現在の位置は往時の位置とは異なっています。

高知城・本丸御殿

現存本丸御殿のもう1つは、土佐国・高知城のものです。

高知城は、高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城で、関ヶ原の戦いで改易された長宗我部家に代わって土佐国に入った山内一豊により改築されています。

高知城は、本丸全体がそのまま現存し、日本で唯一天守と本丸御殿が揃ってている貴重な城です。

高知城・本丸御殿の建築時期は、寛延2年(1749年)です。

高知城は、享保12年(1727年)年に発生した享保の大火で追手門以外の建築物が焼失したのですが、寛延2年(1749年)に本丸御殿の再建がされました。

その後、廃城令や、太平洋戦争での高知大空襲を奇跡的に免れ、現在までその姿を残しています。

現在は、懐徳館(かいとくかん)と呼ばれ、土佐藩や山内家所縁の品を展示しています。

高知城の本丸御殿は、他の城の本丸御殿とは異なり、城主の居住するためではなく正規の対面所としてつくられたもので、構造は、本瓦葺・平屋建ての天守入り口となっています。

出入口部分の建物は起り(むくり)屋根になっており、内部は、藩主の座所である一段高い上段の間、二の間、三の間、四の間、納戸、三畳二室、雪隠、入側などから成りっています。

なお、上段ノ間西側の納戸構えは、警護の武士が詰める隠し部屋(武者隠し)となっています。

現在する2つの二の丸御殿

掛川城・二の丸御殿

現存二の丸御殿の1つは、遠江国・掛川城のものです。

掛川城は、遠江国東部の中心に位置し、東海道上の拠点となる重要な城です。

その重要性から、関ヶ原の戦い以降、徳川譜代大名が次々と城主を歴任し、最終的には太田氏(太田道灌一族の系統)が入り明治を迎えています。

現存する掛川城・二の丸御殿の建築時期は、文久元年(1861年)ころです。

安政元年(1854年)に発生し安政の東海大地震により、もともとあった御殿が倒壊したため、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたのが現在の二の丸御殿です。なお、掛川城の御殿は本丸にあったのですが、二の丸に移されています。

その後、二の丸御殿は、明治2年(1869年)まで掛川藩で使用され、掛川城廃城後は、学校や掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などとして使用されました。

掛川城・二の丸御殿の外観は、御殿建築の屋根にみられる起り破風と巨大な蕪懸魚(かぶらげぎょ)が印象的であり、また安政の大地震後に太田資功(すけかつ)により再建されたことを示すものとして、長囲炉裏の間の天井に太田家の「桔梗紋」と替紋の「違い鏑矢(かぶらや)」が残されています。

掛川城・二の丸御殿は、7棟からなる書院造の建物の集合体で、全体としては、それぞれの用途に応じしつらえの異なる約20部屋に分かれています。なお、江戸時代には身分によって入り口が異なっており、藩主や家老は式台玄関から、その他の武士は玄関東側から、足軽は北側の土間から入ったそうです。

7棟の中でも最も重要な対面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間からなります。

また、藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなり、東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、書類の倉庫である御文証などがあります。

なお、小書院棟の北側には勝手台所があったのですが、明治時代に撤去され失われています。

二条城・二の丸御殿

現存二の丸御殿のもう1つは、京の二条城です。

おそらく最も有名な御殿です。

二条城は、徳川将軍が京に滞在する際の居住地として使用された城で、二の丸御殿は、征夷大将軍任命式典の際に徳川家康によって築かれた二条城の中心的建造物です。

将軍様の御殿ですので、現存する城の御殿のなかでも最も豪華絢爛で、国宝に指定されています。

築城直後の二条城は現在の二の丸御殿が収まる程度の広さだったと考えられており、御殿もそれほど大きなものではなかったのですが、寛永3年(1626年)に3代将軍・徳川家光が後水尾天皇の行幸のために大改築した際に二の丸御殿も改築されて現在の大きさとなったと考えられています。

二条城・二の丸御殿は、東大手門から二の丸に入ると正面の西方に建つ築地塀に囲まれ、廊下で繋がった全6棟の建物からなる武家書院造の代表的遺構です。

二の丸御殿の廊下は、人が歩くと鳥の鳴き声のような音が鳴る構造となっており、「鶯(うぐいす)張り」と呼ばれています。なお、大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園(二の丸庭園)が設けられています。

①  遠待

二条城の二の丸御殿の入り口のある建物は「遠待」と呼ばれ、その玄関には車寄が設置されています。

この車寄は、京にある城という立地の特殊性から、大名のみならず公家の来訪もるため、公家の牛車がそのまま入っていけるよう大きな造りとなっています。

なお、現在唐破風車寄の屋根は、現在は檜皮葺となっていますが、明治期の修理以前は瓦葺きでした。

遠待自体は、二の丸御殿最大の大きさの建物であり、来殿者が最初に通される部屋がある控える間として使用されました。

二条城・二の丸御殿に来殿した者は、まず遠待に通されて、将軍様の準備ができるのを待たされることとなります。

そのため、控室である遠待には、徳川将軍の権力を実感させるため、座った際の目線の高さの襖や壁に獰猛な虎と豹の絵が描かれており(そのため、虎の間とも呼ばれます。)、徳川将軍に待たされた居並ぶ大名達を威圧し萎縮させるための工夫がなされています。

なお、遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。

② 式台

遠侍を出て、長い廊下を通って奥に進んで行っ先にあるのがと、「式台」(しきだい)です。これも国宝です。

式台は、表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなる老中が将軍への取り次ぎを行うために使われた場所で、徳川家繁栄の象徴として巨大な松が描かれています。

式台の間は、老中と大名が挨拶をし、将軍への取次ぎが行われたとされる部屋です。障壁画には、永遠に続く繁栄を表すおめでたい植物として松が描かれています。

③ 大広間

式台の奥はいよいよ将軍との謁見の間である「大広間」です。

式台から大広間に行くには、何度も角を曲がって行かなければならず、なかなか到着しない道中は、一大名と将軍との距離感を表しています。

大広間は、一の間と二の間に分かれており、合わせて92畳もの広さがあります。

大広間は、将軍の威厳を最大限に高める仕掛けが随所に施されています。

将軍が奥に座り、そこから相当の距離を開けて謁見するという造りになっているのですが、さらに側面に描かれた松の絵が奥に行くに従って細く描かれ、更に将軍が遠くに見えるように工夫されています。

また、将軍の背後には松の絵が描かれ、その前に座った将軍のオーラの様に見えるようになっています。

さらに、将軍が座る場所の天井は一段高く造られており(二重折上格天井)、その下が最も格式の高い場所であることを示しています。二重折上格天井は、通常は仏像の上に施されれるものであり、徳川将軍が神仏と同格化されているのがわかります。

④ 黒書院

黒書院は、江戸時代には「小広間」と呼ばれ、大広間に次ぐ公式の場であり、将軍と徳川家に近しい親藩・譜代大名や高位の公家などの対面に使用されました。

⑤ 白書院

白書院は、江戸時代には「御座の間」と呼ばれた将軍の居間兼寝室でした。

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